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【第2回】同類

「洋平!」

 海面から顔を出した洋平の背後で、自分を呼ぶ声がした。

 視界の三十メートルほど先に、陸から海へと突き出した埠頭があり、その中ほどで手を大きく振る青年が見えた。

 青年は白の半袖シャツに黒い学生服ズボンを穿いていた。頭を丸く刈り、目玉と歯だけが白く見えるほど肌は赤黒い。

「おーい、こっちこっち!」

 青年は大声を張り上げると、後ろに止めてあった白いスクーターにひょいと跨(またが)った。

 背は低く、手足は短い。ズボンがはち切れるほどに太い足は、貧乏揺すりを繰り返し、シャツから覗く筋肉質の腕は、ぶるぶると震えるスクーターのハンドルをがっちりと握っていた。

 おんぼろのスクーターで空吹かしを数回、辺りに高らかに響かせる。それから海面に浮く洋平に目をやると、歩くのと大差ない速さで、のろのろと埠頭の上を進んでいった。

 洋平は息を大きく吸い込むと、また海の中へ潜り込んだ。

 静寂を期待したが、ごーという音が耳に纏わり付いた。もう戻れないのだ。

 洋平は再び海上へと顔を出すと、額に張り付いた髪を一気に後方へと掻き上げた。

 海はなだらかに呼吸していた。

 ゆったりとしたリズムで体が持ち上がり、そして沈んでいった。

 波に漂う洋平の顔を、東の空高く昇った太陽がじりじりと焦がしていく。

 水深五メートルの海は底が見えるほど透き通り、青緑色の水を掻き分ける足の先で、小魚の群れが異物を避けるように機敏に転回を繰り返していた。

 なんて気持ちがいいんだ、洋平はそう思った。

 浅葱色の空、青緑色の海。皮膚を圧迫する水圧と、弛緩する筋肉。

 波に揺られて、ぷかぷかと浮かんでいる、ただそれだけで、こんなに暖かく、こんなに柔らかい。こんなに大らかで、自由だった。

 海水に支えられたまま、空を仰いで大の字に浮かぶ。

 信じられない。

 世界がこんなにも丸くて、大きいなんて、嘘みたいだった。

 このままでもいいのかもしれない。

 ここを抜け出す必要なんて、ないのかもしれなかった。

 だって僕は、少なくとも、心地良い世界の一部を知っているのだから――。

 洋平はそんなことを考えながら、のんびりと海面に浮かんでいた。

 笛を小刻みに吹いたような海鳥の声が耳に届く。そして彼らの声に混じって、聞いたことのある低い破裂音が聞こえてきた。スクーターの吹かし音だった。

 洋平はくるりと音の鳴る方へ向きを変えた。それから埠頭をのろのろと走るスクーターを目に留めると、魚の尾鰭(おびれ)のように両足を強く蹴り出した。

 海面がうねり、無数の泡と飛沫(しぶき)が巻き上がる。

 洋平は水を掻き分けた。そうして長い手足を巧みに動かしながら、埠頭に沿って設置されたテトラポットへ向かって、悠々と泳いでいった。

 

 埠頭に上がった洋平は、肌に張り付いたトランクス一枚で、コンクリートを濡らしながら歩いていった。

 ほっそりとした体付きは、生まれてから一度も変わっていない。体重二千六百グラムの未熟児は、食べることに興味を持たず、またどれだけ食べても太ることなく成長した。小学校では列の先頭で手を腰に当て、中学校では騎馬戦でいつも担がれる側だった。高校に入ってから多少、背は伸びたが、それでもその必要最小限の筋肉だけで覆われた体は、女と間違えるほどにひ弱で、華奢(きゃしゃ)だった。

「ヨウヘーイ! ヨウ、ヘーイ!」

 陸の方から自分を呼ぶ声がした。

 埠頭の付け根、草扉(くさとべら)の群生の隣に、陸から海へと、小型の船舶を降ろす緩やかなスロープが続いていた。その傾斜面の一番上、漁港へと続く道端に、薄汚れたスクーターに跨った大地がいた。

 大地は、洋平と同じ高校に通う同類だった。高校と言っても、全生徒数が百人にも満たない田舎の高校だが、同類と言ったのは、二人は同じように学校をサボり、同じように暇を持て余し、同じように自分達の置かれている現況を憂えていたからだ。洋平はその答えを海に求め、大地は地元の青年団に求めた。大地は青年団の中でも最年少で、他の者達は皆、日中仕事をしているから、授業を抜け出す時は、近くのボウリング場で時間を潰したり、喫茶店で携帯ゲームに興じたりしていた。そしてどうにもこうにも暇で仕方なくなると、こうして埠頭にやってきた。勿論、学校へ行っていない唯一の同類を探すために。

「早くしろ! もう新しい先生、来てっぞ!」

 そう叫ぶ大地に、洋平も手を振って応えた。

 二人は確かに同類だったが、その一方で、人としての根本――いや恐らく――生まれる以前からの環境という点で異なっていた。

 大地の父親は、この辺りの土地の大部分を所有する大地主で、地元の権力者だった。新しい道路を作るとなれば、町村長が相談をしにくるし、橋を掛けるとなれば、市議会議員が協力を求めてやってくる。病院では待ち時間なしで診察を受けられるし、彼だけの特別な個室も用意されていた。地元の学校の式典には、いつも来賓として招かれ、青年団、消防団、それから警察まで、この村のことは本当に隅々までよく顔が利いた。そんな父親だったから、大地が子供の頃は、町村長選挙や町議会議員選挙が近づくと、よく家にスーツを着た『オジサン』達がやってきた。そして『オジサン』達は決まって、「お父さんみたいに立派になりなさい」と言って飴をくれた。

「早くしろよぉ!」

 大地は濁声(だみごえ)でそう叫んで、また周囲に空吹かしを木霊(こだま)させた。

 洋平は埠頭の中ほどで、ふと立ち止まった。そしてトランクスの裾からぽたぽたと垂れ落ちる雫に目をやった。

 

 洋平の両親は、東京で共働きをしていた。父は食品会社の広報を担当し、母は近所の老人介護施設のスタッフとして働いていた。六つ上の姉は都心の高校まで電車で通い、洋平は東京の外れにある小学校へ通う。特に何があったという訳ではないが、幸せな日々だった。学校へ行けば、気の合う数人の友達とゲームの話をし、学校が終われば、スイミングスクールで体を動かす。家ではテレビを見ながらごろごろし、母と姉の笑い声に耳を傾ける、そういう日々だった。家族の仲も良かった。週末は家族でモールに買い物に出掛けたり、カラオケに行ったり、演劇を見に行ったり。春は近くの公園で花見をし、夏はキャンプへ、それから冬になるとスキー合宿に行ったりもした。

 それが、洋平が小学校五年生の時、祖父の死をきっかけに事態が一変した。

 父がそれまで働いていた会社を辞め、家業である農業を引き継いだのだ。一人になった祖母を気遣ってのことだった。

 そういうわけで、洋平は、父の故郷、日東村(にっとうむら)にやってきた。

 父が玄関をくぐった時、祖母は、それこそ手を叩いて長男の帰郷を喜んだ。余程心待ちにしていたのだろう、座卓の上には赤飯と鯛の御造りが乗っていた。

 父は農家の長男ではあったが、農業をやったことはなかった。だからインターネットや専門書から農業を一から勉強する必要があった。父は、何でも独力でやりたがる人だったから、本に書かれていたことを真似しても上手く育たない時などは、それこそ休む暇もないくらいに、田畑と農機具倉庫を行き来して働いていた。

 そういう状況だったから、祖母の世話は、母が一手に引き受けていた。老人介護施設で働いていた母だからと、父も安心していたのだろう。祖母の食事、入浴、トイレ、それから掃除、洗濯と、家のことは全て、母に任せっきりだった。

 祖母は、夜中に起きていきなり怒鳴り散らしたりする人だったから、母は相当、手を焼いていた。目に見えないものに怯えたり、感謝の言葉を繰り返していたかと思えば、急に難癖を付けて怒り出したり、とにかく感情の起伏が激しくて、母も祖母をどう扱ってよいか分からず疲弊していった。父に相談しても、父はそれどころではないと取り合わない。そうかといって、越してきたばかりで近くに頼れる人もいない。だから母は、毎日、溜息をついていた。

 大地と出会ったのは、ちょうどその頃だった。

 それは校庭の水飲み場で、蛇口から水を飲んでいた時のことだった。洋平は、背後から後頭部にボールをぶつけられて振り返った。

「お前の名前、ナニ?」

 蛇口を避けようと手をついたせいで、Tシャツがずぶ濡れだった。

「み、水谷(みずたに)、洋平(ようへい)」

 Tシャツの裾から滴る水滴を見つめながら、洋平は言った。

「へぇー。俺、瀧大地(たきだいち)。お前、東京から来たんだべ?」

 無遠慮で、威圧的で、背後に子分を数人引き連れた大地の第一印象は、『なんてむかつくやつ』だった。

 

「新しい先生、東京から来たっぽい!」

 大地の叫び声に、洋平はふと我に返った。

 足元の水溜りから上空へと顔を上げる。

 東京――その言葉が妙に心を揺さぶった。

 天から一本のロープがすとんと落ちてきて、それが肩に触れたような気がした。それに掴まれば、そのまま空へと引き上げられるような気がした。今いるこの場所から、すっとどこかへ運んでいってくれる、そんな気がしたのだ。

 洋平は走り出した。

 海水を撒き散らして埠頭を一直線に駆ける。

 太陽に熱せられた背中はじりじりと焼け焦げ、足裏は炭の上を走るように熱かった。

 埠頭の付け根に投げ出された衣服を掴んで、サンダルを急いで突っ掛ける。そしてそのまま、大地の待つスクーターの後ろに飛び乗ると、大地の肩を二回叩いて、後部座席に掴まった。

 真っ黒に焼けた大地が、白い歯を出してにっと笑う。

 やがてスクーターの吹かし音が、空砲を打ち上げたように、青空へと突き抜けていった。そうしてサドルが大きく前方に沈み込んだかと思うと、二人は風を切って走り出した。

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