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べつにいいじゃん
水色が眩しい六月の朝。
新緑は香り、空気はやけに清々しかった。
かすかに漂うガソリンの匂いも気にならない。どこからか小鳥の歌声さえ聞こえてきそうなほど長閑な朝はいつぶりか思い出せない。あまりの心地良さに目を瞑ると、普段は使うことのない硬い言葉たちが、頭の中で列を成して踊っているみたいだった。
アルは助手席のシートに背を預けると、ゆっくりと目を開けた。
黒いサングラス。髭は綺麗にそり落としてある。首元には小さめの黒い蝶タイ。休日の朝にはおよそ似合わない黒のタキシードが長い手足を美しく引き立てていた。
頭の中の言葉を試しに一つ、口にしてみる。すると、まるで一つの言葉が次の言葉の手を引いていくように、口からぽんぽんと言葉が飛び出していった。それら連なった言葉たちは、やがて文章となり、意味を帯びて、口にするほどに頭の中を快く嬉しい感情に染めていく。
アルは手元のスマートフォンに目をやった。
スマホの画面にも同じ言葉が並んでいた。
アルはまた目を瞑ると、それらの文章をぶつぶつと口にしていった。
しばらくして運転席のドアが開いた。
赤のマスタング。幌(ほろ)は開いている。
その真っ赤な車体をどしんと揺らして運転席に乗り込んできたのは、アルの友人、ジェイだ。頬までびっしりと髭を生やしたこの小太りの若者もまた、アルと同様に黒いサングラスをかけ、黒のタキシードを着ている。
「知佳ぴょん、芸能界、引退だって……」
ジェイはそう言うと、正面を見つめたまましばらくぼうっとしていた。ジェイの手にはコンビニで買ってきた珈琲が握られている。
「俺、ガチファンだったのに……。知佳ぴょん、引退してどうすんだろ? ユーチューバー?」
そう言ってジェイが珈琲を差し出すと、アルはスマホを上着の内ポケットにしまった。
「いくらだった?」
「えっ?」
「ガス代」
「ああ、五千」
「おけ。あとで払うわ」
アルが前を向いて珈琲を口にする。するとジェイは不満そうにアルを見つめた。
「お前、俺たちの推しが引退宣言したのに何とも思わないのか?」
「べつに」
「べつにってお前……」
ジェイはなんて素っ気ない奴だと思ったが、今日という日がそれを帳消しにするくらい幸せな日だということも知っていた。
ジェイはやれやれと首を振ると、苦笑いを浮かべながらエンジンをかけた。
ドゥルンという重厚な爆発音とともに、空気が震え、エンジンが目を覚ます。
誰もいない朝のガソリンスタンドに、ドドドドと低い振動を響かせて、二人の乗った車はゆっくりと走り出した。
◇
爽やかな薫風が全身を吹き抜ける。
シートに背を預けて風を感じていたアルは、サングラスの下で薄目を開いた。
高層ビルが立ち並ぶ都心の大通り。歩道には散歩を楽しむ老夫婦の姿が見える。ビルは陽光を反射し、街路樹は若葉を風に揺らしていた。今日が土曜日というのもあるだろうか。歩道ランニングをする人や、カフェで勉強する学生の姿が目に付く。沿道に沿った街路樹の下では、トラックドライバーがカーテンを閉めて休憩していた。いたって平凡で、のどかな朝だ。
すると、ジェイが言った。
「そういや、ケイいるじゃん。 あいつ、また面接落ちたらしいよ」
ジェイは片手でハンドルを操作しながら珈琲を飲んでいた。
「あいつ何社目だよ? 社会不適合にも程があるだろ?」
ジェイが笑うと、アルが言った。
「べつにいいんじゃん」
「そう?」
「あいつに合ってなかったってだけでしょ?」
「まあな」
「あいつこそ、ユーチューブ始めた方がいいよ」
「たしかに。何系かな? やっぱゲーム実況?」
「歌ってみた系は?」
「ムリムリ。あいつ、めちゃくちゃ歌下手だから」
「そうなの?」
「この前、あいつとカラオケ行ったけど、ガチのド下手くそだったわ」
ジェイはハンドルを叩いて笑っていた。
「へぇ。でも度胸あんじゃん」
「そうなんだよな。あいつ度胸だけはすげえんだよ」
「じゃ心霊系?」
「今度、青三沢トンネルに置いてくか」
そんな風に冗談を言い合いながら、二人は初夏の陽光が降り注ぐ並木道を通り過ぎていった。
◇
やがて二人は駅前の交差点に差し掛かった。よく晴れた休日。駅前の人通りは多い。
二人が赤信号で停止していると、二人の前をみすぼらしい恰好の老婆が通り過ぎた。
老婆は夏だというのにぼろぼろの長袖と長いスカートをはいていた。どこから持ってきたのか、スーパーマーケットのカートに大量の荷物を積み上げ、それを重そうに押しながらゆっくりと交差点を渡っている。
「ちんたら歩いてんなよ。はよ渡れ!」
ジェイが笑うと、アルが言った。
「べつにいいじゃん」
老婆を見つめるアルのサングラスが太陽の光を反射していた。
ジェイだって本気で老婆をとがめるつもりはない。冗談のつもりで言ったのに、まるで自分の器量が小さいような返事をされてむっとしない人間はいないだろう。ジェイはしばらくアルをじっと見つめたあと、信号が青に変わったのを見て何も言わずに車を進めた。
それからしばらくは何もなかった。
二人は特に話すこともなく、ジェイはラジオを聴き、アルはスマホを眺めていた。ところが、もうすぐ目的地に着きそうだとなった時、二人は交通渋滞に巻き込まれた。今朝は余裕をもって出発したとは言え、このまま渋滞が続くようであれば、約束の時間に間に合わなくなる可能性もでてくる。そしてそういう状況では大半の人間がそうであるように、ジェイの胸の内にも苛々が芽生えていた。
しかしイライラというのはどうして重なるのか。そういう時にかぎって、二人の前にいた車の運転席から煙草が投げ捨てられ、それを見たジェイは半ば無意識的に舌を打ち鳴らした。
それに気付いたアルがジェイを見る。
「どうした?」
「煙草のポイ捨て」
まだ半分も吸い終わっていない煙草が道の上で煙を上げて燃えていた。
するとまたアルが言った。
「べつにいいじゃん」
その言葉に、ジェイの眉がぴくりと上がる。
「お前、さっきからそればっかだけど、どした?」
「べつに。気にすることないじゃんってだけ」
「煙草ポイ捨てしたんだぞ?」
「べつにいいじゃん」
「火ついてんだぞ? 危ねえじゃん」
「火がついてて、それで火事になったとこ見たことあんの?」
「火事じゃなくても、車に引火して爆発したらやべえじゃん」
「爆発したとこ見たの?」
ジェイは黙り込んだ。見たことがあるかと言われればない。しかしそれでいいかどうかは、また別の問題だ。
「分かった。じゃあ火はいい。でもポイ捨てはダメだろ?」
「べつにいいじゃん。いつかは自然に還るって」
「お前な、葉っぱの部分はいいけど、フィルターは自然に分解しないんだぞ? 知らねえのか?」
するとアルは呆れたように笑った。
「お前、あいつの友達?」
「いや」
「じゃいいじゃん。ほっとけよ」
「でも胸糞悪いじゃん」
「それは分かる。でもよく考えてみろ。あいつ、お前に何かしたか?」
「いや」
「じゃいいじゃん。そんなことで気分悪くする方がもったいない」
アルが、今日のように特別で幸せな日をわざわざ他人の行動で台無しにするのはもったいないと言いたいのは、ジェイにも充分伝わっていた。二人は高校時代からの友人だ。お互いの性格は知り尽くしている。しかしここまで来たらジェイもただでは引き下がらない。
「いやよく考えてみろ。あいつ、とんでもないことしてるぞ。地球に」
ジェイはそう言うと、いよいよ進み出した車の流れに乗って高架橋の下を右折していった。
◇
渋滞を抜けてしばらく走っていると、またジェイが言った。
「ていうか、アル、この人知ってる?」
そう言ってスマホの画面をアルに見せる。そこにはSNSのプロフィール画像が表示されていた。
「有名人らしいけど、俺、なぜかこの人に叩かれてんだよね……」
「人違いじゃない?」
「分かんない。もらい事故みたいな感じ。エルいるじゃん? エルの知り合いみたい」
「へぇ」
アルが興味なさそうに外の景色に目をやる。と、ジェイが続けた。
「お前、こういうの、どうしてる?」
「俺、やめた」
「やめたの?」
「うん」
「エックス? インスタ?」
「ぜんぶ」
「マジ?」
「最近ほんとどうでもいいことしか流れてこないし、割とどうでもいいかなって」
「でも情報欲しいじゃん、最近の流行りとかさ」
「でも結局は自慢じゃん。誰と付き合ったとか、いくら稼いだとか。俺には関係ないよ。好きにやればいいんじゃん」
アルは目元を緩ませて風を浴びていた。気持ちよさそうにゆっくりとまばたきを繰り返すその表情は、まるでシルクのリボンがするすると風にほどけていくように軽やかで自由だった。
「お前、カッコつけんなよ」
ジェイが笑う。するとアルも笑った。
「いや、なんかさ……。俺、思ったんだよね。テエから結婚するって聞いた時、俺、何してんだろって。毎日インスタ開いて、ユーチューブ見て、ゲームして……。俺、何してんだろって」
アルはそう言うと、恥ずかしそうに珈琲を口に含んだ。
「そしたらさ、なんか全部がどうでもよくなってきて。だからテエからスピーチ頼まれた時、めちゃくちゃ嬉しかったの。俺なんだって思ったし、これはやるしかねえなって燃えた」
「それいいな」
ジェイが頷く。
「でしょ? たぶん、わざわざスクショとってジェイに文句言ってきたその人は、自分が何してるか分かってないんだと思うよ。大体、その人はジェイの何を知ってんの?」
「たしかに」
「お前のこと知らない他人が何を言ってきたって、気にする必要ないでしょ?」
「だな」
ジェイはどこか誇らしげな顔つきになると、しみじみとつぶやいた。
「西高一短気だったお前がここまで変わるなんて誰が想像したよ? テエ様様だな」
ところがその時だった。気持ちよく走っていた二人の前に、一台の車が急に割り込んできた。
「あぶね!」
周囲の景色が一瞬、速度を落とす。
間一髪、接触を避けた二人の前には、黒の高級ミニバンがいた。よく見ると、それはローダウンされて、派手なエアロパーツを装着している。ホイールはぴかぴかに光り、テールランプはスモークがかかっていた。デカくて、低くて、ギラギラした改造車だ。
「んだよ、こいつ!」
ジェイはまた舌を打ち鳴らした。
車線変更のウインカーはなかった。割り込んだ後のハザードランプもない。今までのジェイならば、怒りに任せてアクセルを踏み込んで、目の前の車を猛追していただろう。しかしこの時のジェイはそれまでのジェイと違っていた。
「ま、いっか」
ジェイは口元に余裕の笑みを浮かべると、ふうと息を吐き出して珈琲を口にした。
「そんなに急いでんなら譲ってやるよ。俺らは心が広いんだ。なあ?」
そしてアルに笑いかけると、ジェイの口元から笑みが消えた。
「追え」
アルの目がサングラスの奥で赤く燃えていた。
「は?」
「ジェイ、追いかけろ! 逃がすな!」
「べつにいいじゃん」
「よくねえよ! この服見ろ! これでどうやってスピーチすんだよ?」
アルのトラウザーズには、珈琲がこぼれて、まるで粗相をしたように染みが広がっていた。
◇
車を追いかけると言っても、同じ道を行くとは限らない。たとえ運よく同じ道を行ったとしても、途中で曲がってしまったり、赤信号で別れたり、大抵は追いかける方が諦める。そしてその頃には気持ちも収まっているというのが普通のことだろう。ところがこの日、二人が改造ミニバンを追って入ったところは、意外にも今日の二人の目的地だった。
「え、ちょ待って。あの車、俺らと同じなんだけど……」
こぢんまりとした平面駐車場。駐車場には小さなマイクロバスが一台止まっており、その周辺にぽつりぽつりと普通の乗用車が止まっていた。駐車場のすぐ横には西洋風のお城のような大きな建物があり、城の周りには綺麗に整備された芝の庭園が見える。庭園のさらに奥には、同じ石造りの立派なチャペルも見えた。
そのチャペルに近い位置に止まった改造ミニバンから、今、ぞろぞろと人が降りてくる。
その一人、栗色の髪を華やかに結い上げた女を見て、アルとジェイは顔を見合わせた。
「ちょ待って。あれ、エルじゃね?」
女は翡翠色のワンピースを着て、チャペルの方に元気よく手を振り上げていた。チャペルの前にはアルたちの仲間がたくさん集まっている。水色、緑、ピンクと可愛らしいドレスを着た女子とタキシード姿の男子がハグをしたり、握手をしたり、楽しそうに会話していた。
「やっぱそうじゃん。何だよ、誰かと思ったら……」
ジェイがそう言った時、ミニバンの運転席のドアがゆっくりと開いた。
運転席からピンク色の坊主頭の若者が降りてくる。若者は、黒のタキシードにヒョウ柄の蝶ネクタイを結んで堂々と立っていた。
「ケイかよ! おい、ケイ!」
ジェイはそう言うと、急いで車を降りて先に行ってしまった。
一人車に残されたアルは、珈琲を吸い取って茶色くなったハンカチをカップの上にそっとかけた。
それから空を見上げて、サングラスを額にずらす。
水色が眩しい六月の朝――空気は澄み、緑が香った。
アルは目を瞑って深く息を吸い込むと、珈琲のこぼれたトラウザーズに目をやった。
トラウザーズに染みはできていたが、黒いためにそれほど目立ってはいなかった。
「ま、いっか」
自分に言い聞かせるようにそう口にして、上着の内ポケットに手を入れる。そしてポケットから今日の招待状を取り出そうとして、そこにスマホしかないことに気が付くと、「あっ」と小声を漏らした。