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めんどい

『背景、兄上様

 久しくご無沙汰いたし候』

 ――と、そこまで打ち込んで、指が止まった。

 なにも書き終えたわけではない。むしろ書き始めで、それ以降の文章がまるで頭に浮かんで来なかったのだ。最初の二行。そこでつまずくのもなかなかの筆無精(ふでぶしょう)である。いや強いて言うならキーボード無精か。いやいやそれも違う。キーボードを使うのが面倒なわけではない。キーボードを使ってメールを書くのが面倒臭いのだ。

 メール無精……?

 いやもうなんでもいい。今はそれを表す言葉が思いつくわけでもないから、ここは一旦「筆無精」としておく。

 とはいえ、メールはどうしてこうも面倒なのか?

 ネットを検索すると、メールが苦手、面倒臭いって記事が相当数ヒットするから、これはもう人類全体の問題なんだろうと思う。どうやら僕だけがメールに対して心理的な負担を感じているわけではなさそうだって、このまま椅子に座ってほくそ笑んでいてもべつにいいのだが、それで問題が解決するわけではないってところが実に憎らしい。僕は今、人類全体の問題に取り組んでいるのだ、そう思わずにはやっていられない。

 さて、そんな筆不精な僕がなぜメールを書いているのかと言えば、兄貴が原因だ。

 僕には八歳年の離れた兄がいる。僕が小五の時には大学に進学して家を出ていたから、兄とはずっと疎遠だった。いやいやずっと疎遠って言いすぎじゃないの? 小四までは一緒に家にいたんでしょ? って思う人もいるかもしれないが、これに関しては言い訳をさせて欲しい。まず八歳差というのは皆が思っている以上に大きい。まだ下の毛も生えてない小学生と高校生だ。喧嘩ではもちろん勝てないし、まして口で勝てるわけがない。そうなると、そこに喧嘩というものは存在しない。あるのは圧倒的な上下関係だけだ。兄貴の機嫌がいい時はいい。でも機嫌が悪いと、家の中で一番力のない僕にありとあらゆる理不尽が嵐のごとく降りかかる。と言っても、直接的な暴力が突然空から降ってくるわけではない。嫌みや小言、説教の類だ。でも実はそれが一番効く。今では不機嫌ハラスメント(フキハラ)なんて言葉があるが、昔はなかった。それが起きたら、僕はそれをじっと我慢しなければならなかった。嵐が来るのを予感して、家を出なければならなかったのだ。

 そんな小国の暴君みたいな兄を慕う弟がもしこの世にいるのならぜひ教えて欲しい。今の僕のこの弱者マインドはどうすれば治るのか、ぜひ聞いてみたい。僕はそれが嫌で、兄と距離を置いた。兄を前にすると何も言えなくなる自分が嫌で、自然と疎遠になった。今になって思えば、勉強を教えてもらったり、将来の質問をしたり、普通の兄弟が普通にするであろうことをちゃんとしてきていれば、また状況は違っていたんだろうと思う。

 ただ、こういうことを言うと、「みんなそうだよ」、「兄弟なんてそんなもんだよって」って言う人が必ず現れる。それに対する僕の答えはこうだ。「ええ、知ってます。そういう人がいるから困っているのです。そういう、両親を含めた家族の歪みを知ろうともせずに、人類共通の当たり前の話にすり替える人には、僕の鼻くそを煎じて差し上げます」と。ええ、もちろん冗談です。現実の僕はきっと、「ですよねえ」と、ガッキーばりの笑顔であなたを全肯定します。ええ、すみません。さっさと先に行けよって声が聞こえてきそうなので冗談はこのくらいにしておきますが、僕ら兄弟が普段から電話で話したり、ラインでやり取りをするような仲ではないのは分かっていただけたかと思う。

 それが先月、急に兄から連絡が来た。

 なんの用かと不思議に思いつつ電話に出ると、兄は、「あ、雅人? あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」と、どこか急いでいる様子で言った。

 お願い? 僕は胸騒ぎを覚えた。頭の中にあった記憶を全力で検索しても、兄がお願いをしてきたことなんてこれまで一度もなかったからだ。

「え?」

「今からそっち行くから家にいて」

「え、え?」

 プープープー。

 え、しか言えないまま、会話は終わった。

 まるでクラウド・ストライフの気分だった。アバランチの作戦に雇われただけなのに、いつの間にか世界の命運を背負わされた悲劇の主人公だ。ぴんと来ない人はそれでいい。とにかく兄からの電話は僕にとっては悲劇の始まりでしかなかったし、興味ないね、なんて言っている場合じゃなかったのだ。

 

 

 これからここに兄がやってくる。そう考えただけで、僕の胃はきりきりと音を立てた。

 兄がこの部屋を見たら確実に発狂する。それは予感なんてぬるいものではなく、僕の経験則だった。そしてそれは、フキハラならぬ、発狂ハラスメントのはじまりを意味する。

 戦々恐々としながら部屋の中を見回すと、床やベッドに脱ぎっ放しの衣類たちが浜辺に打ち上げられた海藻のようにぺったりと張り付いていた。その衣類たちに紛れて、日々デリバリーアプリで召喚し続けたファストフードの残骸たちが散らばって見える。

 はあ……。

 我ながら引き篭もりの鑑のような生活をしていたことに脱帽する思いだった。閉めっぱなしのカーテン。机の上で煌々と光る二枚のモニター。その手前には白いコントローラ―と黒いヘッドフォンが転がっていて、周りには何かの景品やら、謝礼のステッカーやら、推しグッズやらがごちゃごちゃっと散らかっていた。これらを全部片付けるには、一体どれだけの時間がかかるのだろうか。いやその前に、本当に綺麗になるのだろうか、などと浅はかな絶望感に浸りながら、僕は胸の奥深くで騒ぎ始めるもう一人の自分と会話を始める。

「ああ、やりたくねえ」

「知ってる。でも、やらなきゃいけない」

「でもやりたくねえ」

「やりたくねえじゃねえ、やれ」

 それらの思いを交互に行き来しながら、僕は小一時間、ゲームをした。そしてゲームで負けると、また「やりたくねえ」から始めた。そんなことをだらだらと続けてしまうのが僕の悪いところだというのは自覚しているが、なにも先延ばしにしているわけではない。「やりたくねえ」という自分の気持ちに正直に生きているだけだ。『現在バイアス』という心理的傾向を行動経済学の偉い人が見つけてくれたおかげで、僕は胸を張って「やりたくねえ」を貫けるわけだ。ありがとう。行動経済学の偉い人。

 とはいえ、いつかは「やらなきゃいけない」に対処する時はやってくる。そういう時は、「僕がやらなきゃ、一体、だれがやるんだ!」と、全人類を救うヒーローさながら腕を組み、背筋を伸ばす。そうすると、クラウドもびっくりするほどの熱量が沸々と込み上げる。そしてその熱が冷めないうちに面倒事に取り掛かる。ここがポイントだ。なんでもそうだが、やり始めるまでが大変で、一度やり始めてしまえば、あとは意外と簡単だったりする。

 というわけで、僕は衣類の片付けから始めることにした。

 床に落ちていた服を拾い集め、洗濯機に詰め込む。床に散らかったゴミを袋に放り入れながら、机とベッド――僕の生活の二大拠点だが――それぞれに向かって伸びるケーブル類を足先でちょんちょんと気持ち揃えた。するとどうだろう。片付けるほどに、読み途中だった漫画が出てくるわ、出てくるわ――。で、僕は漫画を見つけるたびに自然とベッドに向かっていく自分を制する必要があった。と言っても、結局はベッドに寝そべって漫画を読むことになるのだが、漫画を一冊読み終える頃には、無事に掃除をしていたことを思い出し、どうせここまで掃除をしたのならと掃除を続けた。棚の上の小物を整理し、埃を掃った。掃除機をかけ、雑巾をかけた。ここに越してきて以来、一度も動かしたことのなかったベッドを動かすと、ベッドの下から失くしたと思っていた靴下の片方とか、変な金具とか、埃まみれのオナホとかが出てきて驚いたが、それらを片付けながら、掃除をするのは何年振りだろうなんて考えた。

 それでも段々と綺麗になっていく部屋を目の当たりにして嬉しくもあった。髪の毛も陰毛もない床。推しが笑う壁。明るい部屋。窓から入ってくる春風。なんて気持ち良いのだろう。幸せってこういうことを言うんだなって思ったし、僕はやっぱりやればできる男なんだと思った。

 ところが、そうやって、もはや掃除が終わった気分で意気揚々と仁王立ちしていた僕の目に、すっかり存在を忘れていたあいつが飛び込んできた。

 机の下に横たわるPS5の本体。その奥には大量の潰れたエナドリの缶が積み上がる。その空き缶に隠れて、黄色い液体の入った口の広いボトルが一つ、恥ずかしそうに顔を出していた。

 ――思わず、笑った。

「お前、そこにいたのか!」って、迷子になった愛犬を見つけたような気分だった。

 そう。何を隠そう、あれは『ポータブルトイレ』ってヤツだ。でもさすがにあれは、「私は社会不適合者です!」と宣言しているようなものだろう。社不の僕にも、幸か不幸か、メタ認知なんて厄介な能力が備わっている。本当は「数時間ぶっ続けで配信を行う僕には、食事よりも大事な必需品なんです!」って食い気味に言いたいところだが、兄の前でしどろもどろになってしまう自分の姿が頭に浮かんで萎えた。

 やはり『ポータブルトイレ』は片付けた方がいいだろう。格好よく言ってはいるが、要は尿瓶(しびん)だ。放っておけば匂いもきつい。

 僕はそれから半日かけて部屋を掃除した。

 社不の僕にも一応のホスピタリティは残っているらしかった。

 僕は一通り掃除を終えて、うきうきでシャワーを浴びた。三日ぶりのシャワーだった。

 心身ともにすっきりして、まるで初デート前の彼氏が彼女を待つように、ベッドの上でスマホをいじってそわそわしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 一人暮らしを始めて十年。デリバリー以外で初めて聞く音だった。

 

 

 玄関を開けると、兄が立っていた。そして兄を見た瞬間、僕は扉を閉めそうになった。

 兄の口元には、え、ザンギエフですか? ってくらいもっさりと髭が生えていたのだ。眼鏡をかけていたから、ディキンソンか。いやいやそんなことはどうでもいい。とにかく日本人であそこまで濃いひげを蓄えた男を僕は見たことがなかった。たしかに扉を開けるまでは緊張していた。十数年ぶりの再会だったから、なにをお願いされようと、まずは、「久しぶり」、「元気にしてた?」くらいは言おうと心に決めていたのだ。でもそんなこと、一瞬で吹き飛んだ。僕にもロシア人の血が流れているのかもなんて思わず自分の手を見てしまったくらい、兄はワイルドになっていた。

「え?」と、またそこで止まりそうになり、数時間前の失敗が頭によぎった僕は、扉を半分開けたまま、辛うじて「どした?」と繋げた。

 でもそれがまずかった。

 兄は、「悪いけど、こいつ、預かってくれる?」と、もの凄い力で扉を引っ張り開けると、足元にあった四角いキャリーケースを前に差し出した。海外旅行に行く時に持っていくような大型のキャリーケースに似ているがやけに幅が広い。ベージュ色をした四角い箱の側面はメッシュになっていて、その中に動くものがあった。

「え?」

 中からウーと低い唸り声が聞こえてくる。

「飼い方はここに書いてあるから。よく読んで」

「え、え?」

「可愛がってあげて。じゃよろしく」

 兄はそれだけ言うと、肩に掛けていた大きなボストンバッグをずどんと地面に置いて去っていった。

 え、それだけ?

 あまりに唐突すぎて、僕は拍子抜けした。兄を部屋に迎え入れるために、全人類を救うヒーローになりきって一生懸命に掃除をしたのは何だったのか。なんのためにオナホを洗って、尿瓶を捨てたのか。無駄だった。広大なマップを徒歩で横断したくらい無駄だった。窓から入ってくる春風を全身に浴びながら多少なりとも満ち足りてしまった時間を返して欲しかったくらいだ。

 虚無感に打ちひしがれた僕は、階段を下りていく痩せたザンギエフの背中を眺めながら、呼び止めることすらできずにいた。もちろんこの時、僕の頭の中にたくさんのはてなマークが浮かんでいたのは言うまでもない。どういうこと? 僕がこれを預かるの? これって中になにかいるよね? この中にいるのはなに? 飼い方ってなに? てか、あのひげはなに? それらすべての疑問を吹き飛ばすように、足元のキャリーケースから「ワンワン!」と声がする。僕は恐る恐るケースを覗き込んだ。

 メッシュの奥には、黒くてまん丸の目で不思議そうにこちらを見つめる犬が見えた。

 マジか……。

 ボストンバッグにはA4の紙が貼り付けられていて、それを見ると、餌の種類や餌をやる時間、散歩の方法から予防接種の受け方まで、事細かい注意事項が小さな文字でびっしりと印刷されていた。もうこの時点で『面倒くさいレベル』は五十まで跳ね上がっている。

 はあ……。

 溜息を吐きつつバッグを開けると、中には、餌だとか、ペットシーツだとか、そういうペット用品が綺麗に整理されて入っていた。几帳面な兄貴らしいと言えば兄貴らしいが、よほど慌てていたのか、用紙のどこを見ても肝心の名前も年齢も犬種も記載がなかった。

 結論から言うと、僕はこの犬を家に招き入れた。とくに動物好きというわけでもないが、あのまま家の前に放置しておくほど外道でもなかった。でも今思えば、あの時、「どした?」と僕が聞かなければ、あんなにすんなりと兄が僕を嵌めてくることもなかっただろうと思う。春麗のハメ技よろしく、僕はまんまと兄の策略に嵌まったわけだ。

 こうして、僕と兄との感動の再会は、電話口で「え」しか言えなかった僕が「どした?」を加えただけで幕を閉じた。

 

 

 そうは言っても、犬との生活は思っていたより楽しいものだった。

 長期間の一人暮らしに慣れてしまっていた僕は、ペットなんて面倒くさいだけと思っていたのだが、実はこれがなかなかに愛くるしい。僕が「ワンコ!」なんてありきたりの名前で呼ぶと、嬉しそうに尻尾を振ってこっちに来た。ためしに「うんこ!」って呼んでみたけど、やっぱり舌を出して嬉しそうに尻尾を振っていたから、名前なんてなんでもいいんだって思ったし、そういうずぼらなところが気が合いそうだなって思った。

 顔も僕の好みだった。鼻の周りが白くて眉も白い。翻訳こんにゃくを食べさせたら、すっとぼけた顔で「麻呂は」なんて言い出しそうで可笑しかった。足には茶色い靴下を履いていて、「寒いの?」って聞いたら、急に吠え出したのも面白かった。麻呂の逆鱗が靴下にあるのは新しい発見だった。

 餌をやると、白い眉毛がぴくぴく動くのも可愛かった。糞尿の処理には少々手こずったが、うんこをする時に困ったような顔をするのも可愛かった。部屋を暗くしてゲームをしていると、どこからともなくやってきて、足元に丸くなるのも可愛かった。昼に目が覚めてベッドから起き上がると、「起きた?」みたいな顔をして、ふらふらっとやって来るのも可愛かった。配信中に画面の端を横切ったり、それがきっかけでチャット欄が大喜利に変わったり、とにかくそれまで僕の生活になかったものがすぐ傍で息をしているのが嬉しかったのだ。

 幸い、僕のアパートはペット可だったし、配信用に防音対策がしっかりしている部屋を選んでいたから、鳴き声も問題なかった。散歩のために外に出なければならないことを除けば、一人暮らしの寂しさを紛らせてくれる相棒として、まあまあ仲良くやっていた。でも問題がないわけではなかった。餌だ。兄が持ってきた餌とペットシーツは来週にはなくなりそうだった。新しく買い足すには自腹を切るしかない。

 それで、だ。ここまで長々と話してきたが、ようやく本題に戻る。

 その代金を兄に請求しようとメールを書いていたのだが、どう書いていいかが分からないのだ。

 

『背景、兄上様

 久しくご無沙汰いたし候』

 ――と、そこまで読み上げて、僕はモニターに顔を近づけた。

 なんてことだ! 『拝啓』が『背景』になってるぅ!

「え? なんで背景になってんの? 背後霊じゃん!」と盛大な独り言をかました後、何もなかったかのようにすんとモニターを見つめた。心の中で「そうろうってなんやねん!」と喋れもしない関西弁でツッコミを入れたことは内緒だ。

 はあ……。溜息しか出てこなかった。

 二時間かけて、まだ二行しか書けていない自分のバカさ加減に腹が立つ。「お前は学校で何を勉強してきたんだ?」って兄貴の声が聞こえてきそうだった。

 兄は言葉に厳しい。『ヤバい』、『エモい』みたいなスラングは使えないし、『全然いい』なんて口が裂けても言えない。もちろん敬語にも厳しいし、『ら』抜き言葉も正される。二重敬語なんて使った日には、滔々(とうとう)と尊敬語と謙譲語の違いから説明される羽目になる。兄はとにかく言葉使いに煩い人なのだ。

 それならAIを使えばいいじゃないかって思う人もいるだろう。しかし残念ながらこれも、ノーノ―ノーだ。

 兄はAI懐疑派だ。AIを使って文章を書く人のことを「楽をしている」、「書く力がない」と蔑んでいる。兄は大学で講師をしているから、その手の文章は日頃から嫌というほど目にしているのだろう。母曰く、兄は「その文章がAIで書いたものかどうかなんて見破る術は知り尽くしている」そうだ。自然な文章、かつ正しい日本語の文章、それ以外をばっさりと切り捨てる古の賢者の末裔、それが兄なのだ。兄は厳しい。僕みたいな遊び人には本当に厳しい。

「いやマジめんどくせえ!」

 僕は叫びたくなる気持ちを抑えて小声で呟いた。するとワンワンと麻呂が鳴き出して、僕はヘッドフォンで両耳を塞いでモニターを睨みつけた。

 メーラーが開かれたサブモニターとは別のメインモニターに、さっきまでプレイしていたゲームの待機画面が映っている。モニターには、赤い甲冑を着て両手に日本刀を持った武将の後ろ姿が映し出され、画面左にはアイテム一覧が、右には広大なマップが広がっていた。

『正直、兄が部屋に入って来なくて良かったと思う。兄がこれを見れば、「まだゲームなんかしてたのか?」なんて、どちらにしたって発狂ハラスメントは始まっていたのだから――。

 兄はゲームに否定的だ。ゲームは子どもの娯楽だと思っている。いい年こいた大人がすべきことは他にあるだろうって考え方だ。分かる。そういう人がいたっていい。でも僕からすれば、ゲームはただの娯楽じゃない。それは体験を設計された世界そのものだ。現実じゃ決して踏み込めない場所に足を踏み入れ、現実じゃあり得ない選択を自分の意思で下す。選択をミスれば失敗として記憶に残り、正しい選択をすれば成功体験として体に刻まれる。この一連の流れをこんなに自然に、こんなに濃密に味わわせてくれる媒体が他にあるだろうか?

 でもこういうことを言うと、兄は必ず、ゲームする暇があったら本を読めって言う。

 知ってる。

 兄はまともな人間だ。県内一の進学校を卒業して、有名大学に進学して、今は都内の医科大学で生命情報科学とかいうわけのわからない分野の研究をしている。母は「もう少しで准教授に昇進するはずだ」なんて喜んでいたから、僕と違って素晴らしく真っ当な人生を送っている人なんだなって心から思う。ただ、まともな人間というのは得てして、自分が正しいと信じて疑わない。それはつまり、まともではない人間に対して、まともであれと強いることでもある。まともな言葉使い、まともな考え方、まともな生き方、そういったことに一々煩いのはいつだってまともな人間の方だ。

 逆に言えば、いつもプレッシャーを感じるのは、まともではない人間の方だってことだ。この言葉使いは合っているか、文章は短すぎないか、はたまた長すぎないか、こう書いたら冷たく見られないか、敬意が足りないと思われないか。まともじゃない人間は、常にまともな人間の基準に合わせることを求められる。

 「そんなの僕の自由だろ!」なんて言えない。だってそんなことを言えば、自由とはなんぞやという問いから始まって、自由とはこれこれこういうわけで、昔はこうで、今はこうなっているけれども――なんて、聞いてもいないことを淡々と語られる。社会がこうなっているのにはちゃんと意味があるんだとか、政治のあるべき姿とは何かとか、物事の本質をクソ真面目に考える兄には、「うるさい、死ね!」って言ってやりたいところが、残念ながらそれもできない。なぜなら、言ったが最後、死とは何か、哲学的な死について延々と聞かされ、死の意味することについて延々と考えさせられるからだ。社会がどうとか、政治がどうとか、正直、僕にはどうだっていい。そんなものに興味はないし、頭の良い人たちでよろしくやってくれって思う。

 何にでも意味を見出そうとする人は面倒くさい。ゲームに意味なんてない。

 ああ! なんて面倒くさい人なんだ!

 そう考えると、だんだんムカついてくる。

 そもそもの話、兄貴が悪いのだ。いつまでとか期限も言わずに犬を押し付けて、お前は一体どこで何してんだって話だ。お前の愛犬だろ? 何を気にしてるのか知らないけど、出来損ないのスパイみたいに置き去りにして、置いていかれた麻呂が可哀想すぎる。人としてダサすぎる。

 大体、僕からすれば、周囲からどう思われるかばかりを気にして、謙遜して見せたり、見栄を張って見せたり、そっちの方がめちゃくちゃダサい。だってそれは自分に正直に生きてないってことだ。それだったら、僕は社不でも馬鹿でもそのままの僕でいる方がいい。

 仕事は見つかったのか?

 紹介して欲しかったらいつでも言って。

 母伝いにそんなことを言われても、僕はそんなことは求めていない。僕はただ僕自身でありたいだけだ。法律は守っているし、税金だって納めている。誰にも迷惑かけていないのに、ちゃんと働けとか、社会のためになる仕事をしろとか、余計なお世話だ。でもこういうことを言うと、「お前はまだお子ちゃまだ」とか返ってくる。知ってる。何を言ってもあんたが上なことくらい知ってる。お子ちゃまとか、子どもとか、自分より下げることしかできないお前はラッパーかよ。

 って、ほとんど愚痴になってしまったが、許して欲しい。なにも兄の悪口が言いたくて書いているわけではない。ただ、兄のことを考えると、どうしてもあの頃の弱者マインドが蘇るのだ。

 結局のところ、人は自分が生まれ育った環境の中でしか物事を考えられないんだと思う。穿った思考回路を身に付けた人は、たとえ相手がどんなに真っ当なことを口にしても、なにか裏があるに違いないって感じるし、被害者意識の回路を身に付けた人は攻撃されているように感じる。それはその人自身の思考パターンであって、他人にはどうしようもできない脳の奥深くに刻まれた無意識の事象なのだ。それが問題だというならそれでいい。あなたと私、仲良くなれませんね、はいさようなら、で終わりだ。でもそれが兄弟となると、不思議と別の感情が湧いてくる。綺麗に切り分けられない妙な気持ちが湧いてくる。

 ああ、絵文字や顔文字で気軽にメッセージできればいいのに――。

 たった一文――兄貴、預かってる犬の餌がなくなりそうだから十万送って――そう言えたらいいのに。なんなら土下座のスタンプ付きで送ってもいい。

 ああ、なんでこんなことで頭を悩ませなければならないのか?

 なんで家族なのに気を遣わなければならないのか?

 送る前に文章をしっかりと読み直して、句読点の位置とか、文末の『です、ます』調の統一とか、なんでこんなに間違いがないか確認しなければならないのか?

 兄貴だぞ?

 ……。

 ……。

 そう、相手は兄だ。親しき仲にも礼儀ありと返してくる兄だ。

 クッソ! 頭禿げそう!』

 椅子の背が音もなく倒れていった。

 青白い天井を見上げると、なんだかやけに虚しかった。

 ああ、もう本当に面倒くさい!

 書類を集めて、市役所に行って、番号札を取って、待って、呼ばれて、書類を提出したら、また来てくださいって言われた時よりも面倒くさい! 健康、キャリア、人間関係、お金。なんでも自己責任の現代社会で、そもそも生きてるだけでお腹いっぱいなのに、わざわざ窓口まで行かなければならないことに、僕らはそろそろ抗議をしても良い頃合だと本気で思う。

 そうだ! 抗議だ!

 まずは僕が人類を代表して兄貴に抗議をしよう!

 暴君が支配する小国の市民は抗議で意思を表明するしかないのだ。

 僕はカタカタとキーボードを叩いていく。

『ああ、僕はダメな人間です。

 知ってます。でもダメな人間でなにが悪いのですか?』

 

 よし、これでいい。

 ただ、僕には昔から深く考えずに行動してしまう癖があった。親に怒られている時に屁をこいたり、兄貴がフキハラモードにいる時にわざと飲み物をこぼしたり、その時その時の雰囲気や感情に流されて「えいや!」で行動してしまうのだ。

 この時もそうだった。僕は「暴君は撤退しろ!」のプラカードを掲げるデモ隊員さながら、高ぶった感情の赴くままにポチっと送信ボタンを押していた。そして半ばやり切った心持ちのまま、椅子に座ってにやにやとほくそ笑んでいた。もちろんこの時点で、まさか自分が本当に兄にメールを送っているなんて露ほども思っていない。そうではなくて、兄に初めて抗議できた自分に酔っていたのである。

 ところが一分もしないうちに、ぴこんと新しいメールを受信した。

 ゲーム仲間からのお誘いかな? なんて思いながらメールを開けてみると、それは兄からのメールだった。

 

『お前、大丈夫か?w

 なんか悩んでるなら聞くよw』

 

 兄からは想像もできない二つの『w』である。

 まさかの草表現に、僕はメールを読み返して愕然とした。

『背景、兄上様

 久しくご無沙汰いたし候

 正直、兄が部屋に入って来なくて良かったと思う。兄がこれを見れば、「まだゲームなんかしてたのか?」なんて、どちらにしたって発狂ハラスメントは始まっていたのだから――』

 

 メールにはびっしりと文章が書いてある。

 ちょっと待て……。

 震える指先で画面をスクロールして一番下まで行くと、そこにはこう書いてあった。

 

『そう、相手は兄だ。親しき仲にも礼儀ありと返してくる兄だ。

 クッソ! 頭禿げそう!

 

 ああ、僕はダメな人間です。

 知ってます。でもダメな人間でなにが悪いのですか?』

 ポクポクポク――チーン。

 すうと血の気が引いていった。

 なんだこれは? この支離滅裂な文章は一体なんなのだ?

 兄に対する大量の愚痴をそっくりそのまま兄に送ってしまった事実に気付いた僕は、それから数日間、麻呂を抱えずには眠れなかった。

 

 その後、僕は件(くだん)のメールについて兄に謝罪した。そして何度か兄とメールでやり取りをした後、兄からは無事に麻呂の必要経費を振り込んでもらえた。

 兄とのやり取りは、想像以上にフランクだった。

 振り込んでください。口座番号教えて。

 届いた? 届きました。ありがとう。

 蓋を開けてみれば、ああでもない、こうでもないと、文面を思い悩んでいたあの数時間は何だったのかってくらい、あっさりだった。今ではラインを交換し、気軽に話し合える兄になっている。

 でも僕があの時、思い悩んでいなければ、そもそも誤爆はしていなかっただろうし、誤爆していなければ、兄とは疎遠なままだったと思う。

 結果的に部屋は綺麗になったし、麻呂とも仲良くなれたし――そう考えると、メール無精も悪くない。

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あなたが気付けば 周りが変わる 周りが変われば 社会が変わる

社会が変われば 大人が変わる 大人が変われば 子どもが変わる

子どもが変われば 国が変わる 前に向かって 変われるように

© 2014 riouda

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