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たね

「実技試験、開始一分前です」

 静まり返った会場内に、女性のアナウンスが響き渡った。

 小学校の体育館のようなだだっ広い空間。会場にはたくさんの長机が規則正しく並んでいる。一つの長机に二組のペア。どの机にも女性ばかりが向き合って座っていた。周囲に目をやれば、スーツを着た試験官がクリップボードを手に立っている。試験官もまた、全員が女性だった。

 張り詰めた静寂が会場一杯に満ちていく。

 上を見上げれば、広大な天井から厳正な光が降り注ぎ、目を瞑れば、普段よりも早い心臓の音が聞こえてきた。

 一分がこんなに長く感じられるのはいつ振りだろう?​

 アクリル。アセトン。嗅ぎ慣れたはずの匂いでさえ、頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱していくようだった。

 大丈夫だろうか?

 周りを見れば、誰もが自信に満ち溢れて見える。隣にいるやけに姿勢の良い彼女も、奥に見える髪の長い彼女も、皆が自分よりも上手くできるような気がした。

 急に不安になった僕は、深呼吸で自分を落ち着かせた。

 大丈夫、僕だって、今日のためにたくさん練習してきたじゃないか――心の中でそう自分に言い聞かせると、僕の緊張が伝わったのか、向かいに座っていた母がささやいた。

「頑張って」

 顔を上げると、母と目が合った。マスクで口元は隠れて見えないのに、なぜだか微笑んでいる気がした。

「それでは始めてください」

 やがて会場内に試験開始のアナウンスが鳴り、カチャカチャと一斉にメンダを押す音が聞こえてきた。

 僕は深く息を吸い込むと、腹を括って母を見た。

「じゃあ、始めるね」

 僕もメンダを押してエタノールをコットンに染み込ませる。それからエタノールの染みたコットンを中指に挟み、自分の手の甲、手のひら、そして指のすき間と消毒していった。それが終わると、次はモデルの消毒。僕は母の手を取った。

 ほんのりと温かい母の手は、老木のようにごつごつと硬い手だった。

 それは皮膚が硬く、あかぎれだらけで、ネイルなんて無縁の労働者の手。

 その手にコットンを滑らせていると、母と過ごした幼少の頃の思い出が頭の中に広がり、指を一本撫でるごとに、母に対する様々な感情が胸に込み上げた。

 僕がまだ小さかった頃、母の手は色白で、柔らかくて、綺麗な長い指をしていた。

 それは気まぐれで、気前が良くて、いつもさりげなく僕に味方してくれた優しい手だ。

 でもだからこそ、僕は母にこのモデルを頼んだ。僕は母に、今日、この日のために頑張ってきた僕を見て欲しかったのだ。

「何してるの?」

 庭の畑仕事をしながら母が言った。

 母の手は泥にまみれていて、爪にも土が入り込んでいた。でもその手は、僕がもう学校に行きたくないと泣いたあの夜、優しく僕の背中をさすってくれた温かい手だってことを僕はちゃんと覚えていた。

「種を植えたんだよ」

「種?」

「梅干しの種」

「梅干しの種?」

「きっと梅の芽が出てくるよ」

 僕がそう言って、母の隣でこんもりと盛り上がった土の山をスコップで叩いていると、母は何も言わずに畑にハーブの苗を埋めていた。

 

 当時の僕は学校に通っていなかった。クラスの中に僕を目の敵にする嫌なヤツがいて、そいつと顔を合わせたくなかったからだ。どこの学校にもいると思う。体が大きくて、自分よりも小さくて弱い人間をまるで自分の手下のように扱うヤツだ。担任の先生にも相談したが、そいつが態度を改めるとかそういうことはなく、状況は変わらなかった。担任の先生は、男は男らしくあれと考えるタイプの先生だったから、女々しい僕にも問題があるという態度だったし、学校側も、僕がそいつに虐められていたという明確な証拠はないという立場だった。実際、僕はそいつに殴られたとか、蹴られたということはなく、単にそいつの僕に対する馴れ馴れしい絡み方だとか、上からの態度だとかが嫌だっただけだったから、学校は僕がわがままを言っているだけのように考えていたんだと思う。

 でも母は、そんなに嫌なら行かなくていいと言ってくれた。今でこそ不登校への理解は進んだが、当時はまだ、不登校は甘え、親のしつけが悪いと考えられていた時代だ。そんな時代に、僕の母は僕の気持ちを聞いてくれて、それに理解を示してくれた。ただ、学校へ行かない代わりに、規則正しく生活することと、母が買ってきたドリルを解くことを約束させられた。そして日中のお昼ご飯は自分で用意するようにとも。当時の母は、日中、パートに出ていたからだ。

 もっとも、僕にとって、ご飯作りは楽しみでもあった。なぜならキッチンは母の領域で、危険な包丁や火もある「大人しか入れない特別な場所」だったからだ。そこに自由に出入りできるとなると、僕も大人になったような気分を味わえる。ただ実際は、自分で料理をして食べ物を用意していたわけではなく、冷蔵庫の中に残っていた昨夜のおかずとご飯を温めて食べていた。ご飯がなければパンを食べたし、簡単な卵焼きくらいだったら自分で作れた。今思えば、母が夜のうちに色々と用意してくれていたのだろうけれど、当時は、クラスメートの中に僕よりも料理の上手い人はいないだろうと思っていた。自分でご飯を用意して食べているという経験が、僕の自信になっていたのだ。

 さて、梅干しの種だ。僕はその日もお昼にお茶漬けを食べていた。お茶漬けには梅干しを入れて食べるのが一番うまい。たとえ梅味だったとしても、本物の梅干しが入っているかどうかでは大違いだ。その日も僕はお茶漬けを食べ終えて茶碗を洗っていた。そうしたら茶碗の底に沈んだ梅干しの種が目に入った。そしてふと、これを埋めたらどうなるだろうと考えた。それで母がハーブの苗を植えると聞いたから、一緒に庭に出て種を埋めたというわけだ。

 でもやっぱり、世の中には仏もいれば鬼もいるわけで、僕の不登校をよく思っていない人も当然いた。

​​

 

 その日、僕は梅干しの種に水をやっていた。

 こんもりと盛り上がった土に小象のジョウロで水をやると、乾いた土がどんどんと黒く湿っていく。それがなんだか嬉しくて、僕は鼻歌まじりに水をやっていた。

 するとそこへ父がやってきた。

「お前、何やってんだ?」

 父は煙草を口元にだらんとぶら下げて不思議そうに僕を見ていた。

「水をあげてるんだよ」

「水?」

「種を植えたんだ。梅干しの種」

「梅干しの種?」

 父は馬鹿にしたように笑って、それからいつものように煙草に火をつけた。

 父の吐き出した白い煙は、まるで王様に命令された奴隷のように僕のところにやってきて、僕の頭を押さえつける。鉄さびのような嫌な臭いが顔の周りに絡みついて、僕は煙を手で追いやった。

「芽が出てきたら面白いでしょ?」

「芽なんか出るもんか」

「なんで?」

「だってその種は死んでるから」

「死んでるの?」

「知らないのか? 浸透圧って言ってな、塩に浸かった時点で――」

 と父がそこまで言いかけた時、縁側で洗濯物を畳んでいた母が言った。

「やめなよ」

 母は一言だけ言うと、長くしなやかな指先で洗濯物をそっと抱え上げてどこかへ行ってしまった。

 僕も母と一緒にどこかへ行ってしまいたかったが、父がそこにいたから家にも入れず、仕方なく庭の草花に水をやり始めた。すると父が言った。

「学校に行けば、そういうことも勉強できるんだぞ。お前、なんで学校行かないんだ?」

 僕は父に説明しても分かってもらえないことを知っていた。

 父が言う勉強の大切さは何となく理解できる。勉強をすることで将来の選択肢が増えることも何となく理解できた。でも父はクラスの嫌なヤツと担任の先生を足して二で割ったような人だ。僕が嫌な思いをしていることを訴えたところで、我慢が足りないと言われるのは目に見えていた。父が子どもの頃に我慢をして育った話は何度も聞いている。

「学校に行かないと、友達もできないし、これからお前が大きくなった時に、お前だけ社会のルールを知らないってことになるんだぞ? 周りはみーんな知ってるのに、お前だけ、知らない。いいのか?」

 僕は黙っていた。

 父が言っているのは、僕が苦手な協調性ってやつだ。それが良いのか悪いのかよりも、その時は父の脅すような言い方が嫌だった。

「まあそんなに行きたくないなら行かなくていいけど、そうやって無駄なことしてるくらいなら、ドリル解けよ。そっちのが百倍ためになるぞ」

 べつに勉強がしたくないわけではなかった。

 今はただ、水やりがしたいだけだ。でもそれを言ったところで、気持ちよく水やりができるわけではない。笑われて馬鹿にされるのがおちだ。だから僕はその日以来、父が家にいる時はいつもドリルを解いていた。

 

 

 それからしばらくして、雨の季節がやってきた。

 昨日も、その前も降っていた。今朝の雨は昨日よりも激しくて、大粒の雨は太鼓のように地面を叩き、種を埋めたところにも容赦なく小さな穴を作っていた。

 雨の何が嫌かって、何でも憂鬱に感じてしまうところだ。本当は大したことではないようなことも、雨が降っているだけで、取り返しのつかない物事のように思えてくる。

 僕は種が土の外に出てこないか心配で、窓の前に座って庭を眺めていた。

 すると、母が言った。

「暇なら手伝ってよ」

 母は机の上に雑誌を何冊も広げてハガキを書いていた。

 母の周りには、束になって積み上げられた大量のハガキと数本のマジックペン、そして花柄のマグカップが置いてあった。

「ねえこっち来て、これ貼るの手伝って」

 母の指先に、小さなシールがくっついている。

 すらりと長いしなやかな指。色白で綺麗な手だ。

 僕はまた窓の外に目をやった。

 べつに暇なわけではない。

 今はただ、種が土の外に出ないか心配なだけだ。

 でも――僕は母に振り返る。

 嫌な気はしない。僕が手伝えば、母が喜ぶ姿が頭に浮かんだ。

 僕は母の隣に座った。そして母に手渡されたハガキに、何だかよく分からない凹凸のあるシールを貼っていった。

 

 

 翌朝は、それまでの雨が嘘のような青空が広がっていた。

 昨夜、種のことが心配で中々眠れなかった僕は、パジャマ姿のままサンダルをつっかけて庭に飛び出した。

 花壇に駆け寄り、その隣に盛り上がった土の山を覗き込むと、山は溶けたように崩れていたが、種は外に出ていない様子だった。

 僕は安心して庭の水道へ近づいていった。

 水道脇にあるカゴの中から小象のジョウロを手に取る。そして水道からジョウロに水を入れると、それを持って、僕は種を埋めた場所へ戻っていった。

「いま水をあげるからね。たくさん飲んで芽を出すんだよ」

 僕は崩れた土の上からちょろちょろと水をかけてやった。すると縁側から父の声が聞こえた。

「お前、まだやってんのか?」

 父は縁側に座って煙草をくわえていた。

「無駄だからやめろって」

「芽、出るかもしれないじゃん」

「出ないって。梅干しのタネ、浸透圧で調べてみろ」

 父は見下したように笑っていた。もちろん当時は、父が見下していたように感じたわけではないが、父が僕を応援して微笑んでいるようには思えなかった。僕はすごくがっかりしたし、本当に無駄なのかもしれないと思った。そしてそれ以来、僕は本当に水やりをやめてしまった。

 

 

 それからまたしばらくしたある日、庭の花壇を手入れしていた母が僕を呼んだ。

「水、あげないの?」

「芽、出ないんだって」

 僕が窓から顔を出して言うと、母は笑いながら庭の水道へと向かっていった。

 何をするのかなと思って見ていると、母は地面に落ちていた小象のジョウロを拾い上げて、水道の蛇口からジョウロに水を入れていた。

「やっても無駄だよ。浸透圧って言って、塩に浸かった種は死んじゃうんだ」

 僕はそう言ったけれど、母はやめなかった。そればかりか、山を作り直して、その上からちょろちょろと水をかける母の姿に、胸の奥がざわざわと騒ぎ出すのを感じていた。

「芽、出るといいね」

 だから、あの時そう言って僕に微笑んだ母の笑顔は、今でもはっきりと覚えている。

 

 

 それは青空が澄み渡る穏やかな午後だった。

 庭木の若葉がそよ風に揺れ、家の中に花の香りが漂っていた。

 昼食を食べ終え満腹感に浸っていた僕は、茶碗の中にぽつんと残った梅干しの種を見て、随分と前にそれを庭先に埋めたことをふと思い出した。父に芽は出ないと言われてから、一度も世話をしていない梅干しの種だ。

 僕は気になって庭に出てみた。

 サンダルをつっかけて、花壇横の種を埋めたであろう場所へ行ってみる。

 すると、こんもりと盛り上がった土の頂点から、ひょろひょろとした緑の芽が伸びていた。

 その時の僕と言ったら、きっと家が揺れるほど強く飛び上がっていたんだろうと思う。それとも庭木に止まっていた鳥たちが驚いて飛んでいくくらい大きな声で叫んでいたか、今となってはもう覚えていないが、とにかく嬉しかったことだけは覚えている。胸の中で小さなしゃぼん玉が次々と弾けていくような幸せだ。そうしたら、母が何事かと庭に出てきた。そして僕が盛り土から出た緑色の芽を見せると、「芽、出たね」と嬉しそうに笑っていた。

 今思えば、それが雑草の芽であることは一目瞭然だ。でもあの時は本当に嬉しかった。本当に梅干しの種から芽が生えたと思ったし、何より、僕を信じて一緒に水やりをしてくれた母も嬉しそうに笑っていたことが、地面を転がりたいほどに嬉しかった。

 だから今日はそのお返しだ。

 今日は母の喜ぶ顔が見たい。

 僕は母の驚いたような表情をちらりと確認すると、母の小指をとって、その爪にネイルポリッシュを丁寧に重ねていった。

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© 2014 riouda

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