
お蔵入り
その日、僕らが見つけたものは隙間だった。
隙間と聞いて思い浮かべるものは人それぞれだと思うが、日々心霊を追い求める僕らにとって、隙間は浪漫だった。
隙間は狭くて薄暗い。それに不安を煽る。ドアの隙間から青白い顔が覗いているだとか、本棚と壁の隙間に黒い影が立っているだとか、本来いるはずのないところに何かがいるのを想像するだけでぞくぞくする。でも逆に言えば、だからこそそこに魅力が詰まっている。この世のものではない何か。決して遭遇してはいけない何か。その存在が僕らの好奇心をかき立てる。
おそらくほとんどの人は隙間になんて興味を持たない。大抵の人は視界にすら入っていないだろうし、入っていたとしても気にも留めない。でも実際のところ、隙間は僕らの日常にあふれている。ビルの隙間。扉の隙間。棚の隙間――。それは壁と壁の間に、言葉と言葉の間に、制度と制度の間に、いつの間にか生まれている。ただひっそりと、そこに残り続ける。
僕らはその奥を覗いてみたかった。そしてあわよくば、その奥からじっとこちらを見つめてくる得体の知れない存在をカメラに収めたかった。大多数が気にも留めないからこそ、僕らが一番にその奥を覗き見るべきなんじゃないかって、そんなふうに考えていたのだ。少なくとも、その日までは――。
◇
「はい、どもー。カズトモチャンネルのカズです」
「トモです」
「今日はね、僕たち、山に来てるよー」
「山だね、珍しくない?」
二人の背後には荒涼とした山がそびえていた。
なだらかな斜面の上に雑木林が続いている。二月ということもあり、木々は葉を落とし、枝だけとなっていた。
「ね。普段、僕たち、あんま外行かないもんね」
「だよね? ってかここ、どこ?」
「ここ? ここはね、某県にある女鳴山(めなきやま)ってところなんだけど、ちょっとこれ、周り見て」
外灯がぽつんと灯る片道一車線の廃れた峠道。
外灯の明かりに古びたガードレールがぼんやりと浮き上がっていた。ガードレールには枯草が茫々と迫り出し、夜風に寂しげに揺れている。
「真っ暗……」
「いやマジでなんもない」
辺りは真っ暗で、ガードレールのはるか遠くに街の明かりが見える以外に光はなかった。時刻は深夜零時を回ったところ。当然ながら、人や車の往来があるはずもない。
「で、今日は、この山、これから登るよー」
先ほどからカメラに向かって話しているのはカズ、このチャンネルのメインMCだ。
「えー、マジで言ってる? 山登り、嫌なんだけど」
そしてカズの隣に少し落ち着きなく立っているのがこのチャンネルのもう一人のMC、トモ。二人は心霊現象をカメラに収めるべく活動していた。明るい声でぐんぐん引っ張っていくカズと、怖がりで感情が顔に出やすいトモ。二人の対比がこのチャンネルの売りでもある。
「トモちん、最近、疲れやすいって言ってたじゃん。で、僕、考えたんだよね。やっぱ運動をね、ちゃんと運動をして、健康を維持していかないとダメだなって。僕たち、もうそういう歳じゃん」
「そのための山登り?」
「そそ。健康を維持して、このチャンネルも維持していくっていう」
「いやいやいや。え? 心霊は?」
トモが冗談っぽく笑うと、カズも意地悪そうに笑った。
「もちろんあるよ。なぜこの山かって理由をね、この前、視聴者からDMをもらったんだけど、ちょ読むよ」
カズさん、トモさん、はじめまして。いつも動画を楽しく拝見しています。
相談というか、調査をお願いできたらと思ってDMしました。
私の家の近くに女鳴山という山があります。地元では有名な自殺スポットです。二年前には遺体遺棄事件がありました。
先月、その山に友人たちと肝試しに行きました。山頂には廃神社があって、本当はそこがゴールなんですが、廃神社へ向かう途中で友人の一人が古い廃屋を見つけました。外から見ると、壁とか屋根が崩れていて、いかにも古い建物です。
中に入るつもりはなかったんですが、みんなで見に行ったら、友人が窓の隙間から黒い影が見えたと言い出しました。それでみんな怖くなって急いで引き返そうとしたら、廃屋の中から女性の叫び声が聞こえてきました。みんな聞いたと言っていました。でも内容はみんな違くて、私だけが「助けて」と聞こえました。
もしよければ、一度調査してもらえないでしょうか。
私たちだけでは、もう近づく気になれません。
「ってことなんだけど……」
読み終えたカズは、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
「叫び声も怖いけど、『助けて』って怖いね」
一方でトモは、笑ってはいるが、どこか不安そうに表情をこわばらせていた。トモは直感型の人間だ。言葉にはできない妙な違和感というのはすでに感じている。
「ね。でさ、僕も少し調べてみたんだけど、ここ『二年前には遺体遺棄事件』ってあるじゃん、これガチのニュースになってて。しかも被害者が若い女性なの」
「え? じゃその人が『助けて』って呼んだってこと?」
「いやわかんない。でもこの依頼者も言ってるけど、この山、この辺じゃ有名な自殺スポットらしいんだよね」
「自殺スポット……」
「そそ。切られたロープがそのまま残っていたりするらしい」
「じゃそっちの可能性も……」
「ま、自ら死を選んだ人が『助けて』って言うかはわかんないけどね」
「まあまあ、そうか」
「までも不思議だよね」
「たしかに」
「ってことで、今日はその廃屋と黒い影、それから『助けて』って声。その辺を調査しながら、時間があれば、山頂の廃神社にも行ってみたいなーなんて思ってます」
「オッケー」
「じゃ、行きますか」
◇
暗闇の中を二つの光がのぼっていく。
懐中電灯の光がなければ、数歩先さえ分からない深夜の山道。月の光さえ届かない樹海の中を二人はゆっくりと進んでいた。
心霊ユーチューバーという仕事は苛酷だ。昼は普通の社会人として働き、皆が寝静まる夜に撮影をする。撮影はその日のうちに二か所目、三か所目と回ることもあるし、一つの撮影が明け方までかかることもある。撮影時期が冬であれば寒さと、夏であれば暑さと虫と闘わなければならないし、心霊的な恐怖はもとより、建物の倒壊、滑落、カビや悪臭、そして野生動物や不審者と遭遇する危険など、あらゆる方向に神経をすり減らさなければならない。極めつきはお蔵入りだ。たとえそうやって苦労して撮影したとしても、カメラに何も映っていなければ何の意味もない。年間百か所以上、心霊スポットと呼ばれる場所を回っている二人にとっても、それは決して珍しいことではなかった。
「さっむ」
冷たい風が吹き抜け、カズは身を震わせた。
二人ともダウンジャケットを着ているとは言え、二月の山風はまだまだ冷たく、吐く息も白い。
「やっぱ夜は寒いね」
林道の階段を上りながら、トモは相槌を打った。
二人が歩く林道は、土留めの丸太などで整備はされているものの、手入れはされておらず、ところどころ崩れていた。もう何年も人が入っていないんじゃないかと疑うほど、道は落ち葉と土に覆われて、どこから道で、どこから森か、その境界が分からない。
「このへん濡れてるから、滑らないように気を付けて」
先を行くカズはそう言いながら、行く手を遮るように倒れた大木の下をくぐり抜けた。
数歩遅れて、トモも倒木に触れないようにくぐり抜ける。カメラとライトを両手に踏ん張ったトモの靴底で、倒木の下に吹き溜まった落ち葉がぐちゃっと音を立てた。
日中の雨のせいか、山全体が湿った雑木林の匂いを帯びていた。林道に這い出た樹根は湿り、斜面に埋まった岩肌はまだらに色を変えている。風が吹くと木々がみしみしと音を立て、頭上からぽつぽつとしずくが落ちてきた。地面はしっとりと濡れ、落ち枝は赤茶色の苔にびっしりと覆われている。トモは歩きながら、飛び散った血を連想してしまった自分を奥へ押し戻した。
虫の声も動物の鳴き声もない。
時が止まったように静かで、二人の足音とダウンジャケットの擦れる音だけが闇に響く。
「これさ、イタズラじゃないよね?」
ぼそりと、トモが言った。
視聴者から送られてくるDMの中には、悪戯(いたずら)も含まれる。過去には、指定された場所に行ったら視聴者が隠れていた、なんてこともあった。目的は分からない。単に面白がっているだけかもしれないし、明確な悪意を持ってやっているのかもしれない。どちらにしたって決して気持ちの良いものではない。
「まあ、いつものやつだよね。肝試し、廃屋、黒い影。ぜんぶテンプレ」
カズは振り返らずにそう答えた。
「だよね。なんかさ、気になったんだけどさ、ここ来る前、俺らのほかに車一台止まってたじゃん?」
「ああ、あったね」
「あれさ、俺らにDM送ってきた人だったりしない?」
「どうかな?」
「先に廃屋行って、俺らのこと待ってたりさ……」
するとカズはうーんと唸ってから、
「まあでも、それはそれでありだよね」と笑った。
実を言うと、二人はこれまで、幽霊の姿をカメラに捉えたことが一度もない。声っぽいものや足音っぽいものをカメラに収めたことはあっても、扉や物が動くといった、誰の目にもはっきりと分かる現象を撮れたことはなかった。何百か所と回って撮れないのだから、幽霊なんて本当はいないんじゃないかと考えた時期もあった。心霊から離れ、別ジャンルの動画を投稿していたこともある。それでも二人が心霊に戻ってきたのは、心霊が好きだからという理由だけではない。視聴者からの期待と応援の声があったからだ。二人で何度も話し合った。喧嘩もした。スケジュールが合わなくて個別に撮影したこともあった。登録者数は一万人にも満たない小さなチャンネルだが、そうやって一生懸命にチャンネルを守ってきた。すべては、視聴者を楽しませたい、喜んでもらいたい、その一心からだ。「それはそれでありだ」とカズが言った時、トモの頭に浮かんだのはまさにその思いだった。何もないよりは良い。普段、編集を担当しているカズだからこその言葉だろう。
「どっちにしたって行くしかないっしょ。イタズラかどうかは行けば分かるよ」
カズの言葉にトモはそれ以上何も言えず、ただ、なぜか胸の奥に小さな違和感が残った。
「だってこれ、もしまた何もなかったら、ただの山登りだからね」
荒い息を吐きながらカズが笑う。
「まあね。お蔵になんないといいけど……」
トモが言い終わる前に、カズはもう先へ進んでいた。
トモのカメラはカズの背中を追いかける。
ライトに照らされた二人のあいだには、ほんのわずかな距離が空いていた。
声を掛ければ埋まる。足を速めれば追いつける。それでも、その隙間は最初からそこにあった。
◇
山に入ってしばらくは、特に何も起きなかった。
カズは相変わらず前を歩き、ライトとカメラを道の先の暗闇に向けていた。
トモはその後ろで、時々足元を確かめるように立ち止まっては、周囲にカメラを向けていた。
「まだ先?」
息を切らしながら、トモが言った。
「四十分くらい歩いたら右手に見えるって。まだもうちょい先かな」
カズはスマホの時計を見ながら言った。
山を登り始めておよそ三十分。二人の頭にはもはや階段を数える余裕すら残っていなかった。ただただずっしりと重い足音と、はあはあと白い二つの息が寒夜に消えていく。
するとしばらくして、トモが立ち止まった。
「ねえ、今、なんか聞こえなかった?」
カズも足を止めてトモに振り返る。
「女の人の声。フフって、笑ってるような……」
「いや、聞こえなかったよ。風じゃない?」
カズは笑っていたが、トモは腑に落ちなかった。トモにはたしかに女の声が聞こえたのだ。
「風? かぁ……」
「わかんないけど」
カズはしばらく周囲にカメラを向けていたが、やがてまた歩き出した。そしてトモもすぐに後を追った。
しばらく歩くと、またトモが言った。
「ほら、やっぱり聞こえない? 女の人の……。ほら、なんか聞こえるよ」
トモが怯えたように素早くライトを向ける。
その時、二人の背後、少し離れた場所で、パキッと乾いた音がした。小枝を踏み折る、はっきりとした足音だ。
即座にトモが振り返り、カズもライトを向けた。
暗闇がライトに丸く切り取られる。
しんと静まり返った茂みの中、一枚の葉っぱだけが奇妙に揺れていた。
「シッ! ほら」
突如として、周囲の空気が張り詰める。触れたら割れる薄い硝子のように、冷たい空気が二人を包み込んだ。
音のない闇が果てしなく広がっていく。
ごくりと唾を飲み込んで、カズはたまらず声を張り上げた。
「誰かいますかー?」
カズの声が山林に響いて消えていく。
しかししばらく耳を澄ましても、草木の音しか聞こえてこない。
「たぶん動物」
注意深く木々を照らしていたカズは、そう言ってまた歩き出した。
ところが、もうそろそろ廃屋が見えてくる頃になって、今度はカズの身に異変が起きた。
友達と楽しく会話をしていて、誰かが余計な一言を言った瞬間に場の空気がすっと変わる、そんなことはよくあることだ。しかし夜の山道を無言で歩いていてそうなることは珍しい。目に見えているものは変わらない。耳に聞こえている音も匂いも変わらない。それでも明らかに山の空気が変わった気がする。それも一瞬で。まるで現実とそっくりの異世界に迷い込んだような感覚だった。
ふと、耳元で声がする。
「うわぁっ!」
カズはびっくりして足を止めた。
ぼそぼそっと不明瞭な声。なんて言ったかはわからない。おそらく先ほどからトモが繰り返し訴えていた声、それがカズにも聞こえたのだ。しかも、どこかから聞こえるという距離感ではなく、すぐ耳元で。それも女性ではなく、中年男性の低い声だ。
「聞こえた……」
囁かれた右耳を中心に、ぞわぞわっと怖気(おぞけ)が広がっていく。
「トモちん、声、聞こえるわ」
気持ち悪さと、そして興奮を抑えきれずに、カズは半笑いでトモに振り返る。しかし振り返ったカズのフレームに、トモの姿はなかった。
「トモちん?」
背後に続く道の奥をライトで照らす。
「トモちん? あれ、どこ行った?」
廃屋を探すことで頭がいっぱいで、トモのことなんて考えていなかった。てっきり後ろをついてきているものだとばかり思っていたのだ。
「トモちーん!」
周囲にライトをやる。
林道は狭く、外れればすぐに木々が密になる。まだ廃屋も見つけていないのに、トモが何も言わずに林道を外れるとは思えなかった。
「マジでどこ行った?」
予想外の出来事に頭が混乱していた。つい先ほどまで後ろにいたはずのトモがいないのだ。
「トモちーん!」
辺り一面漆黒の雑木林に、カズの声が吸い込まれていった。
「どういうこと?」
最初はトモがドッキリを仕掛けているんだと思った。ただ、中高と一緒に過ごした友人として、トモがそんなことをする人間ではないのは知っている。
カズは一度カメラを切り、トモに電話をかけようとした。ドッキリなら電話に出るはずだ、そう考えてのことだ。
ところが電波は届かない。
「圏外か……」
カズの胸の奥に、嫌な隙間が開いていった。
◇
恐怖がないと言えば嘘になる。
普段、少し席を外すだけでも、トイレに行ってくる、電話してくるなどと必ず理由を告げるトモが、何も言わずにどこかに行ってしまったのだ。しかもここは電波も届かない山の中。どこへも行く理由が見当たらない。
考えれば考えるほどに不可解で、カズは林道に立ったまま、高鳴っていく心臓の音を聞いていた。
マジで勘弁してくれ、ドッキリなら早く出てきてくれ、そう願いながら周囲にカメラを向ける。
冷たい風が吹き、自分を取り囲むようにかさかさと木々が鳴いていた。
その音を聞いていると、一人になった不安が急に膨らんでいった。
ただそうは言っても、カズは心霊ユーチューバーだ。この種の不安は過去に何度も経験している。
カズはカメラを構えた。そして気を引き締め直すと、林道から外れて山の中へと進んでいった。トモに何かあったら大変だという気持ちと、もしかしたら今夜こそ何か撮れるかもしれない、そういう期待の両方にカズの胸は自然と高鳴っていた。
カズは時々トモの名前を呼びながら、夜の山林をゆっくりと進んでいった。
全神経を周囲の物音に集中して、わずかな物音がするたびに、その方向にライトを向けて確認した。
今この山に自分たちしかいないことを分かっていても、周囲からぱきぱきと音が鳴れば、確認せずにはいられない。それはトモかもしれないし、熊かもしれないのだ。
「トモちん?」
音のした方へライトを向ける。
しんと静まり返った暗闇の中で、木々が絶妙な間を保って乱立していた。
動くものはない。
懐中電灯の光もない。
それなのに、その木々の間から、ぱきぱきと小枝を踏む足音が聞こえてくる。
「こっわ……」
カズは身震いをすると、またゆっくりと歩き出した。
緊張の糸が張りっ放しだった。
周りは一面の暗闇。何が潜んでいるかは分からない。想像だけが膨らんで、目に見えない何かがこちらに向かってゆっくりと近づいてきているような気がした。しかもここは市街地から遠く離れた山の中。何かあっても助けてくれる人はいない。自撮り棒を持つ腕には終始力が入って、全身には鳥肌が立ちっぱなしだった。
それでもカズは、時折カメラに向かって現況を説明しながら、蜘蛛の巣を払い、木々の間を抜けていった。心の隅にはトモが仕掛けた悪戯の可能性を残しつつ、トモがいなくなったことも含めて、後々これを編集して一本の動画として出せるように記録していたのだ。視聴者はどんなことが知りたいか、どの画角なら見やすいか、自身が危険な状況にいながらそんなことを考えてしまうのは編集者の性(さが)なのだろう。カズはできるだけ真っ直ぐに、もし何かあればそのまま引き返せるよう、慎重に森の中を進んでいった。
しかし夜の山というのは、どこを照らしても景色が同じで、どこから来たかなんてすぐに分からなくなる。それにくわえて、四方八方から絶えずぱきぱきと音が鳴っていれば、近くに人がいるような不安は消えてくれない。カズは視界の悪さもあいまってとうとう足を止めた。
「マズイな……。いったん引き返すか……」
トモになんらかのアクシデントがあって、実は先に山を下りていたなんてことも考えられた。何も言わなかったのは緊急だった可能性もある。ただ問題は、引き返そうにも自分がどこからやってきたか、まったく見当がつかないことだ。
カズは周囲にライトを向けた。
すると、何気なく向けたライトの先に、奇しくも一軒の廃屋が浮かび上がった。
傾いた壁。
崩れた屋根。
割れた窓硝子。
嘘だろ――心臓が早鐘を打ち始める。
あった。きっとあれがDMにあった廃屋だ……。
今までさんざん周囲を照らしてきたのに気付いていなかった。
引き返そうとした矢先に見つけてしまったことが不思議でたまらなかった。
あらためて廃屋にライトを向ける。
それは震えるライトの先で、まるで時空の裂け目から突然現れたように鬱然と建っていた。
◇
それはいつ崩れてもおかしくない木造の平屋だった。
いつの時代のものかは見当もつかない。屋根は傾き、板張りの外壁はところどころ剥がれ落ちていた。窓は割れ、黒い穴のように開いた隙間からは、周囲の闇とはまた違う濃い闇が滲み出ている。まさにもぬけの殻といった様子で、庇(ひさし)には落ち葉が溜まり、窓には蔦(つた)が絡まっていた。おそらくは何十年とそこにあるのだろう。自然とそうなったのか、人の手によってそうなったのかは分からないが、見るからに人々から忘れ去られ、そこだけ時間が止まってしまっているようだった。
それは恐怖か、それとも好奇心か……。
心臓が強く鼓動を刻みだす。
カズはゆっくりと建物に近づいていった。
するとすぐに建物の中から、かたんと物音が聞こえた。なにか硬い物が落ちた音だ。
立ち止まって息を殺す。
「なんか聞こえる。カタンって……」
小声でそう言って忍び足で窓に近づいていく。そして割れた窓からライトで中を照らした。
建物の中は荒らされて物が散乱していた。埃をかぶった衣類や古い食器類。いつの時代の物か分からない酒瓶や雑誌。布団は押し入れから引きずり出されて、比較的新しいコンビニの食品ゴミも含めると、実に様々な物が散らかっていた。コンビニのゴミは、ここに誰かが住んでいたのか、それとも肝試しの人間が置いていったものかはわからない。いやこんなところに人は住めない。畳は腐って落ちてしまっていたし、壁沿いの机や箪笥、食器棚といった家具は傾いたまま放置されていた。夜逃げ、あるいは孤独死でもしたのか。生活の痕跡がしっかりと残る廃屋だった。
するとその時、またぎしりと音が鳴った。今度は床板が軋む音だ。
こんなところに人がいるわけもなく、また人が床を踏み締める以外にあんな音が出るわけがない。そう分かっているからこそ、気味の悪さが際立った。しかもさっきから心臓が信じられない速さで動いているから、興奮しているのか、緊張しているのか分からない。
カズはごくりと唾を飲み込んだ。
散々心霊スポットを回ってきたというのに、怖くてたまらなかった。どんな人であっても、人である以上、恐怖の感情に慣れるなんてことは決してない。怖いものは怖いのだ。それでも音が鳴れば確認しなければならないのが心霊ユーチューバーという仕事だ。ここまで来たらもう引き返すわけにはいかない。
カズは覚悟を決めると、わざと自分を鼓舞するように大きな声を出した。
「誰かいますかぁ!」
自分の声が廃屋の中に吸い込まれていく。
もちろん返答はない。
カズは深く息を吐いた。
返答がないことくらい分かっていた。それなのにまったく心が安まらない。
行くしかないか……。
カズは新鮮な空気を吸って、胃の底から込み上げてくるじっとりとした気持ち悪さを鎮めると、その足で建物の正面に回った。
「お邪魔しまーす」
玄関の戸は半分開いたままだった。建付けが悪いのか、戸は固く動かない。
恐る恐る玄関から中を覗くと、すぐにカビの匂いが鼻を突いた。外は乾燥しているのに、建物の中は異様に湿っている。おそらく建物全体がカビているのだろう。頭が痛くなるほど不潔な空気はどんよりと停滞し、軽いはずのダウンジャケットが水を吸ったように重く感じられた。あまり長居はしたくない場所だ。
「すいませーん……」
強烈な悪臭に鼻呼吸を諦め、建物の中に入っていく。
家の中にカメラとライトを向けると、そこは小さな土間のある古い日本家屋だった。正面に居間、右手には台所だろうか、細長く暗い空間が続いている。居間の左手には仏間、右奥は寝室だろうか、もう一つ部屋があるように見えた。どこも物が溢れていて足の踏み場がない。衣類や食器、雑誌類やゴミの中に、柄の折れた箒(ほうき)や大きなショベルも転がっていた。もしもの時にはどちらも武器になり得る。
「うわぁ……、物がすごい。あそこなんかもう畳が落ちちゃってるよ」
絞ったライトの先に、畳がひしゃげて梁だけになった居間が浮かび上がった。梁と畳の隙間には大量の衣類と布団類が散乱し、ひどい臭いを放っている。天井に目をやれば、低い天井にびっしりと黒いカビが生えて、ところどころに人の顔のような模様が浮き上がって見えた。部屋全体を見渡せば、部屋の壁紙が剥がれて垂れ落ち、それらが風にゆらゆらと不気味に揺れ動いている。
「人はいなさそう……」
人はいないのに人がいるような感覚が頭から離れない。気味が悪いというのもあるが、そこだけ異様に空気が冷たくて、まさにお化け屋敷にいる感覚だった。
奥の暗闇にカメラを向ける。
雨の影響か、どこからかぴちゃぴちゃと水の垂れる音が聞こえていた。
「ちょ待って、なんか聞こえる」
カチッ。
パキッ。
そういう家鳴りとも呼べる音が建物のあちこちから聞こえてくる。目を瞑って聞いていたら、暗闇の中を何かが瞬間的に移動しているような音だった。
するとその時、奥の暗闇からぎしりと音が鳴った。外から覗いていた時に聞いた、あの音だ。
「まただ」
奥の暗闇にライトを向けたまま、じっと息を潜める。
口の中が乾き、息が詰まりそうだった。
「だれかいますか?」
おそるおそる声をかけるも返事はない。
ライトの先、傾いた食器棚の奥には、やはりもう一つ部屋がありそうだった。そしてそこの暗闇からぎしぎしと物音が聞こえてくる。
「そっち、行きますよ」
カズは床梁に足をかけた。何度か体重をかけ、建物が崩れないか確認してから梁の上に乗る。
みしみしと家が揺れた。天井を見上げると、古びた電傘が揺れていたが、構わず梁の上を進んでいった。
足元に気を付けながら、ゆっくりとカメラとライトを移動させる。すると、壁の向こうの暗闇が一瞬動いた気がして、ライトを止めた。
「え、待って」
その時は鼠か何かが走り抜けたんだと思った。ところがカメラのモニタを確認してぞっとした。丸く切り取られた光の端に、黒い足が見えるのだ。決して見間違いなんかじゃない! はっきりと二本の黒い足がカメラに映っていた。
「え? いるいる、人いるよ!」
ここまで何度も声をかけた。梁に乗る前に確認もした。人はいなかった。それなのに、奥の暗闇に誰かが立っているのだ。
心拍数が跳ね上がった。
心臓が何度も大砲を打ち鳴らし、それ以上進んではいけないと警告しているようだった。
人がパニックに陥るのはこういう時なのだろう。全身が異変を感じ取り、なかば拒絶に近い不安が頭の中を駆け巡る。
誰だ? なぜ動かない? なぜライトを持ってない? 暗闇の中でいったい何をしている?
答えのない問いが瞬間的に頭に浮かび、消えていった。
不審者か、それとも幽霊か。
もう一度モニタに目をやると、画面にはしっかりと二本の足が映っていた。同時に、インカメラに映る自分のにやけ顔が目に入る。
「あの、すいません……」
カズは震える声で語りかけた。
「すいません、何してるんですか?」
それはすぐ近くにいるのに答えない。
心臓がいよいよ激しく高鳴り出した。
ごくりと唾を飲み込む音が自分でも聞こえるくらい、静寂が張り詰めていく。
「あの、もしあれだったら、ここ出てくんで、音立ててくれます?」
そう自分で言っている最中でさえ、怖くてたまらない。いきなり襲ってきたらどうしよう、武器を持っていたらどうしよう、そう考えると、足が震えて前に出なかった。でも一方で、もしあれが自分にしか見えていなくて、偶然カメラに映った何かだとしたら、今この瞬間に、自分はそれをカメラに捉えていることになる。
あれが黒い影の正体か?
確かめるしかない――。
カズは震える手で自撮り棒を握り直すと、喉から声を絞り出した。
「い、行きますよ、無理だったら、オト、立ててください」
そう言って梁の上を一歩ずつ、黒い影に向かって近づいていく。
全身の毛が逆立っていた。
五感は鋭く研ぎ澄まされて、戦うか、逃げるかの決断は準備されていた。
一歩を踏み出すごとに、みしみしと家が鳴る。
ものすごく怖いのに、どこか嬉しい自分もいた。
まるでこの世界の本当の姿に近づいているようだった。自分がよく知っている現実と、その向こう側に実はもう一つの現実があって、その境目に近づいているような、そこには見てはいけないこの世の隙間があって、一度覗き見てしまったら二度と今いる現実に戻って来れないような、そういう怖さというか、興奮が全身をぐるぐると駆け巡っていた。
しかしその興奮はあっけなく萎んでいった。カズが向けたライトに浮かび上がったのは、トモだったのだ。トモはカメラの付いた自撮り棒をだらりとぶら下げ、真っ暗闇の中、ライトもつけずに壁を向いて突っ立っていた。
「トモちん?」
カズは拍子抜けして立ち止まった。
「トモちん、何してんの?」
トモは答えない。カズに背を向けたまま、ぶつぶつと何かを口にしている。
「トモちん!」
声を張り上げる。するとトモはようやくカズに気が付いた様子で振り返って、眩しそうに手で光を遮った。
「トモちん、大丈夫?」
「え? あ、うん……」
そう言って、きょろきょろと辺りを見回すトモは明らかに様子が変だった。
「うんじゃないよ。急にいなくなっちゃったからマジで焦ったじゃん」
「いや、ずっとここにいたよ」
「え?」
「いなくなってないよ。カっちゃんが先に行っちゃったんじゃん」
「は? 何言ってんの?」
話が噛み合わない。トモの視線は定まらず、その眼球は少し震えているようにも見えた。
カズの頭に薄気味悪い感情がじわじわと込み上げる。
目の前にいるトモは、トモだけれど、トモじゃない……。
「もういいよ。出よう、出よう」
カズが先に梁を渡り、それからトモが渡った。
土間まで戻った二人は、居間の神棚に頭を下げて、建物の外へ出た。
外へ出ると、風が冷たかった。頭上の木々がざわざわと騒めいていて、外の空気を吸うと、なんだか急に安心した。
奥の暗がりでトモの目を見た時、あれがトモの悪戯なんかじゃないことはすぐに分かった。
疲れていたし、何も話したくなかった。
もう何も考えたくなかったし、早く家に帰りたかった。
ところが、二人が林道へ戻る道を探していた時、突然、山中に女性の叫び声が響きわたった。
それは闇を切り裂くような甲高い女性の叫び声だった。ありとあらゆる怨恨を腹の底から絞り出したような、強くて、長い、不穏な声――。
「今のなに?」
トモが振り返り、カズはカメラを構えた。
「ちょ待って、今の聞いた?」
「うん、聞いた」
「聞こえたよね?」
「うん、聞こえた」
とその時、廃屋の裏手の方から、今度はばきんと太い枝が折れたような音がした。
続いて、どすんという鈍い落下音。
「え?」
顔を見合わせた二人は、すぐに音のした方へ向かった。
◇
今思えば、僕らは呼ばれていたのかもしれない。
次元の境目にぽっかりとできた隙間の中に、この世の不条理を見つける運命だったのかもしれない。
僕らは隙間を覗いてみたいと思っていた。
もしこの世とは別にあの世というものがあって、そしてもしあの世がこの世と薄い膜一枚でつながっていたとしたら、そこにできた隙間から見える世界がどんなところなのか、とても興味があった。正直に言えば、恐怖に打ち勝ってそれを覗き見た自分に対する誇りと、周りからの称賛を期待する気持ちも少なからずあった。でもそれらはすべて、僕らがこちら側に戻って来れることが前提にあったのだ。
「ちょ待って。あれなに?」
ライトの先に、何かがあった。
最初は、ただの塊にしか見えなかった。
木の根か、岩に引っかかった布切れか。でもそれは近づくほどに少しずつ形を持ちはじめた。
さきに見えたのはロープだった。
地面から不自然に伸びていて、途中で闇に消えていた。
ロープをライトで辿っていくと、それは斜面に引っ掛かって止まっている太い枝に結ばれていた。枝は折れ、結び目は思ったよりも新しい。
それを見た瞬間、僕の頭には嫌な想像が湧いてきた。
おそらくトモちんもそうだったと思う。僕らは一言も言葉を交わさなかったし、お互いのことを気にしている余裕なんてなかった。
ライトを戻すと、ロープのもう一端は人の首に巻きついていた。
はっとした。
声が出なかった。
ライトに照らされて、木と岩の隙間に、女性が横たわっていた。
女性はぐったりと力なく隙間に挟まり、長い髪が顔を覆っていた。グレイのスーツを着ていて、袖から覗く手は青白かった。コートは着てなくて、靴も片方しか履いていない。
グレイのスーツ。
首に絡みついたロープ。
地面に投げ出された青白い手足――死んでいる。
冷酷な現実が一気に僕らを飲み込んだ。
僕はこの女性を知らない。彼女が何をしている人で、どんな人生を歩んできたのか、僕は知らない。彼女が普段何を見て、何を思ってきたのか。何を食べて、何を考えていたのか、想像もできない。ただ一つ、僕に分かるのは、彼女がここで死を選んだという事実だけだ。
腹の底から何か得体の知れない感情が込み上げた。
誰にも話さなかったんだろうか?
誰も助けてくれなかったんだろうか?
どうしてこんな場所で、こんな恰好で、こんなことを選んでしまったんだろうか――。
目の奥がかっと熱くなった。
音が消え、世界が遠のいた。
僕は隙間を誤解していた。
隙間は覗けば見れるものだと思っていた。
自分が隙間に落ちることなく、ひょいと覗けるものだと思っていたのだ。
でも実際は、それは僕が思っていた以上に厳粛で、孤独で、もっと壮絶で、もっと切迫していて、それでいてやりきれなくて――。詰まるところ、自分が隙間に落ちることなく隙間を覗き見るなんてできないのだ。
胸が張り裂けそうだった。
悲しみ、苦しみ、寂しさ、怒り……。この女性のことを思うと、色々な感情がとめどなく押し寄せた。だから僕はそれらにじっと耐えることしかできなかったし、立っているのが精一杯だった。
でもその時、トモちんの荒い息遣いがどこか遠くで聞こえた。
「生きてる……。この人、まだ生きてるよ!」
その一言で、視界が鮮明になった。
「カっちゃん、電話! 消防と警察!」
でも僕は、その声を聞いても、しばらく動けなかった。
僕の持つ小さなモニタには、トモちんが恐る恐る女性の頭を持ち上げ、その首からロープを外そうとしている姿が映っていた。女性の上半身は、いつの間にか、ダウンジャケットに包まれていて、その傍でトモちんが一生懸命に動いていた。
女性は、生きている。
木と岩の隙間にぐったりと横たわる女性は、生きていた。
「切って! カメラ、もう切っちゃっていいよ!」
そう言われて、僕はようやくカメラを切った。