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Photo by ImageFX

凰のたまご

 午後の山手線内は混んでいた。

 吊り革を持って立つ人はまばらで、ドア付近に立つ人もそれほど多いわけではないが、車両内のロングシートはどこも埋まり、優先席にも人が座っている。乗客は目を瞑っている人をのぞくと、ほとんどがスマートフォンを眺めていた。朝の通勤ラッシュほどぎゅうぎゅうではないが、他人の匂いが気になる程度には混んでいる、それくらいの混み具合だ。

 話し声のない静かな車両内に、電車の走行音が響いていく。

 がたんごとんと体を揺さぶる振動に目を瞑ったら、すぐに眠りに落ちてしまいそうだった。

 どうして電車の中はこんなにも退屈なのだろう?

 大人はいい。一人一台スマホを持っているから、音楽を聴いたり、動画を見たりできる。

 ロングシートの真ん中に座っていた少女は、隣に座る父親を見上げた。

 父親は耳から白いイヤフォンのコードを垂らしてスマホを眺めていた。

 邪魔をしてはいけない。そう分かっていても暇で仕方がない。

 車窓の外を、何の変哲もない水色の空と灰色のビル群が過ぎていく。
 少女は背負っていた小さなリュックサックを胸の前に抱え直すと、中を覗き見た。

 リュックサックの中には、お気に入りのウサギのお人形とおもちゃのスマートフォンがあった。小さい頃に遊園地で買ったもらったホログラム付きのスマホだ。ボタンを押すと音が出たり、音楽が流れたりする。ただ、電車の中では音を鳴らしてはいけないと、きつく父から注意されていた。

 少女はまたリュックサックを背中に背負った。そして暇を持て余して、車両の中をきょろきょろと見回していた。

 

 今日は、これから群馬にある祖父母の家に行く。通知表は持った。祖父のバースデーカードも持った。祖母の大好きなクッキーも買った。ウイちゃんのおやつは持ってこなかったが、向こうに着いたらいっぱい遊ぶつもりだからべつに良いだろうと思った。

 ウイちゃんのくりくりとした黒目を頭に思い浮かべながら、小さな足をぶらぶらとやる。と、車両の真ん中にある中吊り広告が目に留まった。

 そこには、黒い肌をしたアフリカ系のボクサーが二人、向き合って映っていた。たくましい肉体の二人は、眼光鋭くお互いを睨みつけている。二人の下には『WBC世界ヘビー級王者決定戦 宮本 王者奪還なるか』の文字があった。

 少女は最近、漢字に興味を持っていた。小学三年生になって読める漢字が増えてきたために、何が書いてあるかが分かって面白かったのだ。だから家ではテレビのテロップや折り込みチラシを読み、車で外出する時は街の看板を読んで、親を驚かせていた。親が驚く様子が嬉しいというのももちろんある。

 少女は中吊り広告を見上げながら、読めそうな漢字だけを小声で呟いていた。すると『宮本』の漢字を口にした時、少女はそれが自分と同じ名前だと気付いた。少女はこれまで自分と同じ名前をした人に出会ったことがない。クラスの中にも同じ名前の子はいなかったし、少女は嬉しくなって写真を見つめたが、どちらが宮本か分からなかった。両者ともに肌の色が黒いアフリカ系の選手だったからだ。

「ねえ、パパ?」

 少女は隣に座る父親に小声で話しかけた。

 しかし父親は、耳にイヤフォンをしているせいか、少女に気付かない。

 少女はもう一度言おうとして我慢した。今は父一人の時間。話しかけてはいけないのだ。

 

 やがて外の景色がゆっくりと止まっていった。

 車両内にアナウンスが流れ、隣に座っていた若い女が慌ただしくスマホをバッグに入れた。

 女はすっと立ち上がると、ドアの前に陣取り、電車のドアが開くと同時に急ぎ足で降りていった。

 その女と入れ違いに、たくさんの乗客が噴き出す炭酸の泡のように乗ってくる。若い男女、お婆さん、お爺さん、学生の集団。様々な乗客が乗ってきたが、スーツ姿のその男は誰よりも早く少女に近づいてきて、少女の隣にぽっかりと空いたスペースに腰をねじ込むように座った。そして座れて安心したのか、男は少女に遠慮することもなく肘を広げ、スマホを眺め始めた。

 少女は少し迷惑に感じたが、体を小さくしてじっと我慢した。そして次の駅で降りてくれるといいなと思いながら、また中吊り広告に目をやった。すると、目の前を体の大きな大男が塞いだ。

 びっくりして見上げると、それは天井に頭が届きそうなほど大きな体をした老人だった。

 老人はベージュのコートを着て、頭にはカラフルなニット帽を被っている。足が悪いのだろうか、手にステッキを持っていて、足元には新品の綺麗なスニーカーを履いていた。体が大きいせいか、老人は車両内でひときわ目立っている。まるで車両内に不釣り合いな彫像が置かれたようだった。

 少女が見ていると、老人は少女を一目見て、それから少女の隣に座っている男に言った。

「席を代わってくれませんか?」

 声が太く、怖い感じはするが、顔はにこにこと微笑んでいる。

 しかし男はスマートフォンを手に老人を無視していた。

「席を代わってくれませんか?」

 もう一度、今度ははっきりと男に向かって老人が話しかける。

 すると男はひどく驚いた様子で老人を見上げ、嫌そうに眉根を寄せた。

「膝が痛くてね、立ってられないんだよ」

 よく見ると、老人の肌は真っ黒に日に焼け、たくさんの染みができていた。ニット帽のすき間から見える短くカールした白髪や、綺麗に切り揃えた白い顎ひげは、大富豪のような堂々たる落ち着きと風格を漂わせている。

 すると、訝しげに老人を見上げていた男が席を立った。

 不服そうにぶつぶつと何かを呟きながら、鞄を抱えて隣の車両へと歩いていく。

 老人はじっと男を見つめると、やがて膝を気遣うようにゆっくりと少女の隣に座った。

 チョコレートのような甘い香りがふわっと漂う。

 少女はこの老人が気になって仕方がなかった。肘を広げてスマホを見ていた男はいなくなったが、今はそれよりももっと大きな老人が隣に座っている。しかも老人はステッキを支えに背筋を伸ばして車両内にゆっくりと目をやっていた。ほとんどの乗客がスマホに目を落とす中、周囲とは明らかに違う気配をこの老人は漂わせている。

 すると老人は、コートのポケットから何かを取り出した。

 皺だらけの老人の手には、袋詰めのチョコレート菓子のようなものが見えた。見たことのない青と黄色の袋には、何かの鳥の絵が描いてあって、漢字ではない異国の文字も見える。

 不思議に思って少女が見ていると、老人は袋の中からうずらの卵のような小さくて丸いチョコレートを一つ取り出した。そしてそれを口の中にぽいっと放り込み、美味しそうにむしゃむしゃと口を動かしていた。

 場違いな気配。海外のお菓子。この人は誰なんだろう?――それが少女の抱いた老人の第一印象だ。

 

 やがて老人は青と黄色の袋をポケットの中にしまった。そしてまたゆっくりと車両内に目をやると、隣に座っていた女の人に話しかけた。

「あなたはボクシング、好き?」

 女の人は答えない。不審そうに老人を見て、すぐにスマホに目を戻した。

 すると老人は、女の人の前に立っていた男の人に話しかけた。

「お寿司って色々な種類があるよね? 僕はサーモンが好きなんだけど、あなたは何が好き?」

 男の人は聞こえていないのか、老人を無視してスマホを眺めていた。

 すると老人は、近くにいた人に次々と話しかけていった。

「神社では手を叩くけど、お寺では叩かないよね? あれはどうして?」

「街にはたくさんの自販機があるけど、チップスやチョコレートはないね? どうして?」

 しかし誰も相手にしない。皆、迷惑そうに顔を背けたり、場所を移動したりしていた。

 やがて誰かが咳払いをした。そして誰が言ったか分からないが、「うるさいですよ、静かにしてください」と聞こえた。

 老人はきょろきょろと車両内を見回すと、隣に座っていた少女に目をやった。

「君はうるさい?」

 すると少女がひそひそ声でささやいた。

「おじいちゃん。でんしゃのなかでは、ほかの人に話しかけちゃいけないんだよ」

 老人は優しく微笑むと、また少女に言った。

「どうして?」

「それはね、ほかの人にめいわくになるからよ」

「どうして迷惑になるんだい?」

「だってしずかにしていたい人もいるでしょう?」

 すると老人は、周りにいた大人に「あなたは迷惑?」と話しかけていった。

 しかし誰も老人には答えない。やがて老人は肩をすくめて残念そうに少女を見た。

「なるほど。じゃあ話したい人はどうすればいいんだい?」

「でんしゃをおりてから話せばいいんじゃない? でんしゃのなかでは話してはいけないってルールなの」

「面白いルールだね」

「あたりまえのルールよ。学校でならわなかったの?」

 そう言うと、少女はくすくすと笑った。

 

 それからしばらくは、老人も黙っていた。背筋を伸ばし、床に立てたステッキに両手を乗せて、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

 電車が駅で止まり、乗客が降りていった。

 新しい乗客が乗ってきて、電車はまた走り出した。

 するとしばらくして、また老人が少女に話しかけた。

「電車の中で助けが必要になっても、話してはいけないのかい?」

「たすけって?」

「たとえば、降りる駅が分からなかったり、緊急事態だったり。胸が苦しいとか、足が痛いとか」

「そういうときは話してもいいのよ。むだばなしがだめってだけ」

「無駄話?」

「そうよ。せんせいが話しているときに話をしちゃだめでしょ? それとおなじ」

「ここに先生はいないよ?」

「そうだけど、だめなものはだめなの」

「そうなんだね、僕は無駄話のつもりはないんだけどな。だれがそれを決めるの?」

「それって?」

「無駄話かどうか」

「みんなよ」

「みんなというのは、ここにいるみんなかい?」

「そうよ」

「お互いに話さないで、どうやって決めるんだい?」

「それはね……」

 少女は言葉に詰まって父親の方を見た。

 父親はまだ耳に白いイヤフォンをはめてスマホを眺めていた。画面の中では、父親の指の動きに合わせて、赤や黄色の火の玉が花火のようにきらきらと光を放って消えていた。

「とにかく、いまはだめなの」

 少女は言った。すると老人は微笑んだ。

「君のお父さん?」

 少女は無言で頷いた。

「お父さんも話さないんだね」

「パパはね、ひとりのじかんがほしいんだって。いまはそういうじかんなの」

 老人は静かに目をつむると、小さな鼻息を一つ吐いた。そして隣で足をぶらぶらとさせている少女に目をやると、また少女に言った。

「君は優しいんだね」

「でもパパはそういわないよ。いつもしずかにしろって」

 老人は苦笑いを浮かべた。すると、どこからか舌打ちが聞こえてきた。

「うるせえな……」

「呆けてんでしょ」

 誰かのこそこそ話が聞こえてくる。

 老人は声のする方へ目をやると、また少女に話しかけた。

「なんて言ってる?」

「わかんない。ちょっとおこってる」

「なんで怒っているんだい?」

「わたしたちが話してるから」

 少女が申し訳なさそうに下を向く。すると老人は、少女を励ますように話し始めた。

「もし僕が話しかけなかったら、君とは一生話さないで終わっていただろう。君と話さなければ、君の良さは僕には分からない。君の良さが分からなければ、僕は君を大切にしないだろうよ」

 少女が顔を上げる。

「それはつまり、僕にとって大きな損失なんだ。なぜなら僕はたくさんの人に大切にされたい。人間誰しも大切にされれば、相手のことも同じように大切にしようと思うだろう? だから僕はたくさんの人に話しかけるんだよ」

 老人が穏やかに微笑む。

「僕にも君ぐらいの孫がいたんだけどね。今度、やるんだよ――これ」

 そう言って、老人は両こぶしを交互に前に突き出して見せた。

「僕は、やめとけって言ったんだ」

 するとその時、車両の奥にある貫通扉の方から女の人の大きな声がした。

 何事かと思って声がした方へ目をやると、そこには、アフリカ系の黒い肌をした老女が立っていた。

 老女は、美しい白髪に真っ赤なロングコートを着て立っていた。手足がすらっと長く、背も高い。赤いコートの印象が強くて、一見すると派手に見えるが、イヤリングやブレスレットを除けば、着ているものは質素で、海外からやってきた老貴婦人を見ているようだった。

 皆が注目する中、老女はつかつかと老人の前までやってくると、異国の言葉で何かを言った。

 何て言ったかまでは分からない。安心したように溜息をついていたから、たぶん「ここにいたのね」とか、「探していたのよ」とか、そんな感じの言葉を話していたんだろうと、少女は思った。

 すると老人は急に席を立った。そしてポケットの中から鳥の絵が描かれた青と黄色の袋を取り出すと、それを少女に差し出した。

「楽しい時間をありがとう」

 そう言うと、老人は老女と一緒に隣の車両へ行ってしまった。

 

 やがて少女の隣にまた別の誰かが座った。その人は、少女に話しかけることもなく、スマホを眺めていた。

 車両内に、話し声のない静かな時が流れていった。

 電車の走行音が聞こえてきて、退屈を思い出した少女は、手の中の青と黄色の袋を見つめた。

 ごろごろと小石のような感触が手に昇ってくる。

 きっとあのお爺さんは、誰かと話しをしたかっただけなのだろうと、少女は思った。

 電車の中で話をしてしまったというのに、悪い気持ちはまったくなかった。むしろ、クラスメートの誰も経験したことのない、なにか特別な経験をしたような嬉しい気持ちだった。

 少女がお菓子の袋を見つめてにやにやしていると、それに気付いた父親が言った。

「どうしたの?」

 父親は耳のイヤフォンを外して少女を見つめていた。

「ねえ、パパ? 私って優しい?」

「え?」

「私って、優しい?」

「うん、優しいよ」

 少女はにこりと笑顔になった。

「お婆ちゃんち、まだ?」

「まだ。あと二時間くらい。どうしたの? なんか嬉しそうじゃん」

「まあね」

 そう言うと、少女はまたぶらぶらと足をやり始めた。

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© 2014 riouda

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