
唐芳
行政の指導が入ったか、建物が古くなったからか、それともコロナ禍のせいか。考えたところで、僕に分かるはずもなかった。ただ、僕は唐芳がなくなることを聞かされていなかった。だからその夜、ノリさんが一人になるのを待って、僕は聞いてみることにした。
風が冷たい十二月の夜だった。
並びにあるお洒落なレストランの前にはクリスマスツリーが飾られて、青やピンクやオレンジ色にちかちかと輝いていた。
ノリさんは店の隣にある駐車場の段差に腰を下ろして煙草を吸っていた。ちょうど二年前に、僕が座っていたところだ。
「高木さんから、あの店もう閉めるって……」
僕がそう言うと、ノリさんは気まずそうに笑った。
口からふっと息が抜けていくいつもの笑い方だったけれど、今までと少し違った。ノリさんの口元には、冗談では隠しきれない本心が透けて見えた。
「そうなんだよ、知り合いに誘われてさ」
ノリさんはそう言うと、すぐに、
「今度、マレーシアに店出すことになったんだ」と続けた。
まるで僕の「どうして教えてくれなかったんですか」を予知したかのようだった。
だから僕はそれを飲み込んで、愛想笑いを浮かべた。
「マレーシア……。いいっすね、俺もマレーシア行ってみたいです」
「おお、いつでも来いよ、チーズ用意して待っとくから」
ノリさんはそう言うと、笑いながら白い息を吐き出した。
白い息は外灯の光に消え、煙草の匂いだけが冷たく漂った。その匂いが、僕の危ない人センサーが初めて反応した日の記憶を連れてくる。
「ノリさん、俺と初めて会った時のこと、覚えてます?」
「覚えてない」
「あの時、俺、たぶん、死にたい病にかかってました」
「なんだそれ?」
ノリさんはちらっと僕を見て、それから夜空を見上げた。
「誘ってくれてありがとうございました」
僕はそう言って頭を下げた。するとノリさんは僕を見て、だらりと下げた指先の煙草を口に持っていった。
「まだボクシングやってんの?」
「はい」
「すこしは上達した?」
「したんじゃないですか」
僕が笑うと、ノリさんも鼻で笑って、ふうと煙を遠くまで吐き出した。
「ノリさん、畠山さんのところ、どうするんですか?」
「どうするもなにもしょうがねえよな」
「畠山さん、ノリさんの話すると嬉しそうに笑うんですよ。よっぽどノリさんと気が合うんですね」
僕がまた笑うと、ノリさんは「本当に気が合うやつなんてそういねえよ」と、今度は笑わずに煙草を地面に捨てた。それからじゃりじゃりとその火を靴底で揉み消す。
「気なんて合わなくたっていいんだよ。根本が似てれば」
「根本?」
「どういう人間かって、根っこの部分さ」
「俺、自分がどういう人間かなんてわかんないですよ」
僕が笑うと、ノリさんは笑わずにじっと僕の目を見つめてきた。
あの時と同じ、恐ろしいほどに真剣な顔で――。
まるで、もう死のうとすんじゃねえぞって言われているみたいだった。
でも僕が畏まって表情を引き締めると、ノリさんはぷっと吹き出して笑った。
「お前、周りはよく見えてんのに、自分のことはちっとも見えてねえんだな」
そしてまた夜空を見上げる。
「今どき、空見上げてあんなに嬉しそうに笑う奴いねえだろ」
不意に、僕は胸を小突かれた気がした。
ザクロのように輝いていた肉刺だらけの手のひら。
むず痒かった顎下のマスク。
燃えるように赤かった夕焼け――あの時の景色が蘇る。
見ていたんだ。ノリさんは僕を見ていてくれたんだ。だから「いつでも来いよ」。ノリさんは僕との会話を次回に持ち越したんだ。
「プロテスト、受かるといいな」
ノリさんはそれだけ言ってお店に帰っていった。
寂しそうに店に入っていくノリさんの背中は、あの時と何も変わっていなかった。
だからか知らないが、僕はノリさんと二度と会えない気がして、なんとなく寂しい気持ちになった。
◇
コロナ禍が終わると、僕が知っている常連さんたちを見ることはほとんどなくなった。クマさんは相変わらず店に入り浸っていたけれど、社長やテツさん、中田さんはめっきり見なくなった。もしかしたら、あの時はコロナ禍で、他に行くところがなくて、みんな来ていただけなのかもしれない。あの時期、マスク着用に緩くて、消毒とか三密とかも形だけで営業していたのは、たぶん唐芳くらいだろう。時短営業の時だって、たまにオーバーして営業していたし、みんなが帰った後、こっそり店の中で喫煙している時もあった。その緩さゆえに、みんな唐芳に来ていた、でも今はどこもお店が通常営業を始めて、みんなそっちに流れていった。そう考えると、あの時の、あの状況でしか、僕は唐芳に出会えていなかったのかもしれない。
僕は幸運だった。なぜならあの時、僕は居場所を探していた。そして他人との関係性を欲していた。ノリさんはそのどちらも僕に与えてくれた。職場でも家庭でもなく、唐芳で、僕はその両方を見つけた。もしあの時、ノリさんに出会っていなかったら、僕は今頃どうなっていただろうと思う。それくらい、僕にとっては命の恩人だ。
ノリさんは怖い人だ。強面で、無口で、豪胆だ。でも人をよく見ているし、尊重する。義理を大切にするし、仲間思いだし、そしてなにより猫に優しい。
人に懐こうとしない猫のことを臆病な猫と呼ぶか、警戒心の強い猫と呼ぶかは人それぞれだ。一線を越えた愚行を犯した人間に対して、最低な奴だと言うか、それはちがうと言うか、それもまた人それぞれだろう。ノリさんがそういう人だと分かるまで、僕は何回唐芳に通っただろうか。
今日、これから、一年以上ぶりに琴葉さんと会う。
だからだろうか。久しぶりに練馬に来てみて、ふと、唐芳のことを思い出した。
その唐芳も、今はもうない。