
Photo by Whisk
ひとり観覧車
誰もいない遊園地。
なだらかな丘の斜面にコスモス畑が広がる。
ピンクや白、紫の花がそよ風にさらさらと揺れていた。
夏の暑さを抜けた優しい涼風。目を瞑ると、まるで誰かの忘れた夢の中にいるような気分になる。
さらさらさら。
ああ、気持ちいい。
するとその時、白と紫のコスモスが強く揺れた。
風とは違う揺れ方。何だろうと思っていると、コスモスの間から一匹のウサギがひょっこりと顔を出した。
真っ白い子ウサギ。目の周りだけが黒い。二つの耳はぴんと立ち、周りをきょろきょろと見回す子ウサギの鼻はひくひくと動いていた。
くりくりの黒目。ふわふわの毛並み。小さなお口があどけない。
可愛い――。思わず頬が緩む。と、子ウサギがぴょんと跳ねた。まるで秋の訪れを喜んでいるかのように四つ脚でジャンプする。と、窓の外に見えていた景色が変わった。
次に現れたのは、誰かの家の縁側だった。
田舎のお婆ちゃんの家にあるような古い板張りの縁側。そこに明るい夕日が差し込んでいる。床はぴかぴかに磨かれて輝いていた。
どこか懐かしくて、どこか温かい。耳を澄ますと、遠くから鳥や蝉の声が聞こえてきて、その音に混じって、風鈴の音が小さく聞こえてきた。
時が止まったように静かで、でも時間はたしかに過ぎていて、まるでそれまで一生懸命に考えていたことは、べつにそこまで考えなくてもよいことのような気がしてくる。
そりゃみんながみんなできるわけじゃないよ。できない自分にいらいらするし……。
とそこへ、一匹の猫が現れた。
茶トラの猫。橙と黄金の縞模様が美しい。
猫は縁側までやってくると、陽だまりに丸くなって毛づくろいを始めた。
猫は目を細めながら手や足を念入りに舐めまわしている。
ひとりでお風呂入ってるみたい――。思わず肩の力が抜けた。
子どもだからってストレスがないわけじゃない。テスト勉強、委員会活動、友人関係。子どもは子どもなりに毎日頑張っている。だから大人はよくて子どもはだめなんて、そんないけずなことは言わないで。
まるで全身の力を抜いて水に浮いているような気分だった。
角張った心がだんだんと丸くなっていく。とまた、窓の外にあった景色が一瞬で変わった。
そこは鬱蒼とした森だった。
何百年もそこに在るような老木たちが、苔むした地面に太い根を張り巡らせている。
木々に絡まる蔦。生い茂るシダ。苔で覆われた大きな岩には木漏れ日が差し、辺りには聞いたことのない鳥の声が鳴り響いていた。
動くものはない。空気は澄み渡り、光の筋が七色に見えた。
音が吸い込まれていく。どこか神々しく、神聖で、精霊が棲んでいそうな森だ。
するとその時、目の前のシダが揺れた。
小鹿だ。小鹿は落ち葉の上で、じっとこちらを窺っていた。
硝子玉のような真ん丸の瞳。ハート型の大きな耳。その耳が今ぴくりと動く。
その瞬間、小鹿と目が合った気がした。
あ、今、目が合った――。思わず息を呑む。まるで森の秘密を覗き見してしまったような感覚だった。すると小鹿はゆっくりと後ずさった。そしてくるりと背を向けると、ぴょんぴょんと森の奥へと跳ねていった。
でも不思議なことに、小鹿が逃げていった先、森の奥にきらきらと光るものがある。
なんだろう?
それが何かは分からない。分からないけれど、自然と胸が高鳴った。
緑の生い茂る深い森。光るものなんてあるはずがない。
おそるおそる光るものに近寄っていくと、蔦の絡まった立派な大木の中心に小石ほどの大きさの輝きが見えた。
でもそれは近づけば近づくほどに大きくなっていく。最初はバレーボールくらいの大きさに、それからバランスボール、そして人を包み込むほど大きな光の玉になった。
あれはなに? あんなもの今まで見たことないよ……。
大木のうろを包み込むように広がる丸い光は、太陽のように輪郭が揺らいでいた。
じっとしていると、まぶしくて目が溶けてしまいそうで、どうせ目が溶けるのなら溶ける前にあれが何か確かめたいと、そう思って、意を決してゆっくりと近づいていくと、不思議なことに、今度は光が萎んでいった。
光はどんどんと小さくなって、やがて人の形になって消えた。
気が付くと、大木の前に自分と同じくらいの子が立っていた。いや男の子か女の子かは分からない。ただ、肩は落ち顔は俯いて、見るからに元気がなかった、泣いているような気さえした。
どうしたんだろう? 友達に置いていかれたんだろうか?
とその時、どこからともなくしんみりとしたピアノの音楽が流れ出した。卒業式とかでよく流れる切ない音楽だ。
なんだか急に悲しい気持ちになった。胸がぎゅうと締め付けられそうになって、目の前の子に目をやると、その子は顔を上げてこちらに向かて手を振っていた。ゆっくりと、右に左に、何度も何度も。それを見ていると、なんだか悲しみを隠して無理やりに笑っているような気さえした。
なんで手を振っているんだろう? どうして笑っているの?
そんな風に思っていたら、今度は誰かの声が聞こえてきた。
「いつも迷惑かけてばかりでごめんね」
「今までたくさんの笑顔をありがとう」
「お母さんの背中、ずっと見てたよ」
その声は誰かに寄り添うように優しく語り続ける。
誰?
一瞬、戸惑いが漏れる。
「またこうして会えたことが奇跡なんだよって……」
「春が来たら、一緒に桜を見に行こうって言ってた矢先に……」
「あの日、手をつないで歩いた道。もう二度と戻らない時間が……」
穏やかな語り手の声とともに、外の景色は目まぐるしく変わっていった。
薄暗いキッチン、青空に伸びる桜の枝、夕暮れ時の坂道――景色はどんどんと変わっていく。ピアノの音楽は相変わらず流れていて、まるで誰かの人生ドラマを高速で見せられているようだった。
なにこれ?
胸の奥がもやもやと渦を巻きはじめる。自分は何を見ているのか、いや見させられているのか、渦の中心から理解できないものがゆっくりと這い上がってくるような恐ろしさを感じた。それでもなぜだか目が離せない。何が起こるんだろう、どうなっちゃうんだろうって気になって仕方がない。するとまた、窓の外の景色が変わった。
窓の外には西洋風の街が広がっていた。
一本の通りを挟んで、両側に建物が並んでいる。建物はレンガ造り、通りは石畳だった。ヨーロッパのどこかの国の街並みのようで、テーマパークのアトラクションのようでもある。外灯は立っているけれど街路樹はなく、生活のあとはあるけれど人はいなかった。
ここはどこ?
ごくりと唾を飲み込む。と突然、びっくりするほど大音量の音楽が流れ出した。同時に、建物の陰から半裸の若い男たちが飛び出してくる。男たちは路上に集まり、陣形を組んで踊り出した。
彼らは狂ったように髪と服を振り乱して踊っていた。
長い手足。小さい顔。とても同じ人間とは思えない。
でも顔は見えない。色々な色の髪だけが激しく揺れていた。
わたしは何を見ているの? わたしが見てたのは可愛いウサギだったはず……。
そう思って窓に目をやると、窓硝子に自分が映っていた。
前髪が乱れた、やけに疲れた顔だった。目はとろんと眠そうで、心がどこか遠くへ行ってしまったようなそんな顔。なんだか自分ではないみたいだ。
そこに映るのは、もう一人の女の子。
扇風機の前で体育着のままソファに寝転がっている女の子。傍には小さなテーブルがあって、食べ終えたお菓子の袋が散らかっていて、床にはカバンとか、教科書とか、ノートPCの充電ケーブルとかが放ってあって、足元には犬のぬいぐるみだとか、怪獣のぬいぐるみだとか色々とふわふわしたものが積み上がっていて、でも窓の外には街が広がっていて、わたしは今、通りの真ん中で踊る顔のない男たちを眺めている。
窓の外と窓に映った中の景色、わたしはどっちを見ているの?
ふと、思考が止まる。
頭がそれ以上考えるのをやめたのが自分でも分かった。だからもうやめようと思った瞬間、次の景色が現れた。
今度は真っ黒い暗闇。
そこにでかでかと大きな数字が現れる。
「10」
そして文字。
「我思う、ゆえに我あり」
するとまた数字が現れる。
「9」
そしてまた文字。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
数字はどんどんと下がっていく。
「8」
「困難の中にこそチャンスがある」
「7」
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
「6」
「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」
数字が一つ下がる度に、よくわからない言葉が現れては消えていった。
知っているものもあれば、知らないものもあった。けれど今はそんなことはどうでもいい。カウントダウンは待ってくれない!
「5」
「時は金なり」
妙に焦りが募った。
「4」
「おごれる者も久しからず――」
まぶたがピン止めされたようにまばたきが減っていった。
もうこれ以上やめたいのにやめられない。それに呼吸はどんどんと浅くなっていく。
「3」
ああ、苦しい。
「2」
だれか、たすけて。
「1」
目の前が真っ白になった。
目は開いているのに何も見えなかった。
まるで頭が爆発したようでなにも考えられなかった。
けれど体はふわふわと宙に浮いているようで、なんだか気持ちいい――と、そこへ誰かの声がした。
「ご飯できたよ。テーブルの上、片付けて」
ふと、周りにあったものたちが現実の空気を取り戻す。
床に散らばったお菓子の袋。その隣に投げ出されたぱんぱんに膨らんだカバン。
足元にあるふかふかのぬいぐるみ。汗でべたべたになった体操着。
扇風機が涼しい風を振り撒いている。
味噌と砂糖のいい匂い――。
わたしはゆっくりとソファから起き上がった。