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ウソツキ
翌朝、目を覚ますと、母親が居間のソファに眠っていた。
エアコンはかけっ放し、カーテンは閉まっている。薄暗い部屋にカーテンの下から光が漏れていた。
少年は一晩眠って気持ちは落ち着いたものの、学校には行きたくなかった。幸いにも、母親は眠っている。少年は母親を起こさないよう忍び足で台所へ向かうと、冷蔵庫の中から昨夜の弁当を取り出した。ところがそれを持って寝室に戻ろうとした時、母親が目を覚ました。
「あんた、学校は?」
眠そうなかすれ声で少年に話しかける。少年はびっくりして足を止めた。
「え? いや、今日やすみ」
「何言ってんの? 今日、終業式でしょ?」
「いや、ちょっと頭いたくて」
「頭痛い? 嘘でしょ? お母さん、今日、九時から会議あるんだけど」
「だいじょうぶ、静かにしてるから」
「そういうことじゃなくて、あんたいると気が散るのよ」
「えぇ……」
少年が渋っていると、
「ちょっと行って帰ってくるだけじゃん。学校、行ってきなよ」
と、母親が言った。母親がこの言い方をした時、少年に「学校へ行く」以外の選択肢は残されていない。
少年はしぶしぶテーブルについた。そして弁当の残りを食べ、学校へ行く準備をすると、気は乗らなかったが、仕方なく重い玄関の扉を押した。
◇
教室に行くと、クラスが騒がしかった。
いつもより遅い時間に登校したせいか、すでに朝読書の時間は始まっていて、教壇に先生の姿はなかったが、畑中の机の周りに五、六人の男女生徒が集まっていた。畑中の姿はない。
異様な空気を感じつつ、少年が教室に入っていくと、集まっていた五、六人が一斉に少年を見た。
「あ、どろぼうがきた!」
するとその声につられるように本を読んでいた生徒たちも不安そうに少年に振り返った。皆の視線が凍った針金のように突き刺さる。
「うわ、どろぼう! どろぼう!」
小久保が大袈裟に驚き、前橋もわざとらしく煽り立てた。
少年は訳が分からなかった。なぜ自分が泥棒と呼ばれているのか、心当たりが一つもない。
少年は自分の席まで行ってランドセルを置くと、隣の席の男子に聞いた。
「どろぼうってなに?」
「おまえ、畑中のスイッチぬすんだんだろ?」
少年はびっくりして固まった。ランドセルに置いた手が離せない。
僕が畑中のスイッチを盗んだ? 何がどうなって畑中のスイッチを盗んだことになってるの?
すると近くにいた女子たちがひそひそ声で話し始めた。
「畑中くん、かわいそう」
「ショックでやすんだのかなぁ」
「ひどい、返してあげればいいのに」
クラスの皆が知っている顔をしていた。
少年が悪者で、畑中は可哀想な被害者。誰も少年に味方する者はいなかった。
誰も笑わない。誰も少年に話しかけない。ただじっと、遠くから少年を観察していた。
クラス中に身に覚えのない噂が流れている――少年がそう悟った時には、そこに少年の居場所はなかった。
怖くなった少年は、机に置いたランドセルを背負い直すと、俯いたまま早足で教室を出ていった。
◇
柔らかい風が吹き抜けていった。
遠くには曽良琴川が流れている。悠々と、まるでこの世に悩みごとなんて存在しないかのように流れていた。
土手のコンクリートに腰を下ろして、傍に生えている雑草を抜き取る。
ぶちん、ぶちんと引き抜くたびに、胸の奥に染みついた黒い汚れが薄れていくようで、少年はひたすらに雑草を抜き続けた。
家には帰りたくない。
今帰ったら、母親に学校に行かなかったことがバレて、ひどく怒られるだろうと少年は思った。
でもどこにも行くところはない。これからどうすればいいかも分からない……。
少年がぼうっと川を眺めていると、背後から低い声がした。
「最近来ないと思ったら――」
振り返ると、マロンが立っていた。マロンはいつもの白いランニングシャツではなく、長袖の作業着を着ていた。いつもと少しイメージが違う。刺青がないと、どこかの工場で働く偉い人に見えた。でもよく見ると、いつもよりも疲れているような、どことなく眠そうな顔をしている。
「おじさん……」
少年が口篭もると、マロンは、
「なんだ、元気ねえな。どうした?」
と、少年の隣に座った。
マロンがポケットから煙草を取り出し、火をつける。
白い煙がふわっと風に乗って飛んでいった。
「みんな、うそを言うんだ」
「ウソ?」
「ぼくがどろぼうだって。ぼくが畑中のスイッチをぬすんだって……」
マロンは何を言うでもなく少年と同じように遠くを眺めていた。聞いているのかいないのか、ただ煙を吐いてぼうっとしている。するとしばらくして、マロンが言った。
「盗んでねえのか?」
「ぬすんでないよ」
「じゃほっとけ」
「でもほっといたらぼくがわるい人になっちゃう。ぼくはわるくない。うそを言うほうがわるいよ」
少年が言うと、マロンはふっと笑った。
「お前はウソついたことねえのか?」
マロンは煙草を歯の間に挟んで少年をじっと見つめていた。
その口元から白い煙がもくもくと流れていく。
「ないよ」
少年はそう言うと、静かに俯いた。
嘘をついたことはある。でもあると言ったら、自分が悪くなりそうで、あるとは言えなかった。
胸の奥がちくちくと痛い。
「そうか」
マロンはそう言うと、また遠くを眺めて煙草を吸い始めた。
マロンは僕が嘘をついていると思っているのだろうか。
僕が嘘を言っているから怒っているのだろうか。
それ以上何も言ってこないのが、かえって見透かされているようで、少年は落ち着かなかった。
温かい川風がやさしく首筋を撫でていく。
「おじさんは? うそついたことある?」
少年が言うと、マロンは少年をじっと見てから、にっと汚い歯を見せて笑った。
「俺か? ああ、大ウソツキだ」
その言い方があまりに面白くて、少年も思わず笑みをこぼす。
「いいか少年、ウソはみんな言う。そんなもん気にしてたらキリがねえ」
そう言って、マロンはゆっくりと立ち上がる。
「あとでウソ言った奴ら全員連れてこい。俺が懲らしめてやる」
そして口の端をにやりと上げると、少年と目を合わせて小さく頷いた。
マロンの背中が土手の向こうに消えていく。
少年はその場に立ちあがると、小さく息を吐いた。
なんだかずいぶんと久しぶりに、胸の奥がすうっと軽くなった気がした。ちくちくと痛かった胸の痛みも、胸の奥につかえていた黒い汚れも今は感じない。あとに残ったのは、真っすぐに伸びる土手道と、風にそよぐ緑の竹林、そしてどこまでも高い、抜けるような青空だけだった。
◇
「ただいまぁ……」
少年が帰宅すると、玄関のところに母親が立っていた。
「あんた、どこ行ってたの?」
母親は化粧をして外行きの恰好をしている。
「え?」
「いいから用意して」
「よういって?」
「今から畑中くんの家に行くから」
母親の手には菓子折りの袋がぶら下がっていた。
「こういうのは早い方がいいの、急いで」
少年は急かされるまま支度をすると、母親の運転で畑中の家に向かった。
少年は畑中の家に行ったことはない。家政婦さんがいる三階建ての豪邸というのは知っていたが、どこにあるのかは知らなかった。そのため少年は、母親から案内を頼まれたらどうしようとびくびくしていたのだが、母親は真剣な顔でナビに従って運転していた。
「畑中んち知ってるの?」
少年が聞くと、母親は、
「たいちゃんママから聞いた」
とだけ答えた。たいちゃんというのは、畑中の取り巻きの一人だ。小久保や前橋とも仲が良い。母親はきっと、あの日、何があったのかを知っているのだろうと、少年は思った。
畑中の家は、町の中心部にほど近い団地の中にあった。四階建ての大きな棟がいくつも並んでいる昭和の雰囲気が残る古い団地だ。
「ここ?」
「そうみたい」
母親はスマホを見ながら棟の番号を確認していた。その横で、少年は想像とまるで違う畑中の家に戸惑っていた。畑中がどうして三階建ての豪邸なんて嘘を言ったのか、よく分からない。
建物の階段は段差を上がるたびにコンと音が響いた。階段の隅には落ち葉が溜まり、踏み面にはところどころ欠けた部分もあった。階段を上るにつれて乾燥したコンクリートの匂いが立ちこめ、少年は本当にここが畑中の家なのか、まだ信じられない気持ちを飲み込んでいった。
やがて母親は青い扉の前で立ち止まった。『303』と表記された表札の下に名前は書かれていない。インターフォンを押すと、しばらくしてぼそぼそとした女性の声が聞こえてきた。
母親は偉い人用の高い声で話していた。インターフォンの前で何度も頭を下げて謝っている。そんな母親を見て、少年は心から申し訳なく思った。そして本当に大変なことをしてしまったんだと改めて思った。母親が謝っている間、畑中の親は玄関先に出てくる様子はなかったが、母親が菓子折りを持ってきたことを伝えると、インターフォンが切れて、玄関の扉がゆっくりと開いた。
でも扉は全部開かなかった。十センチほどのすき間に防犯チェーンが揺れていた。その隙間に覗くぼさぼさの金髪と腫れぼったい目。畑中の母親は扉のすき間から訝しげに覗いていた。
家の中からマロンの家と同じ匂いが漂い出す――とその時、家の中からばたばたと足音が聞こえてきた。扉の隙間から家の中を覗くと、母親の後ろに隠れてこちらの様子を窺う畑中がいた。でもその様子はどこか変だった。変に怯えていて、妙に弱々しくて、陽キャだと思っていた畑中からは想像もつかないほど貧弱に見えたのだ。
ウソはみんな言う――少年はマロンの言葉を思い出した。
見ていられない……。
まるで自分を見ているようで、少年は畑中からそっと目を逸らした。
◇
畑中の家からの帰り道、車を運転していた母が言った。
「畑中くんち、お酒臭かったね」
少年は上の空で外の景色を眺めていた。
畑中の怯えたような顔が忘れられない。もちろん、畑中が無事でよかったと安心する自分はいる。その一方で、いつも威張っていて自己中心的な畑中が用水路で怪我をしたとしても、それは仕方のないことだと思っていた自分もいた。あれを機に自分に対する嫌な絡みがなくなるなら、そっちの方が良いと思っていたくらいだ。でも畑中が虚勢を張っていたとなれば、話は変わってくる。
「僕が畑中を押したんだ」
少年は言った。
すると母親は助手席の少年にちらりと目をやり、すぐに前を向いた。
「うん、知ってる」
そう言った母親の口元が少しだけ緩む。
「怒らないの?」
「怒らないよ。もう終わったことだから」
その言葉は思っていたよりもずっとあっさりしていて、逆に胸がすうすうするような、締まりのない感覚が生まれた。
それだけ? それで終わり?
なんだかすっきりしない。怒られて、泣いて、謝って、そうやって終わるものだとばかり思っていた。それなのに母親は怒らない。本当なら怒られなくて嬉しいはずなのに、どうにもそういう気持ちになれなくて、少年は窓の外を見ていた。すると母親が言った。
「どうしてそんなことしたの?」
「うそつきって言われたから」
「そっか」
母親は苦笑いを浮かべていた。まるで少年が嘘に厳しいことを知っている、そういう笑い方だった。
「でも逃げちゃだめだよ」
「ごめんなさい」
「それはお母さんじゃなくて、畑中くんに言って。悪いことしたなって思ったら、ちゃんと謝る。当たり前のことだからね?」
その瞬間、もやもやしていた胸に小さな重みを感じた。胸の奥に小さな石をそっと置かれたような感覚だ。
そうか、と少年は思った――怒られなかったからといって、自分がやったことがなかったことになるわけじゃない。むしろ、だからこそ、自分の中に残ったままだ――少年は背筋を伸ばすと、遠くの景色を見るのをやめてまっすぐ前を見た。
「今回は近所のおじさんが助けてくれたから良かったけど、もしおじさんがいなかったら、大変なことになってたかもしれないよ」
母親が言う。
「おじさんって?」
「ほら、腕に刺青入れてるおじさん、いるじゃん」
マロンだ、と少年は驚いた。
マロンが畑中を助けた? でももしそれが本当なら、マロンはあの時、僕が畑中を用水路に突き落としたことを知っていて話しかけてきたことになる。
「意外だよね?」
母親は笑っていたが、少年は胸の奥に置かれた小石がずしりと重くなったように感じた。
そうだ。きっとそうだ。マロンは、僕がちゃんと謝れるか、試しているんだ。だから何も言ってこなかったんだ。だって僕はまだ、どちらにもちゃんと謝れていない。
「あのね、お母さん――」
少年はごくりとつばを飲み込んだ。
「なに?」
「あのね、僕、おじさんの家の窓硝子、割っちゃった」
「ええ?」
母親はひどく驚いた。驚いたせいか、車が赤信号で急停止する。
「ごめんなさい」
「ええ……、どうしよう……」
母親は信号を見つめて考え事でもするかのようにハンドルを指で叩いていた。
「あやまりにいく?」
「お母さん、あの人、怖いから嫌だなぁ……」
「そんなことないよ、お父さんみたいな人だよ」
少年の言葉に、母親の指が止まった。ハンドルに添えていた指先が力なく丸くなる。母親は信号を見つめたまま動かなかった。少年は言わない方がよかったかと思ったが、少しすると、母親が不意に少年の方を見た。
「晴太、手、出して」
「なに?」
少年が手のひらを差し出す。と、母親はその手をぎゅっと握った。
母親の目の奥がほんの少しだけ赤い。
「今日お母さん、休み取ったから、このままどっか遊び行こっか」
久しぶりの母の手だった。柔らかくて、少し湿っていて、ほんのりと温かい。それがだんだんと熱くなっていく。それが嬉しくて、少年は満面の笑みを浮かべると、うんと力強く頷いた。
◇
夏休みに入って数日が経ったある日、少年は母親と一緒にマロンの家を訪れた。
少年の手には菓子折りの入った袋がある。少年が自ら渡したいと母親から受け取った袋だ。
家の前の雑草は伸びて、足の踏み場がなかった。
周囲からは相変わらず蝉の声が鳴り響き、焼けるような日差しが肌を突き刺していた。
「じゃ押すよ」
母親が玄関の呼び鈴を押す。ところが、いつもの一瞬途切れるチャイムの音がしない。何度か押したが、呼び鈴は鳴らなかった。
「いないのかな……。すみません!」
母親が玄関の扉をノックする。
窓に目をやると、硝子は割れたままだったが、縁側に置いてあったタイヤがなくなっていた。
不思議に思った少年は家の正面に回った。
なんだか胸騒ぎがして家の中を覗くと、部屋の中は空っぽだった。箪笥も卓袱台も、何より大量にあったビールの瓶がなくなっている。
「からっぽだ……」
少年は驚いて立ち尽くした。
「ごめんくださあい!」
縁側から何度も呼びかける母親の声が聞こえてくる。
「いないみたい、帰ろう」
母親に呼ばれて縁側に回った少年は、母親に言われて足を止めた。
「あれ? これ、あんたのじゃない?」
蔦の絡まり付いたからからに乾燥した木の縁台。その上に、失くしたと思っていた飛行機の羽がぽつんと置いてある。
縁台の隅に不自然に置いてある羽を手に取って、少年はぼそりと呟いた。
「ウソツキ」