
Photo by Whisk
渋柿
柿は嫌いだ。
まず、あのキュウリみたいな匂いが嫌いだ。皮をむいて、切り分けた瞬間から漂う、フルーツなのか野菜なのかわからない青い匂い。薄らと、でも強烈に主張してくるあの匂いだ。
たとえその強烈な匂いを我慢してやり過ごせたとしても、次には例の食感がやってくる。あのとろとろと柔らかい食感。リンゴや梨のようなシャキシャキ感はどこにもない。いちごやみかんのような酸味もなく、ただただ単調な甘さが口の中に広がる。熟れすぎた柿を口にした時なんかは最悪だ。口の中にねっとりとした甘さがいつまでも残り、吐き気さえ催す。
でもやっぱり、一番の理由はあの渋みだろう。青臭い甘みに隠れた不自然なえぐみ。渋柿でなくても感じる。噛んだ瞬間に口の中がぴりぴりと痺れだして、それ以上噛めなくなって、でもさすがに吐き出すわけにもいかず、そうかと言って、飲み込もうとしても大きくて喉を通らず、仕方なく、本当に仕方なく、何度か噛み砕く。あの絶望感はきっと一生忘れない。忘れてたまるか。あの時の甘さの奥からちょっとだけ顔を見せたえぐみ。安心していたところに不意にやってきた裏切り。そして思い出した、本当は誠実でありたいと願う人間が、わざと不誠実な人間を演じているような違和感――。
そんな私を先輩はよくこう言ってからかった。
「お前は柿も食えないくせに商売する気か?」
私は青果の仲卸会社に勤めていた。仲卸というのは、市場から仕入れ、スーパーや百貨店、八百屋などの小売店に卸す仕事だ。時にはホテルや料亭、レストランなどにも卸す。私はもともとそこで事務を担当していたが、忙しい時には仕分けや梱包も手伝っていた。昭和五十二年創業。社員数十五人の小さな会社だ。人手はいくらあっても足りない。社長の指示で営業に行くこともあった。社長曰く、商談は若い女の子がいた方が捗るそうだ。
社長は創業者の孫で古い人間だった。今の時代ならパワハラやセクハラに当たるようなこともたくさん目にしてきた。それでも大事にならなかったのは、社員の多くが親族であり、皆が社長の人柄をよくわかっていたからだと思う。社長のことが好きで取り引きを続けてくれていた得意先も多かったし、社長に恩があって仲良くしてくれている市場の関係者もたくさんいた。どこの業界もそうだと思うが、仲卸業は信用で成り立っている。多少傷ありでもいいから安いものをとか、大玉で色揃いの良いものをとか、私たちのような小さな仲卸にとっては、そういった得意先への柔軟な対応や誠実さが強みだった。
でも先輩は違った。先輩は箱の中に小玉を混ぜておきながら、お客さんの前では「今回は特別にサービスで少し多めに入れておきましたよ」なんて言う。そしてあとで私に「大丈夫。箱の重さなんて量らないから」と平然と言うのだ。ある時は、上の段に見栄えの良い梨を並べて、下に痛んだ傷物を混ぜてお客さんに渡したこともあった。そしてにこにこと愛嬌のある笑顔で「今朝仕入れたての新鮮な梨です」なんて言う。その他にも、小さなことを含めれば思い出せないくらいたくさんある。「味なんて大差ない」と等級や産地をごまかしたり、「誰々さんのお店だから特別にこの価格でお出ししますよ」とか言いながら、他のお店にも同じ値段で出したり。先輩はとにかく口が達者で信用ならない人間だった。ケールという野菜がメディアで紹介された時なんかは、在庫に余っていた古いケールを鮮度の良いものと混ぜて売り捌いてしまったこともある。それを知った社長の奥さんはかんかんに怒っていたが、先輩は悪びれもせずに「廃棄すれば一円にもならない。でも混ぜれば売り上げになる」と言っていた。先輩はずる賢い。あの業界では異質の、誠実さとは無縁の人だ。
そんな先輩と一度だけ出張に行ったことがある。
目的は、和歌山で新しく開発されたブランド梨、『光珠』の視察。
当時はうちのような小規模の仲卸業者にきつい時代だった。卸先である大手スーパーや百貨店が産地や大卸業者と直接契約するケースが増えたためだ。ネットや冷蔵輸送技術の進歩によって、産地から小売店、そして消費者へ直接配送する手段ができたことも大きい。仲卸が必要とされなくなったのだ。そこへさらに、従業員の高齢化、取引先の高齢化、そして不況の波と、どんどんと悪い状況は重なって、知り合いの仲卸の中には、やむを得ず廃業したところもいくつかあった。そうした中で、うちが産地直取引に手を出したのは、今考えると、当然の成り行きだったんだろうと思う。
産地直取引というのは、市場や大卸を介せずに現産地の農家さんから直接商品を仕入れることを言う。このやり方のメリットは価格だ。中間者を介さないため、その分、安く商品を提供できる。また、農家さんと信頼関係が築ければ、市場に左右されない安定した数量を確保することも可能だ。特にそれが市場に出回らない希少品種や高級品の場合、それはうちの切り札になり得た。もちろんリスクもある。品質は確保できるのか、まとまった量を確保できるのか、物流コストはどのくらいかかるのか、かけ売りか、現金売りか、資金繰りは大丈夫か、そういったことだ。それでも社長はこの視察にゴーサインを出した。
「もし光珠を先行して仕入れられれば、間違いなくうちの強みになる」と、社長は言った。
「でもそのためには一度先方と直接会って、顔を覚えてもらって、お互いに信頼関係を築く。それは絶対にやった方がいい」
小さな仲卸は大手に比べて知名度が低く、顔を覚えてもらう必要がある。ここの仲卸は熱心だと信頼してもらえれば、このブランド梨――しかもこの時はまだ市場に出ていない新品種の梨だ――の優先的な出荷を得られる可能性があった。私たちはそれに賭けたのだ。
◇
十月の和歌山は、夏の名残をわずかに残しつつも、空気にはすでに秋の涼しさが混じっていた。
新大阪から大阪メトロ、南海高野線と乗り継いでようやくたどり着いた辺鄙な無人駅。時刻は午前十一時を回った頃だというのに、駅前の建物たちはどれもシャッターが降り、人の気配はどこにもなかった。色褪せた自動販売機、古びた郵便ポスト、緑の電話ボックス。周囲にはどこか時代の流れから取り残されたような哀愁が漂う。遠くに目をやれば、線路を錆びた跨線橋がまたぎ、青い山々が連なっていた。空には電線が走り、どこからともなくヒヨドリの鳴き声が聞こえてくる。
「長閑なところですね」私が言うと、「田舎なだけだろ」と先輩は言った。
いつもの先輩だった。緊張している様子は感じられない。だから私も安心して、いつものように「たしかに」と笑ってみせると、先輩が言った。
「谷本、今日はなにがなんでも光珠を持って帰るからな」
いつもだったら、そこから他愛もない会話が続いていくのに、その時の先輩の目には、今まで見たことのない決意というか、この出張に懸ける覚悟のようなものが見て取れた。そしてその目を見た時、私は先輩も緊張しているのだと思った。ただそれは、恐れや不安といった萎縮からくるものではなく、むしろ闘志や高揚といった類の、先輩がこれまで経験してきたことから自然と身に着いた集中力によるものなんだろうと思った。それと比べると、その時の私の緊張は萎縮に近かった。先輩の足を引っ張らないようにしなきゃな、生産者さんに粗相がないようにしなきゃな、そんなことばかり考えていた。
今回の視察先である『カトウ農園』は、駅からタクシーで二十分ほどの山の上にあった。
紀ノ川を渡り、なだらかな山道を上っていくと、やがて緩やかなカーブの道沿いに色鮮やかな旗やのぼりが見えてくる。道に沿って古い塀がずっとカーブの先まで続いていて、塀の向こうには立派な瓦屋根の屋敷が見えた。きっと大きな農園なんだろう。屋敷の奥には青いネットで囲まれた梨園が見える。青いネットは山の上の方まで続いていて、どこまで広がっているのかわからなかった。ただ一つわかるのは、ここが梨だけを作っている農家さんではないということ。秋風に揺れるのぼりには、紫色の「ぶどう」の文字が見えた。
「ここですか?」
「うん。お前はしゃべらなくていいから」
「はい」
先輩はきょろきょろと周囲を見回すと、屋敷の隣に立つプレハブ小屋へと近づいていった。
「こんにちわぁ」
語尾を伸ばして控えめに声をかける。
プレハブの中を覗くと、そこは直売所のようで、壁沿いに設けられた棚の上に梨やぶどうなどの果物が並んでいた。奥には会計カウンターだろうか、長机とレジが置いてあり、そこに女性が二人座って話し込んでいる。エプロンをつけた若い女性と年配の女性、ここの関係者だろう。
「失礼します。豊島青果の豊島です」
先輩が声を張ると、彼女たちは私たちに気付いて立ち上がった。それから少し慌てたようにこそこそと話し合うと、私たちに中に入って待つように言った。
若い女が白い仕切り板の向こうに消えていく。仕切り板の奥には正方形の大きな木の机が見え、そこに青のウインドブレーカーを着た男性が見えた。奥から「社長」という言葉とともにひそひそ声が聞こえてくる。
しばらくすると、仕切りの向こうから背の大きな男性が姿を現した。
「ああ、どうも。加藤ですわ」
太い声でそう言った男性の頭は薄くなって、額が大きくせりあがっていた。青のウインドブレーカーの中に襟付きのシャツを着ていて、それがどこか学校の先生のようで、私は思わず背筋を伸ばした。
「今日はお世話になります。豊島青果の豊島です」
先輩が頭を下げる。私も一緒になって深く頭を下げると、
「はいはい、豊島さんね。中津川さんから聞いとりますよ。シーズン五、六十欲しいって」
と、男性は言った。この男性はここの代表者だ。もともとうちがお世話になっていた大卸の中津川専務と知り合いらしく、今回の出張も中津川さんが間に入って調整してくれていた。中津川さんはうちの社長と古くからの友人だ。
「ええ、まだ市場にほとんど出回っていないと伺って、ぜひ拝見したいと思いまして」
「まあ、まだ始めたばっかりですさかいね。数はそう多ないですけど」
「いえいえ、最初から量を求めるつもりはありません。まずは物を見させていただいて、うちとしても扱い方を考えたいと思っています」
「そうですか。それならちょっと安心しました。正直、作るんもまだ手探りなんでね」
男性はにこにこと上品な笑顔を浮かべていた。話し方がゆっくりで、なんとなく大らかな印象だ。
私は先輩と名刺を交換する男性の笑顔を見ながら、生産者さんが良い人そうで良かったと安心した。商談において、うちの社長のように頑固でワンマンなタイプは手強いし、先輩のように本音を隠すタイプは面倒くさい。この男性はそのどちらでもなさそうだったし、どちらかと言うと、数字や条件をしっかりと熟考するタイプに見えた。男性には申し訳ないが、先輩には簡単な交渉相手に思えたのだ。そうしたら先輩が言った。
「やっぱり栽培の手間が違うんですか?」
「ええ、水の管理とか摘果のやり方がちょっとちゃうんですよ。その分、手ぇもかかりますわ」
「なるほど……。高い評価がつくのも納得です。作り手のご苦労あってこそですね」
「いやいや、好きでやってることですさかい」
男性はすっかり安心したように頷いていた。そしてそれを見た私は思った――先輩はただ口が達者なだけではない。相手の緊張を解きほぐし、心を開かせる術を心得ているのだ、と。
「ほな、とりあえず畑、見ますか?」
「はい、ぜひお願いします」
私は先輩と男性の会話を横で聞きながら、この商談はきっと上手くいくと、この時はそう思っていた。
◇
私たちは加藤さんに案内されて農園へと移動した。
梨の農園は、屋敷の裏手にある細い農道を山の方へ歩いていくとあった。
山の斜面にどこまでも青いネットが続いている。いまだ夏の名残りをとどめる山の緑と、農道に沿ってずっと奥まで咲き乱れる彼岸花の群生が印象的だった。言葉を失うほど広大な敷地だ。
「ここが光珠の区画です」
加藤さんが立ち止まり、梨の木を指さした。
枝葉の間から丸々とした梨がのぞいていた。果実は薄い黄緑に淡い褐色の斑点が浮かび、陽の光を受けて透けるように輝いている。
「なるほど、粒がそろってますねぇ」
先輩はそう言って葉の陰から梨をじっと見上げた。
「この時期だと幸水や豊水はもう終わり。残ってるのは新高や新興、それとこういうブランド梨ですね。大玉で日持ちもして、関西圏じゃ引き合いが強い」
先輩の言葉に、加藤さんは驚いたように目を細め、静かに頷いていた。
「ただ、光珠は新しい品種ですし、樹の管理も難しいでしょう。剪定や施肥のやり方ひとつで収量が変わると聞きます」
「ええ、ようご存じで」
加藤さんは短く返した。その声には先輩のことを認めながらも、外から口を挟まれることへの嫌悪感も少しだけ感じられた。加藤さんは物静かで落ち着いているが、その内には決して曲がることのない強い芯のようなものを持っているんだろうと、私はそんなふうに思った。私たちがネットの中に入って梨の木を見て回っている時にも、加藤さんは一本一本樹を撫でながら、土や摘果へのこだわりを語ってくれたくらいだから、光珠に込めた思いや自負は相当なものだったんだろうと思う。先輩もそれは分かっていて、加藤さんが熱く話せば話すほど、先輩はその言葉に静かに耳を傾けていた。相手に迎合するのではなく、時に短く相槌を挟み、必要な時にだけ知識を織り交ぜて返す。先輩はプレハブ内で見せた軽快さとはまた違う、相手を立てるための節度を守っていた。
「そろそろ事務所戻りましょか。詳しい話は食べながらでも」
梨畑の中をひと通り見て回った私たちは、加藤さんにそう言われてネットの外へ出た。
ネット沿いの細い農道を先輩と加藤さんが並んで下っていく。
自然な笑顔で世間話をする先輩の横顔を見ながら、私は先輩って本当にすごい人だったんだと思った。だってそうだろう。初めて顔を合わせた時には話し易い雰囲気を作り出し、話が進めば相手が信頼に足るとわかる知識を披露する。そしてその間はずっと下手に出る。以前から社内では「先輩はやり手だ」と有名だったが、私はこの時はじめて皆がそう話す理由がわかった気がした。先輩は頭が切れる。先輩が私に見せる不誠実な言動はわざとで、本当は相手の気持ちがよくわかる優しい人なんじゃないかって思ったくらいだ。
プレハブ小屋への帰り道、私の胸は妙に高鳴っていた。
駅に着いた時の萎縮からくる緊張ではなくて高揚だった。
先輩はもしかしたら本当は内気な人なのかもしれない。そして内気な性格をごまかすために、わざと社交的な人間を演じているのかもしれない――真っ赤に燃える彼岸花の群生を横目に、私はそんなことを考えていた。
◇
プレハブに戻ると、私たちは仕切りの奥にある正方形の大きな木の机に案内された。
机の上には冷えた麦茶のグラスが並べられている。プレハブ内にさっきまでいた女性たちの姿はなかったが、気を遣って用意してくれたのだろうと思った。十月とは言え、太陽の日差しはまだ暑い。
「どうぞ召し上がってください」
加藤さんに勧められてひと口含むと、乾いた喉に麦の香味と冷たさが心地良く広がった。
長時間の移動で自分でも気が付かないうちに疲れが溜まっていたことに気付く。慣れない革靴で歩いたから足がぱんぱんだった。するとその時、私のお腹がぐうと鳴った。緊張のしっぱなしで忘れていた空っぽのお腹がぐるぐると動き出す。
「すみません」
慌てて謝ると、加藤さんは笑って、
「そろそろお昼ですしね、私もお腹すいてきましたわ」と言ってくれた。
なんていい人なんだと思った。たとえお世辞だとしても、こんなふうに誰かを気遣ったことは、私はない。変な話だが、冷たい麦茶でさえ、少し温かく感じられたほどだ。
そんなことを考えていたら、奥の扉が開いて、先ほどの年配の女性が戻ってきた。女性は手にお盆を持っており、その上に青い小皿が二つ見える。
女性はゆっくりと近づいてくると、「どうぞ」と言って、先輩と私の前に小皿を置いた。皿には透き通るように白い梨が並んでいる。切り分けられた切り口から艶やかな果汁が滴っていた。
「どうぞ。今朝採れたとこです」
加藤さんが言った。いよいよ光珠の試食だ。
「ではお言葉に甘えて。いただきます」
まずは先輩が一切れ。シャキシャキと小気味好い音が聞こえてくる。
「うーん、これは……」
先輩は唸った。さぞかし美味しいに違いない。期待は膨らむ。
「谷本さんもどうぞ」
加藤さんに勧められて、私も一切れを口にする――シャキッ。歯を立てた瞬間、果汁が溢れ、ひんやりとした甘さが舌を覆った。さわやかな香りが鼻へ抜け、喉を潤す冷気が胸の奥にまで届く。砂糖のような直線的な甘さではなく、山の風を思わせる自然な清涼感がそこにあった。
うん、美味しい! 甘さと酸味のバランスがちょうどいい!
「上品な甘みですね。糖度も十分だし、これなら贈答用にもいけますね」
先輩が感嘆混じりに漏らすと、加藤さんは少し照れたように笑った。
「今年の出来には、うちらも自信あるんです。市場でもきっとええ評価もろえると思いますわ」
「ええ、本当に見事な梨です。口に入れた時の香りがすごくいい」
梨の出来栄えを褒める先輩の横顔を見ながら、私は今回の訪問はお互いにとってきっとうまくいくと思っていた。先輩の嬉しそうな顔もそうだし、何よりも加藤さんの誇らしげな顔がそう言っていた。社長の喜ぶ顔が頭に浮かんだし、皆の笑顔と拍手が思い浮かんだ。もしかしたら、これを機に昇給するんじゃないかって思ったくらいだ。私はすっかり安心して、和やかな雰囲気で進む商談を傍で聞きながら、これが終わったらお昼に何を食べようかなんて呑気に考えていた。でも人生というのは不思議なもので、そうやって気を緩めた時にかぎって、思いもよらない出来事が起こる。
奥の扉が静かに開いて、若い女性が入ってきた。私たちがここへ来た時に、年配の女性と一緒にカウンターに立っていた女の人だ。女性は手にお盆を持っており、その上にまた青い小皿が二つ見えた。
なんだろう? それが最初に思ったことだった。光珠はもう試食させてもらった。まさかおかわりなんてことはないだろう?
「よかったらどうぞ」
私は目の前にそっと置かれた小皿を見て驚いた。お皿に盛られた目が覚めるような橙色――柿だ!
「実は、うち柿も作っとるんです。三年かけて品種改良した新しい柿でね。よかったら召し上がってみてください」
加藤さんが言った。
私はあまりにびっくりして言葉を失っていた。今日はブランド梨の商談に来た。まさか柿が出てくるとは思わない。
私が食べるのを躊躇っていると、私が食べたくない雰囲気が伝わったのか、近くにいた年配の女性が言った。
「若い人は柿なんか食べへんやろ?」
よくぞ言ってくれたと私は思った。
そうなのだ。柿が嫌いな人間は私だけじゃない。若い子は柿なんて食べない。
「そうなん? 柿、あかん?」
加藤さんが優しく語りかける。
どう答えようか。まさか嫌いだとは言えない。ここまで順調に話が進んできて、その空気を壊すようなことはできない。まして加藤さんが自信を持って勧めてくれた柿だ。加藤さんの厚意を無下にするなんてできない。
困った私は先輩に助けを求めた。先輩は私が柿を嫌いなことを知っている。だから先輩が代わりに試食するなどしてうまく場を収めてくれると、そう思っていた。でも先輩は信じられないことにこう言った。
「いやいや、うちは青果専門でやってるんで、嫌いな人なんていませんよ、なあ?」
もしかしたら、私は加藤さんの優しさに慣れ過ぎていたのかもしれない。
先輩がずる賢くて、その場の空気に応じてころころと立場を変える二枚舌だってことを忘れていたのかもしれない。
私は急に心臓を掴まれたように固まってしまった。
それまで考えていたことが一瞬にして掻き消されて、自分が何をしようとしていたのかすら思い出せなかった。ただ、お皿の上に切り分けられた柿たちが恨めしそうに私を見つめてくる。
透き通るほどに熟れた橙色の果肉。
フルーツなのに甘ったるいキュウリのような匂い。
胸の奥がざわつく。
なんだろう? 懐かしくも、切なくもある、この感覚はなんだろう?
そしてふいに思い出す。
給食のざわめき。
机の上に転がった一切れの柿。
鼻を通り抜ける濃厚で鮮明なえぐみ。小春――。
中学の頃、私はどこか斜に構えた女の子だった。大人の世界に漠然とした憧れを抱いていて、世の中の仕組みや、大人の事情、すべてを知っているつもりでいた。何かを聞かれても「まあまあじゃない?」とか、「べつにどうでもいいけど」なんて、本当は好きなのに照れ隠しのように一歩引いた言葉を選んでしまう、そんな女の子だ。誰かが面白いことを言えば、「それな」と合わせ、場の空気に混ざるのが得意だったし、「私も」と同意を示すだけで皆と一緒の側にいられることを知っていた。決して学級委員のように皆の前に出るリーダータイプではない。係は生き物係だったし、委員は美化委員だった。それも昼休みの掃除でウサギ小屋に行く時に「だるいね」とか言って、同じ係の子と苦笑いを交わすようなタイプだ。熱心さや責任感を前面に押し出すことは格好悪いとさえ思っていた。そんなだから、友人関係は広く浅くそつなく築いていて、いつもクラスの陽キャグループと一緒にいた。もちろんリーダーではなく、その周りに集まる取り巻きの一人だ。でも小春は違った。
私と小春は幼稚園の頃からの幼なじみで、よく一緒に遊んでいた。お母さん同士が仲良しだったから、幼稚園の帰りに一緒に帰ったり、お互いの家に行って遊んだりする仲だった。私たちにはともに二歳離れたお兄ちゃんがいたから、お兄ちゃんたちのサッカーの試合についていって、試合が終わるまでグラウンドの隅でままごと遊びをすることもあった。
そうすると、小春は決まって「どうして秋穂ちゃんは何々なの?」と聞いてきた。たとえば、「どうして秋穂ちゃんはいつも怒っているの?」とか、「どうして秋穂ちゃんは髪を伸ばしているの?」、という具合にだ。当時の私は髪を腰まで伸ばしていた。お母さんが可愛いって言うから伸ばしていただけだが、そんな風に聞かれると、なんだか伸ばしちゃいけない気がして答えに困ったことを覚えている。今思えば、小春は単に思ったことを聞いていただけなんだろうと思うが、当時の私にとってはそれが重荷だった。
一度、小春が、どうして、どうしてとあまりに煩いから、小春が頭につけていた赤いリボンを「ダサい」とからかってやったことがあった。そうしたら小春は、「そう? これ、お婆ちゃんが作ってくれたの。わたし気に入ってるんだ」と、たしかそんなようなことを言った。私は小春がお婆ちゃん子だってことを知っていたから、それ以上はからかわなかった。そして小春をからかったことを少し後悔した。その時はなぜそう思ったかわからなかったが、今考えると、小春は冗談を冗談として受け流さず、真っ直ぐに受け止める子だったからだろうと思う。一緒におままごとをしていても、「これお味噌汁。ちょっと焦げちゃったけどおいしいよ」と小春が黒い落ち葉を差し出してくる。私はお味噌汁が焦げるなんておかしいって知っているから「焦げたの?」と茶化す。すると小春は「うん、でも焦げてもおいしいから」と真顔で返してくる。小春はその頃から素直で裏表のない女の子だったのだ。
でも小学校に上がると、小春とは疎遠になった。別々の学校に通うようになったからだ。私は私で新しい友達と遊ぶようになっていたし、小春もそうだと思っていた。たまに小春が学校を休んでいるという噂は耳にしたけれど、特に何とも思っていなかった。私は小学校から始めたヒップホップダンスに夢中になっていたし、小春のことを考えている暇なんてなかったのだ。
それが中学に上がると、小春とまた一緒になった。同じクラスの同じ班。中学生になった小春は髪が短く、眼鏡をかけていた。そして少し大人びて、雰囲気も私の知っている天真爛漫な女の子ではなくなっていた。
中学生の小春は、口数が少なく、一人でいることが多かった。誰とも話さないというわけではないが、自分から話しかけることはなく、休み時間も一人で本を読んでいるような女の子だった。静かで、やけに落ち着いていて、何を考えているかわからない、そういうミステリアスな雰囲気もあってか、一学期が終わる頃には、小春は皆から密かに弄られる対象となっていた。小春ちゃんって線香の匂いがするよねとか、小春ちゃんちって貧乏で給食費払えないらしいよとか、そういう、イジメではないが、周りから浮いていることへの違和感をみんなが口にしていた。私の周りの友だちは、小春のことを陰で「小春婆ちゃん」と呼んでいたくらいだ。
私は、小春がたまにお婆ちゃんみたいな話し方をしてしまうことを知っていたし、サッカーの待ち時間にお菓子をまったく食べなかったのを覚えていたから、おそらくアレルギー持ちで、給食の代わりに家からお弁当を持ってきていることを知っていた。だからみんなに合わせて笑うことはあっても、心から小春を見下したり、嫌に思ったことはなかった。昔のよしみというか、情というか、そういうものがあったから、私から小春に話しかけるようなことはなくても話しかけられれば答えていた。
二学期に入って、ちょうど運動会の練習で忙しくなった頃、私は生理痛がひどくて体育を見学した。そうしたら、小春と一緒になった。聞けば、小春も生理だと言う。
「何日目?」
「一日目」
「うわぁ、きついよね」
とか、そんな会話だったと思う。しばらくして、小春が言った。
「わたしもね、お腹弱いの。すぐ痛くなっちゃうんだ。そしたらお婆ちゃん、柿はお腹の調子を整えてくれるんだよって、薬みたいなもんだからって」
「へえ」
「それで食べたら、本当に痛いのがなくなっちゃったの」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
たぶんそんな感じの会話だった。そしてその日の給食の時間、私がまだ調子悪そうにしていると、小春は自分のお弁当箱から柿を一切れ取り出して、それを私にくれた。
当時の私はそれまで柿を食べたことがなかったから、どんな味なのか、本当にお腹の痛みが消えてくれるのか、興味津々だった。本当に痛みがなくなってくれるのならそれに越したことはなかった。それで何も考えずに、ぽいと口に入れた。そうしたら目の前にいた男子が言った。
「あ、お婆ちゃんだ!」
するとまた別の誰かが「秋穂ばあちゃん!」と叫んだ。
途端に、教室中から笑い声が上がった。
急に恥ずかしさが込み上げて、私はどうしたらいいかわからなかった。
横を見ると、私の友だちでさえ、小声で「おばあちゃんみたい」と笑っていた。
クラスのみんなが笑っている気がした。顔がかっと熱くなって、耳の奥がじんじんし始めて、どんどんと大きくなっていく笑い声に反して、私はどんどんと小さくなっていく気がした。
私は口の中の柿をぺっと吐き出した。それから「まずっ!」と大袈裟に顔をしかめて、すぐに牛乳を口にした。そして目の前の男子と一緒になって、「よくこんなの食べれるね」と小春を笑った。
その時の小春の表情は、今も私の脳裏に刻まれている。ぎゅっと唇を噛み締めて、寂しそうに俯いた小春の横顔は、あの時の口の中のえぐみと一緒に、これからもずっと私の中に残るんだろうと思う。
柿は嫌いだ。
それを口にすると、あの時、小春の目からこぼれ落ちた大粒の涙と、机の上に吐き出された惨めな自分を思い出す。
「どないしました?」
加藤さんの声が聞こえた。
「柿には整腸作用ありますさかいね、体にええんですよ」
その言葉に胸の奥がずきんと疼く。
知ってる。柿はお腹の調子を整えてくれるんだって。
「どうした? 甘くて美味しいよ」
知ってる。柿は、笑い声の奥にひそむ沈黙のような味をしているんだって。
知ってる。ぜんぶ知ってる。だって私がそうだから。
「ありがとうございます。私、柿、大好きなんですよ」
私はそう言って、お皿の上に切り分けられた小さな柿を一つ、口に入れた。
その瞬間、甘みは感じたが、それ以上に、やっぱりあのキュウリみたいな嫌な匂いが口の中いっぱいに広がった。どんなに噛もうとしても、顎が固まったように動いてくれない。
「大丈夫ですか?」
加藤さんが心配そうに私を見つめてきた。でもその目の奥に、先ほど農園で先輩に見せた強い芯のようなプライドがちらちらと見えた。食べない選択肢はない。でもやっぱりどうしても噛めないのだ。噛むことも飲み込むこともできない。それはただただ重たく口の中に残り、そのうちに口の中で温められた生ぬるい甘みと青臭さが鼻まで込み上げてきた。
ああ、どうしたらいいかわからない。食べなきゃいけないのに喉が固く閉じている。でももし私がここで食べなかったら、あとになって「どうして食べなかったんだ? この商談が失敗したらお前のせいだからな」と怒り散らす先輩の姿が容易に想像できる。
加藤さんはいよいよ不安そうに私を見つめ、先輩は責めるように私を見ていた。その私を射るような先輩の目つきが、あの日、「よくこんなの食べれるね」と小春を笑った自分自身と重なっていく。
ああ……。
全身からすうと力が抜けていった。そして、尊重されないってこういう感じなんだ、と私は思った。その場を収めるために差し出されるのってこういう感じなんだと思ったし、頼りにしていた人から裏切られるのってこういう感じなんだと思った。
ごめんなさい――私は意を決して口の中の柿に歯を立てた。
とろり。歯を立てた瞬間、柔らかく押し潰れる感触が広がった。蜜を煮詰めたような甘みが鼻へ抜け、濃厚な甘みが舌にまとわりついた。そしてそのただただ甘いだけの味の陰から、やっぱりあのえぐみが顔を出した。口の中がぴりぴりと痺れだす、あの嫌な感覚だ。でもそれは不思議なことに思っていたほど嫌ではなかった。十数年ぶりに口にしたというのに、あんなに嫌だった単調な甘みも気にならない、むしろ上品に感じたほどだ。ただやっぱり、甘みの奥に微かなえぐみがある。
知ってる。
それは私の中にあるえぐみ。
大切なものを守れなかったえぐみ。
本当は素直で真っ直ぐでありたいと願う人間が、わざと不真面目な人間を演じているみたいな不自然なえぐみ――。
私は口の中で小さくなった柿をごくりと飲み込んだ。
「甘くてとっても美味しいです」
そう言って、できるだけ自然な笑顔を作る。そして心の中で呟いた――でもやっぱり、柿は苦手だ。