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ヒョウとトラ ~その5~
マーサの背中に乗って着いたところは、密林の生い茂る大きな島だった。
目の前には端が見えないほどに白い砂浜が広がり、砂浜の奥には鬱蒼と茂る黄緑色の木々が見えた。
僕らはマーサに別れを告げて島に降り立った。そしておそるおそる砂浜を上り、密林に近づいていった。すると驚いたことに、密林の手前で見たことのある顔が待っていた。ステラだ。ステラは砂浜を上った先にちょこんと座って、まるで歓迎の旗を振るように細長い尻尾を振っていた。
「ステラ!」
僕は嬉しくなって砂浜を駆け上がった。
「どうしてここにいるの?」
僕は息を切らしたままそう言った。するとステラはにこにこと微笑みながらこう言った。
「オーチはもうすぐよ」
僕もユラも顔を見合わせて笑った。まさか彼女が先回りして僕らを待っているとは思ってもいなかったからだ。
僕らはステラに連れられて密林の中を進んでいった。
頭上をヒカゲヘゴが日傘のように覆っていた。
足元は白い砂と柴色の土が混ざり、指の隙間にじゃりじゃりと入り込んだ。
しっとりと湿った木の幹にはつる草が絡み付き、緑のアーケードからは白銀の陽光がちらちらと漏れていた。
やがて僕らは一本の大木の前で立ち止まった。
それは馬のひづめのように折れ曲がった大木で、その隙間から白い光が漏れていた。
「ここ?」
「そうよ」
ステラは僕に振り返ると、僕に先に行くように促した。
僕はステラを信じて白い光の中に入っていった。
穴の中は甘い香りがして、まるで温かいチョコレートの中に浮かんでいるようだった。
白く輝く穴を潜り抜けると、そこには見覚えのある景色が広がっていた。
空は青く澄み渡り、緑の草原はどこまでも続いている。草原には所々に大木が生えて、遠くに川が流れていた。木陰では白黒の生き物が休み、川辺では鼻の長い生き物が群れている。空には見たこともない大きな鳥が飛び、草原には角をはやした生き物が走っていた。
「ここがオーチ……」
隣でユラが言った。
「うん」
息を吸うと、嗅いだことのある甘い香りが僕の胸を高鳴らせた。
ああ、懐かしい……。
冷たい風に目を瞑ると、忘れていたたくさんの思い出が目まぐるしく脳裏に甦った。
ひんやりと涼しい大木の上。隣には母がいて、姉がいる。
長閑なまどろみの時間。
母の温もり。穏やかな鼓動――ゆっくりと瞼を起こす。
「ママァ! ネネェ!」
僕は嬉しくなって丘を駆け下りた。
草原を駆け抜け、見覚えのある岩山を駆け上がった。
枯れ草で覆われた小高い岩山。
その天辺にぽつんとそびえ立つ一本の大木――大木はそよ風に揺れていた。
僕は大木の根本まで駆け寄ると、急いで上を見上げた。
「ママ! ネネ!」
でも大木に母の姿はない。
「ママ! ネネ! どこ!」
急に胸の中を冷たい風が吹き抜けた。
「ママァ! ネネェ!」
僕の声は草原を走り、大地に響いた。
するとその時、突然、大地がぐらぐらと揺れ始めた。
地面の下でなにかとてつもなく大きなものが爆発しながら迫ってくるような恐怖が僕の体を固まらせた。
それは僕の視界を曇らせて、モノクロの景色がさらに僕の心を不安で埋め尽くす。僕が不安になればなるほど大地は震えて、今にも足元から崩れていきそうだった。
「ママァァ!」
母の姿はどこにも見えない。
「ユラァァ! ステラァァ!」
ユラもステラもどこかに身を隠したのにか、いなくなっていた。
岩山が崩れ、大木が傾いた。
だれか! 助けて!
ひとりになった不安がそれまでの薄氷の不安の上にさらに重くのしかかる。
ああ、体が熱い! 全身の毛をすべてそり落としたいくらいに熱い!
でも体が動かない。今すぐにでも逃げ出したいのに怖くて全身がすくんでいた。
ああ、こんなことならば来なければよかった!
ここは僕の知っているオーチじゃない。
僕はオーチに帰りたい。僕の知っている本当のオーチに帰りたい。
ごろごろと岩が転がり落ち、地面が二つに割れていった。
大地が裂け、足元は轟音とともに沈んでいった。
「ママァァ! ユラァァ! 助けて!」
僕は助けを求めて泣き叫んだ。何度も何度も助けを求めた。そうしたら大地の裂け目から大きな掌のような風がぴゅうっと吹いてきて、僕を左右から包み込むように抱き上げた。
◇
「どうしたのかな、急に……」
男はそう言って、腕の中で泣き続ける赤ん坊を覗き込んだ。
男の前には新品のベビーカーが止まっている。
「ホワイトタイガーの前では泣かなかったのに……。ウンチかな?」
そう言って、赤ん坊の股間に顔を近付けると、男は首を傾げた。
「違うなぁ。眠いのかなぁ……」
それから、ベビーカーの脇にぶら下がっていた玩具の楽器を手に取ると、それを赤ん坊の目の前でジャラジャラと振り鳴らした。しかし赤ん坊は泣き止まない。それどころか益々激しく泣き叫ぶ赤ん坊を見て、男は困り顔で後ろに振り返った。
青色の繋ぎを身にまとった男の背後には、黒光りする鉄格子に囲まれた檻があり、その手前の柵につかまって檻の中を見つめる女がいた。檻の中では、丸太木の台の上に寝そべる一匹の豹が、こちらを見てあくびをしている。
「この前、野生の王国のDVD見せたのがいけなかったかなぁ。本物の動物見て興奮してるのかも……。ねえ、麻衣ちゃん!」
男が女に呼び掛ける。すると女は男に振り返り、ゆっくりとベビーカーの前までやってきた。
「どうしたの?」
「なんか泣き止まないんだけど」
「摩訶不思議な冒険でもしてたんじゃないの?」
「赤ちゃんが?」
「わかんない。ウキ、パイパイ飲もうか?」
女はそう言って赤ん坊に笑いかけると、両手を赤ん坊の肩の下にそっと差し入れて、ゆっくりと胸の中に抱き上げた。
「どうしたのウキ? パイパイ飲んで落ち着こうね」
そして女は泣き続ける赤ん坊を抱いたまま、木陰のベンチへと歩いていった。
一方で、男はベビーカーの後ろに回ると、それを押して先ほど女がいた豹の檻の前まで歩いていった。そして柵の手摺りにつかまってじっと豹を見つめる少女の隣まで来ると、
「ヒョウさん、寝てるね。ユラは眠くない?」と、少女に話しかけた。
少女は檻の中の豹に夢中だった。柵から身を乗り出し、いかにも興奮を抑え切れない様子でその場で何度もジャンプをしていた。
「ひょうさん、すごいね! かっこいいね! おくちをあけたよ、こうやって!」
目を輝かせながら少女は豹のあくびを真似て見せる。
それを見た男は笑いながら、
「それはすごいね。お腹が空いてるのかな?」と、丸太台の上で日向ぼっこをする豹に目をやった。
すると、少女は周囲をきょろきょろとやり始めた。
「ママは?」
「今、ウキにオッパイあげてる」
男が言うと、少女は何を思ったか、その手に持っていた犬の縫ぐるみを丁寧に抱きかかえた。そしてまるで本物の赤ん坊を抱っこするように優しく縫ぐるみに話しかけた。
「どうしたの? そう? わかったわ。あなたもおなかがすいたのね?」
少女は背中に背負っていた小さなリュックサックから、これまた小さなおもちゃの哺乳瓶を取り出すと、それを縫ぐるみの口元に当てながら言った。
「それじゃあ、あなたもミルクにしましょうね、ステラ」