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手のひら

 彼はよく手のひらを見つめていた。

 短い指。骨ばった指の関節。血の気がない白い手のひら。彼はそれをしばらくじっと見つめて、それから握ったり開いたりを数回繰り返す。血豆を見ているのか、指の動きを確かめているのか、とにかく彼は、なにか奇妙なものでも見るような真顔で自分の手のひらを眺めていた。そして俺は、彼がそれをするたびに、また変な奴が入ってきたと思っていた。

 

 あれはたしか、二〇二二年の八月頃だったと思う。

 当時はオミクロンとかいう訳の分からない健康食品みたいなコロナが流行っていた。テレビでは毎日のように何人が感染して、何人が死んでって報道されて、日本中に感染が拡大していた時期だ。第七波、テレビではそう言っていた。二度の緊急事態宣言を経て、皆がコロナに慣れてきて、マスクや消毒が日常の一部になって、それでも感染拡大は止まらなくって。個人的には、いつまで続くんだよってうんざりしていた。自粛疲れって言葉を聞くようになったのも、たぶんこの時期だったと思う。街には人が戻って、飲食店の時短営業も解除されたっていうのに、その頃はまだ黙食なんて謎ルールもあったし、アクリル板越しに会話するのが普通だった。

 今思い返しても、あの頃は皆がもやもやしていたと思う。声出し禁止の応援、入場人数制限、何度も延期される試合、そして中止。皆が色んな制約の中で我慢していたし、身動きが取れずにいた。国民総我慢の時期って言えばいいか。みんな我慢してるから、今だけだから。お互いが雰囲気だけで協調を強制し合っていたあの時期に、何か新しいことを始める人はいなかったと思うし、そういうタイミングでは決してなかったように思う。まして汗と飛沫の飛び交うボクシングジムに、新規で入会してくる物好きなんていない、そう思っていた。

 

 うちのジムは裏渋谷にあった。いわゆる雑居ビルの二階にある老舗のジムだ。

 道路に面した窓には、窓一面に大きく印刷された文字が一文字ずつ貼ってある。『鈴木ボクシングジム』。少し開いた窓からはいつも、気合の入った声と、パン、パンと乾いた革の音が聞こえていた。

 ジムには階段を使って行く。エレベーターはあるが、俺たちは階段を使った。

 階段を上がると、開けっ放しの扉から、汗と革、そして消毒液が混じった独特の匂いがしてくる。そしてこの匂いを嗅ぐといつも、ああ、帰ってきたって、そういう気分になった。

 入口を入ると、まず目に飛び込んでくるのが中央のリングだ。リングロープは色褪せて、見た目はいかにも古いが、上がると実はしっかりと足に馴染む。キャンバスはところどころ補修の跡があって、乾いた汗の匂いが染みついていた。踏み込めば、わずかに沈む。何人もの体重と覚悟を受け止めてきた柔らかさだ。

 リングの右手には三本のサンドバッグとスピードバッグがあって、いつも誰かしらがマスクをしたまま打ち込んでいた。その隣のウェイトスペースは狭く、コロナの問題もあって、ここでもやっぱり誰かしらが鏡の前でシャドーをしたり、縄跳びをしたりして順番を待つ。冬はいい。夏は三台のサーキュレーターと二機のエアコンが唸っていても地獄だった。

 リングの奥にはさっき言った窓。その窓際の壁には貸出用のグローブが干してあって、その辺に行くといつもつんと酸っぱい匂いがした。夜になれば、窓の隙間から街の匂いが入って、いくらかマシになるが昼はひどい。だから窓際は大体空いている。と言っても、個人的に空いている理由はそれだけではないと思っている。そこが会長室の目の前だからだ。

 鈴木康大、六十九歳。現役時代は全日本ウェルター級一位、今は全日本ボクシング協会の副会長をしている。経歴も地位も立派だが、それ以上に目力がすごい。会長はあまり多くを語らないタイプだから、じっと見られているだけで緊張した。睨まれると本当に怖い。そんな会長がいる会長室。普段は扉が閉まっている。これが開いている時は、自然とジム内が引き締まる。

 その会長室の裏手、ちょうどジムを一周して入口に戻ったところにジムの受付カウンターがあった。年季の入ったボールペン立てと書類トレーに積み上がった入会申込書、それから試合のチラシとかフライヤーとか、そういうものがごちゃごちゃっと置いてある簡素なカウンターだ。

 その日、彼はそこに立っていた。

 色白でひょろひょろ、背もそんなに高くない。いちおう運動できる恰好ではいるが、Tシャツもパンツもぶかぶかで体に合っていなかった。しかも緊張しているのか、愛想もそっけもない無表情で、拳だけをぎゅっと握っている。

 場違い――それが彼の最初の印象だった。

 

 うちのジムには、一般、学生、プロ志望と三つのコースがある。女性会員もいるが数は少ない。日中に来れば見かけることもあるが、夜は男しかいない。でもプロ志望者は昼夜問わずやってくる。だから昼間に来た時なんかには、フィットネス目的の女の人が楽しそうにミット打ちする横で、減量中のプロが黙々とシャドーを繰り返すシュールな光景を目にすることもある。

 シュールと言えば、彼の練習はまさにそれだった。

 彼は毎週二回、大体いつも夕方頃に来て、夜に帰った。ただ、夕方は一番混む時間帯だ。たとえばサンドバッグ。夕方になると、三本のバッグは全部埋まる。だから空くのを待つ間、誰もが無言で縄を跳ぶ。プロは跳び方も軽快だ。リズミカルに両足で跳んだり、左右に重心を移しながらステップを踏むように跳んだり、当たり前だがつまずくことはない。けど彼はと言うと、プロの横で縄が足に絡まったり、顔に当たったりして中々続かなかった。運動音痴なんてレベルの話じゃない。十回も続かない。しかも彼だけが、まるで落ちこぼれの志願兵みたいに必死に歯を食いしばって縄を跳んでいる。周りは誰も声をかけない。ただくすくすひそひそと笑うだけだ。俺もその一人で、自分の練習に集中していた。なぜかって? 声をかけて逆に切れられたら面倒くさいからだ。彼にはなんとなくだが、そういう『俺に話しかけるな』的なオーラが漂っていた。やや中二病的なオーラと言ってもいい。

 そんな中、牛久さんだけは彼に話しかけていた。そして俺は、牛久さんのそういう姿を見て、さすがは牛久さんだと惚れ直した。

 牛久さんはプロだ。スーパーフライ級の全日本ランキング一位に載っている。うちのジムには三人のプロがいるが、牛久さんはその頂点にいた。誰よりも練習して、誰よりも自分に厳しい。そしてそれを当たり前のようにやる。決して手を抜かないし、弱音を吐いたのを見たことがない。会長を含めてジムにいる全員が牛久さんをリスペクトしていたし、目標にしていた。俺からすれば、憧れの存在だし、近づくのも畏れ多い人だ。

 そんな牛久さんに話しかけられて、彼は嬉しかったんだろう。

 ある時、スパー終わりに牛久さんが水分補給をしていたら、彼は突然リングまでつかつかと近づいていって、牛久さんの隣に並び立った。牛久さんは少量の水を口に含んで、リング下のバケツに静かに吐いていた。減量中は水を飲み干したりはしない。軽く口の中を湿らせて、静かに吐き出すのが普通だ。ところが彼は何を思ったのか、牛久さんのすぐ傍でスポーツドリンクをごくごくと飲み始めた。マスクをずらして、腰に手を当てて、ペットボトルを逆さにがぶ飲みする姿は異様だった。牛久さんもトレーナーの丹羽さんも目を丸くして驚いていたが、彼があーと声を出して口元を拭った時には、さすがに丹羽さんが引き離した。ジム文化を分かっていないと言えばそれまでだが、その光景は見ていてかなりシュールだった。もちろんその後、彼がそうすることはなくなったが、その時の彼は明らかに浮いていた。

 

 そんなだから、一か月もすると、彼はジム内で噂になった。

 彼が帰った後、プロ練で残っている連中で話し合うのだ。

「あいつ、笑わないよな」

「笑わない、見たことない」

「目、怖くね?」

「ヤバいすよね、犯罪者みたいな」

「いつも一人じゃない?」

「誰とも話さんよな、一人で練習して、一人で帰ってくみたいな、挨拶もせんし」

「なんか手見てないすか?」

「見てる見てる、キモいよね」

「ヤバいすよね」

 そうやって仲間内で笑う。

 丹羽さんもどう接していいか決めかねている様子で、「彼、どうすか?」と聞いたら、「うーん、わかんない」と苦笑していた。入会申込書には「強くなりたい」とだけ書いてあったようだが、声をかけても答えないから今は放っておいているらしい。そう言われればたしかに、プロを目指しているわけではなさそうだし、そうかと言って、痩せているからダイエット目的でもなさそうだった。勉強の気晴らしか、健康のためか、いずれにしても俺には関係ないし、きっとすぐに辞めるだろうってそんな風に思っていた。

 そうしたら、それからしばらくして事件は起こった。

 さっきも言ったが、うちの会長は怖い。

 頬の肉はふっくらと垂れていて、への字に結んだ口元には深い皺がある。頭は薄くて、髪も白いが、眉は吊り上がっていて、大きな目が異様に鋭かった。目の下に大きな涙袋があるから、マフィア顔なんて言う人もいた。たしかにイタリアンマフィアの首領(ドン)みたいな威厳はある。何事にも動じない凄みっていうか、平気で人を殺せる冷酷さっていうか、顔は老人顔だけど、二の腕は太いし、肩幅があって、全体の見た目だけなら七十目前の老人にはまったく見えなかった。

 ただ、本当に怖いのは見た目じゃない。

 会長はいつも遠くから静かに見守る。いつも真剣だし、練習中に口を出すことはまずない。だから会長が口を開く時は怖い。そういう時は大抵、自分でも気づいている弱さを指摘されるからだ。容赦はない。そこを真っ直ぐに突いてくる。会長にごまかしは通じない。会長は、誰が本気で、誰が逃げているか、全部見ている。そして努力を惜しまない人間しか目にかけない。

 でも一方で、来る者も去る者も拒まない心の広さみたいなものもあった。すべてはお前次第って突き放されたような冷たさとも言えるが、たまにリングの下に会長の姿を見つけた時は、期待されている喜びを感じた。「足の使い方がよくなったね」と声をかけられた時は、見守られている安心感があった。怖いけれど優しい、俺にとっては父親のような存在だ。

 そんな会長がめずらしく声を荒らげて怒ったことがある。

 彼だ。彼はあろうことか、勝手にリングに上がっていた。

 今でもよく覚えている。あれは、窓に貼られた広告の隙間から外のネオンが差し込む夜の時間帯、ちょうどプロ練が始まってすぐのことだ。スパーを終えた牛久さんがリングから降りた一瞬の隙を突いて、彼はロープをまたいだ。皆、ノーマークだった。俺は、彼はとっくに帰ったと思っていた。するとその時、会長の怒声がジム内に鳴り響いた。

「勝手に入るな!」

 ぴしゃりと空気が止まって、その場にいた全員が息を呑んだ。

 でも彼はと言うと、けろっとした顔で、べつに謝るわけでもなく、急ぐわけでもなく、普通にリングから降りた。

 俺には信じられなかった。

 リングは神聖な場所だ。ジャブもろくに打てない初心者が軽々しく上がって良い場所じゃない。何してんだと思ったし、牛久さんに対して失礼だと思った。牛久さんは笑って流していたが、俺は腹が立っていた。だからそのあと窓際に立ってリングを眺めていた彼に、俺は皮肉を込めて「会長に気に入られたな、頑張れよ」と言った。これから会長室に呼び出されて、きつく説教されることを見越してのことだ。ところが彼は俺の方を見ようともせずにリングを見つめていた。無表情のまま、何も言わず、謝りも、笑いもしなかった。まるでほっといてくれと言いたげなわずかな苛立ちを目元に浮かべて、ただじっとリングを見つめていた。

 なんだこいつ?――飄々(ひょうひょう)と会長室に入っていく彼の背中を見ながら感じたこの時の違和感は、それからしばらく尾を引いた。

 

 

 年が明けて、屋外でマスクを外す人が増えてきた頃、ジム内の雰囲気も少しずつ活気づいていった。

 それまで絶対だった三密の意識が緩んだのが一つ。練習中のマスクは個人で判断する方針に変わって、入口の検温もなくなった。消毒のボトルはそのまま置いてあったが、やらないからと言って厳しく注意されるわけでもなく、やってもやらなくても誰も気にしなくなった。ウェイトや縄跳び、シャドーなんかも場所を選ばずにやれるようになったのは大きい。

 そしてもう一つが、延期や中止に追い込まれていた先輩たちの試合が続々と決まったことだ。それまで黙々と個人練習していた先輩たちは、互いに声をかけ合い、練習を助け合う集団に変わっていった。そうなると皆の練習にも自然と熱が入る。俺はプロを目指していたから、早く会長に認められたい一心で練習量を増やしていた。プロテストを受けるには会長の許可が必要だ。そして会長は努力を惜しまない人間しか目にかけない。当時の俺は、余計なことは考えず、ただ自分のことだけに集中していた。

 その頃は、やればやるほど自分の成長がはっきりと見えてくる時期だ。徐々にスパーの回数が増えていって、自分の癖や弱点が見えてきて、こうすればいい、ああすればいいって、日々思考錯誤して自分を改善していく。当時の俺は毎日の練習が楽しくてたまらなかった。丹羽さんから減量の話や適正階級の話を聞いたのもたしかこの頃だったと思う。ようやくプロテストが現実味を帯びてきたなって嬉しかったし、正直、彼のことなんて一ミリも頭になかった。

 だからその日、後ろから声をかけられた時、一瞬、誰だか分からなかった。

「マウスピースって、どこで作るんですか?」

 振り返って驚いた。

 薄い唇にまばらな無精ひげ。鼻は想像していたよりも大きくて、眠そうなラクダみたいな顔をしていた。彼がうちのジムにきてから半年。マスクを外した顔を見たのはそれが初めてだった。でもその時に思ったのは、まだいたのか、だ。

「歯医者。二万くらい」

 俺は素っ気なく返した。基礎練だけの彼にマウスピースは必要ないと思ったからだ。

 すると彼は、「たかっ」と小声でつぶやいた。

 本気で作ろうとしていたのか、冗談か。

「歯折るより安いだろ」

 と、俺が冗談っぽく返すと、彼は口元だけでぎごちなく笑った。

 その時の彼の顔は今でもはっきりと覚えている。笑い方を忘れたみたいな、だから無理やり作ったみたいなこわばった笑顔。それが一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。気持ち悪かったし、笑うんだ、と思った。彼が笑っているところを見たのは、それが初めてだったからだ。

 

 あとでそのことを丹羽さんに話すと、丹羽さんは「プロを目指したいんだって」と苦笑していた。

 プロ? 無理だろと思った。一年以上やってる俺でさえ、まだプロテストを受けられないってのに、素人同然のあいつがプロテストを受けれるほどこの世界は甘くない。

 でもそれからしばらくして彼を見た時には、本当にマウスピースを装着していて驚いた。だから彼が帰った後、スパーをするわけでもないのにマウスピースをして練習する彼を、「真面目かよ」と皆で笑い合った。

 そう、彼は真面目なのだ。

 たとえば縄跳び。彼はいつの間にか、縄跳びを続けて跳べるようになっていた。ウェイトを使ったトレーニングでは、ばらばらだったフォームが綺麗にまとまっていた。彼のジャブはまだぎごちなかったが、それでも打撃のフォームは以前よりもだいぶ様になっていた。そんなだから、きつそうに顔をしかめながらも一生懸命に反復練習する彼を見ながら、俺は「根性あんじゃん」って思ったし、少しずつ親近感を抱いていった。彼が俺たちの仲間になったような感覚が、自分でも知らないうちにちょっとずつ芽生えていたんだと思う。

 

 そんなある日、スパー終わりに替えのタオルを取りに更衣室に戻ると、彼がいた。

 狭い更衣室の一番奥、壁沿いのベンチに座って、彼はじっと自分の手のひらを見つめていた。きっとこれからシャワーを浴びて帰るんだろう、彼は腹の周りにタオルを巻いたまま、パンツ一枚でベンチに座っていた。

 俺は「お疲れ!」って声をかけた。そうしたら彼は顔を上げて、こっちを見た。

 でもやっぱり何も言わない。下からじっと睨むようにこっちを眺めてから、すっと立ち上がって、ロッカーの中をがさごそとやっていた。

 更衣室には俺と彼の二人だけ。まだ少し距離はあるが、良い機会だと思った。

「ねえ、それ、いつも何してんの?」

 前から疑問に思っていた。

「その、手、見るやつ」

 そうしたら彼はちらっとこちらを見て、「べつに」と答えた。

 今までたくさんの「べつに」を聞いてきたが、それは今までで一番乾いた「べつに」だった。

 ムカついたし、がっかりした。

 は? 『べつに』ってなんだよ? 中二病かよ。

 そう言おうと思ってやめた。

「すいません」と小声で言いながら俺をよけてシャワーへ向かっていく彼の背中に、『バカ』と文字が書いてあったからだ。『バ』は形が崩れて、『カ』は点々と、まるでフジツボのように線が飛んでいた。そこだけ皮膚が茶色くなっていて、肌の色が白いから余計に目立っていた。読み間違えるはずがない。『バカ』だ。

 思わずプッと、口から笑いが漏れた。

 周りに刺青を入れている知り合いはたくさんいる。でも自分の背中に『バカ』って彫った奴は今まで会ったことがない。彼が彫り師に「バカって彫ってください」って頼んでいるところを想像すると、笑いが止まらなかった。

 あいつ、真正のバカだろ……。

 俺はタオルを取りに来たことも忘れて、込み上げてくる笑いを必死に堪えていた。

 

 

 五月、コロナが五類に分類された。

 毎日テレビで見ていた感染者数の発表もなくなって、外を歩いていても、マスクをしている人としていない人が半々くらいになってきた。やっと終わったって思ったし、みんな意外とあっさり元の日常に戻るんだなって思った。

 ジムでは入口の検温がなくなって、アクリル板も撤去された。新規の会員が増え始めて、トイレはどこだとか、荷物はどこに置けばいいとか、知らない顔から色々と聞かれるようになった。俺は先輩ぶって教えていたが、本当は自分の練習に集中していたかった。なぜなら十一月に念願のプロテストを受けることが決まったからだ。五月の頭に会長室に呼ばれて、そこでようやく会長の許可が下りた。その時はもう飛び上がるほど嬉しくて、早く練習に戻りたくてうずうずしていた。プロテストまでまだ半年ある。夏の間、みっちりと絞れたらという条件付きだったが、人生初のプロテストを前に、俺は目一杯気張っていた。

 

「チカラ入り過ぎ。もっと首振って」

 丹羽さんの声が俺を落ち着かせる。

 パン、パン、パン――乾いた音がリングに響いた。

「そう、今のいいよ」

 丹羽さんのミットは無駄がない。

「ワン、ツー、フック! そう!」

 俺は全身を使ってミットを打ち抜いた。打ち終わりに、半歩ずれる。

「いいね、今の足だよ」

 丹羽さんは満足げにうなずいていた。その顔を見るのが嬉しくて、俺は丹羽さんの構えるミットに何度も拳を打ち込んだ。

 感触は良かった。もっとやっていたかったし、いくらでもやれた。でもまだいけると思っていたところでタイムアップ。三分がやけに短かった。

 リングから降りると、急に現実に戻された。マウスピースを吐き出して、水を一口含むと、喉が焼けるように熱かった。まったく疲れていなかった。全身が燃えるように熱くて、リングから降りたというのに足の裏がまだキャンバスの感触を覚えていた。だから俺はその感覚を体が覚えているうちにサンドバッグに向かった。

 左、左、右。フォームを確認するようにサンドバッグに拳を打ち込む。

 左、右、左。サンドバッグが揺れ、チェーンが鳴った。

 この感覚。この間だ。悪くない。覚えとけよ、この感覚だ。

 汗がぽたっと足元のゴムマットに落ちた。

「音色!」

 とそこへ、丹羽さんの声がした。

「安達の相手してやってくれ、軽くでいいから」

 振り返ると、リングに彼が立っていた。

 リングの上からぼうっと見下ろす彼は、相変わらず線が細くて、貸出用のグローブがやけに大きく見えた。

 彼がここに来た時は、まさか彼とマススパーをするなんて想像もしていなかった。

 とはいえ、丹羽さんの頼みなら仕方ない。

 三分流せば終わる、そう思っていた。

「うす」

 俺はマウスピースを噛み直し、リングに近づいていった。

 

 ロープをまたいでリングに上がる。

 タイマーが鳴って、マスが始まった。

 軽くグローブをタッチさせて距離を測る。

 彼は妙に真っ直ぐに立っていた。肘が開いて、顎も上がっている。一年やってその構えか、と思った。

 まずは軽くジャブ。ところがこれがすぽんと顔に当たってしまった。

 マススパーは、動きや距離感、タイミングを確認するのが目的だ。顔には当てない。

「わりぃ」

 無意識にグローブを差し出したが、彼は何も言わずにじっとガードを固めていた。

 いやむしろそれくらいがちょうど良い。こっちは慣れ合いのスパーがしたいわけじゃない。

 もう一度、ジャブ。今度は顔に当たらないようにグローブを狙った。

 バチンと彼のグローブが流れてガードが開く。

 ジャブからワンツー。ワンツーからフック――。彼は怖気づいたか、へっぴり腰になっていた。

 レベルが違い過ぎる。話にならない。

 俺は首を回し肩の力を抜いた。打ち終わりを意識して足を使う。自分の距離を測りながら上下を打ち分けた。もちろん本気で当てはしない。当たる寸前で拳は引く。

 一方で彼は、息を切らしながら必死にガードしていた。たまにジャブを出してきたが、どれも単発でコンビネーションにつながらなかった。そもそも踏み込みが足りないから届いていなかったし、カウンターも合わせやすかった。

 彼がジャブを出す。俺はステップを踏んでボディを狙う。

 ドスン。思いのほか強めの衝撃が肩に走る。とその瞬間、ヘッドギアの隙間から俺を突き刺すように睨みつける鋭い目が見えた。

 余裕だと思っていた。

 俺は彼を無意識に見下していた――集中が途切れる――瞬間、彼の右が飛んできた。

 予想外の軌道。フォームも滅茶苦茶だ。でもためらいがない。

 バシン――頬に衝撃が走った。と同時に、俺の中の何かが壊れた。

 まるで地表を割って噴き出すマグマのように突発的な怒りが全身を貫く。

 拳に力が入り、視界がぎゅっと狭まった。

 その中心に捉えた彼の構えは素人。なのに目だけは違う。

 あの目だ。あの目に気を付けろ!

 俺は深く踏み込んだ。

 左、左、右。衝撃であいつがよろける。

 左、右、左。あいつは苦しそうに顔をしかめた。

「音色! マスだぞ!」

 丹羽さんの声は遠い。

 俺は距離を詰めた。

 ギアをもう一段上げる。

 左、右、左。

 左、左、右。

 ガードの上から右を振る。

 ガードごと押し潰し、ロープに詰めた。

 教えてやるつもりだった。格の違いを分からせてやる、そのつもりだった。

 なのにあいつは下がりながらも目を逸らさない。打たれているのに、マウスピースを見せて笑っていた。

 クソ、舐めんな!

 左、右、左ボディ。ヘッドギアに守られた奴の顔が歪む。

 俺のが先輩だぞ!

 右、左、右ストレート。あいつはバランスを崩して膝をついた――ダウン。

 それでも俺はやめない。

 もう一発。もう一発――。

「ストップ! ストップ!」

 丹羽さんがロープを乗り越えて入ってきた。

 数人に肩を掴まれて引き離され、その時初めて、俺は自分がしたことを理解した。

 心臓の音が頭の中でどくどくと鳴り響いていた。

 はあはあと荒い呼吸音が耳を塞ぎ、グローブの中で拳が熱く痺れていた。

 何発打ったか覚えていない。腕が震えていた。

 マスは本気で当てない。そんなことは分かっていた。分かっているつもりだった。

 視界の端で、彼がロープにもたれて座っていた。

 ふと周りに目をやると、皆がこっちを見ていた。縄跳びの音が止まり、サンドバッグもいつの間にか揺れが収まっていた。

 そのサンドバッグの前に会長の姿があった。

 吊り上がった眉。いつものへの字口。何も言わない。表情も変わらない。

 会長はポケットに手を入れたまま、ただじっとこっちを見つめていた。

 

 その年、俺はプロテストに落ちた。

 

 

 また年が明けて、しばらくは彼のことは頭になかった。

 彼は彼でトレーニングを続けていて、ライトスパーにも参加するようになっていた。少しずつでも確実に成長を続ける彼の姿を見て、焦りを感じなかったと言えば嘘になるが、俺はどこかぼうっとしたまま練習を続けていた。心のどこかでプロテストに落ちたことを引きずっていたのかもしれない。完全に気持ちを切り替えたつもりでいたけれど、練習後に今日は集中できてなかったなと反省することも多々あった。それが、三月に入ったくらいだったか、その停滞を破る騒ぎがジムの外で起きた。

 

 俺はその日もなんとなくジムに来て、なんとなく練習メニューをこなしていた。

 ジムにはいつも通りにパン、パンと音が響いていたが、体は重かった。いくらパンチを打ってもなんだかしっくりこなくて、その日は何度もバンテージを巻き直していた。そうしたら、外から誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。

 誰かが窓から外を見て、「喧嘩だ!」と言った。

 夕方とは言え、陽が伸びて外はまだ明るかった。このままだと近所迷惑になるって、窓際に集まった先輩たちが話していた。そうしたら今度はさっきよりも大きな怒号が響きわたった。今にも殴り合いの喧嘩が始まりそうな雰囲気に、これはさすがにまずいだろってなった時には、ジム内はばたばたと騒がしくて、ジムにいた何人かはすでに入口へ向かっていた。

 いつもと違うひりついた空気に、俺は少し興奮していた。そもそも練習に気持ちが入っていなかった俺には、ちょうどいい言い訳だったんだろうと思う。

 俺は巻きかけのバンテージをほどくと、野次馬根性丸出しで先輩たちについていった。

 

 階段を下りていくと、ジムの前に人だかりができていた。

 腕っぷしの強そうな若者が五、六人、輪を作っている。そして輪の中心には、どういうわけか、彼がいた。なぜ揉めているのかは分からなかったが、とにかく若者たちは彼を囲んで口々に罵っている。

「お前ら、何やってんの?」

 先輩が止めに入ると、若者の一人が言った。

「こいつが先に手出したんだ」

 よく見ると、道路には血が飛び散って、彼の鼻からは血がぽたぽたと流れ落ちていた。

 彼が先に手を出して返り討ちに遭ったってことだろうか。ただ、見る限り、彼一人に対して相手は六人。しかも六人とも筋肉隆々で、皆なんらかの格闘技経験者に見えた。ボクシングを習っているとは言え、彼が六人相手に向かっていくとは思えない。

「とにかく近所迷惑になるからここでやんないで。警察呼ぶよ」

 先輩が言うと、若者たちはむしゃくしゃした様子でしばらく威嚇したり、唾を吐いたりしていたが、やがて渋々と離れていった。

 俺は、警察沙汰にならなくて良かったと、内心ほっとしていた。もし傷害事件になっていたら、ニュースになっていたかもしれないし、ニュースになれば、会長やジムの信用にも影響があったかもしれなかった。彼は怪我をしていたけど重症ではなさそうだったし、何があったかは知らないが、揉め事は終わったと安心していたのだ。

 でもきっと彼の中では終わっていなかったんだろうと思う。

 ふと彼に目をやった時、彼は何を思ったか、突然、若者たちに向かって走り出した。そして去ろうとしている若者の背中に、思い切り飛び蹴りを食らわした。

 俺はびっくりして先輩と顔を見合わせた。

 もちろんまた怒声が上がり、乱闘が始まった。そして今度は、先輩たちが止めに入ってもなかなか乱闘は収まらなかった。

 結局、その時は丹羽さんが降りてきて警察を呼んだ。

 若者たちは逃げて、彼が怪我をしただけで事態は収拾した。

 ただ、印象的だったのは、乱闘中の彼の目だ。彼は若者を引きずり倒して靴底で踏みつけていた。止めようと間に入った先輩の腕を振りほどいて、何度も蹴りを入れていた。その時の目が、あの時の、俺とマススパーをした時の目にそっくりだったのだ。決して目を逸らさず、打たれているのに笑っていた、あの目だ。勇気があるのとは違う。勇気があるというよりも無謀、いや無茶苦茶だ。それをしたら相手が大怪我を負ってしまうだろうなとか、ジムに迷惑がかかるだろうなとか、あるいは自分が怪我をしてしまうだろうなとか、怪我をしたら練習ができなくなるだろうなとか、そういうことはまったく頭にない。歯が折れたっていい、骨が折れたっていい、もしかしたら、死んでもいい、そう思っていたかもしれない、そういう異様にぎらついた目をしていた。

 だから俺は、騒ぎが収まった後、窓際の壁にもたれて手のひらを眺める彼を見ながら、こいつ、強くなりたいんじゃない、壊れたいんだ、と思った。

 

 もちろん、会長は黙っていなかった。

 その日は珍しく、会長室から怒号が聞こえてきた。

 俺は、会長室から出てきた彼が一言も口を利かずに更衣室に直行したのを見て、もう来ないだろうと、そう思った。

 

 それから数日して、俺は会長室に呼ばれた。

 つんと酸っぱい匂いが漂う窓際の奥、小さな部屋の壁には、試合のポスターや会長の現役時代の写真が飾られていた。床には古いサンドバッグや破れたミットが埃をかぶって置いてあって、棚にはこれまでジムで獲得してきた数々のトロフィーや賞状が並んでいた。その奥には机と椅子があって、会長はいつもそこに座っているのに、その日は窓の前に立っていた。

「安達だけど――」

 会長は俺が入るなりそう言った。

「反省はしてる」

 ほんの数秒、息が詰まるような間があいた。

「すこし話を聞いてやってくれないか」

 会長は黙ったまま、俺を見ていた。

 話……?

 俺は意味が分からなくて黙っていた。

「話って……」

 しばらくして俺が言うと、会長は眉間の皺をそのままに静かに息を吐いた。

「あいつの背中、見たか?」

「見ました。バカって彫ってある――」

「彫り物じゃない。タバコの焼き印だ」

 にやけていた顔がすっと引いた。電球がぱちんと切れたように、それまで考えていたことが頭から消えて、背中の皮膚がきゅっと縮まった気がした。

「あいつもお前と似たようなもんだ」

 そういうことかと思った。俺と似たようなもの――会長にそう言われて、直観的に親のことだろうと思った。俺の両親はろくでなしだった。俺自身、普通の少年時代を過ごしたとは思っていないし、それなりに大変だった。だからなんとなく、俺と似たようなものって聞いた時、彼も同じような理不尽をやり過ごしてきたのかと思った。

 同類? それは分かる。でも分かったところで何になる?

 口を開きかけて、やめた。

 断る理由も、引き受ける覚悟も、どちらも持っていなかった。

「ちょっと、考えます」

 俺が言うと、会長は小さく頷いた。

 会長室を出てリングの横を通ると、ロープの擦れる音がやけに乾いて聞こえた。

 あいつもお前と似たようなもんだ――会長の言葉がまだ胸の奥に引っ掛かっていた。

 でもだからと言って、彼にどう話しかけたらいいかは分からなかった。そもそも話すことがなかった。彼は元々無口だし、自分から話すようなノリのいい人間でもなかった。

 結局、俺は彼に話しかけられないまま、時間だけが過ぎていった。

 

 

 四月になって、牛久さんの祝勝会が開かれた。

 日本タイトルの挑戦者決定戦に勝った、そのお祝いだった。

 場所はジムの近くにある焼肉屋で、普段から試合後の打ち上げに使う店だった。

 その日は牛久さんのお祝いというのもあってか、ジムの仲間たちはいつも以上に盛り上がっていた。座敷に並んだテーブルの上で肉を焼きながら、日頃の鬱憤を晴らすかのように、次々とジョッキを空けていく。皆がスマホで試合の映像を見返しながら、「あの右、やばかったですね」、「次はタイトルですね」なんて声を飛ばしていた。

 周りがそんなだから、丹羽さんもいつになく饒舌で、顔を赤くしながら何度も同じことを話していた。牛久さんのコンビネーションがいかに完璧だったか、減量がどれだけきつかったか、身振りを交えて熱く語っていた。そして話し終えると決まってグラスを高く掲げた。すると歓声が上がり、丹羽さんは上機嫌でそれを飲み干していた。

 一方で会長はいつも通りの会長だった。座敷の上座で静かに肉を摘まみ、たまに小さく頷くくらいでほとんど話さなかった。それでも口元はいつもより緩んで見えた。箸の合間に、時折、誇らしげに牛久さんを見ていたから、きっと会長も嬉しいんだろうなって思った。ただ牛久さん本人は、席の中心にいながら浮ついた様子は少しもなかった。そこにいたのは、烏龍茶を飲みながら誰かの冗談に静かに笑う、いつもの牛久さんだった。

 そして俺はと言うと、牛久さんには悪いけれど、まったく騒ぐ気分にはなれなかった。

 空になったグラスの氷を意味もなく箸で転がしたり、卓上の換気ダクトに吸い込まれていく煙をただただ眺めたり、どうしても皆と同じようには楽しめなかった。皆が騒げば騒ぐほど、自分一人だけ置いていかれたような気分になったし、鉄板の上で焼ける肉をじっと眺めている時間もあった。

 その時はなぜかは分からなかったけれど、今思い返せば、悔しかったんだと思う。牛久さんは勝ったのに、俺はプロテストに落ちた、その事実がずっと胸の奥に引っ掛かっていたんだと思う。そして彼のことも――。その日、彼は祝勝会に参加しなかった。

 

 会がお開きになって、それからなんだかんだ解散したのは、二十二時を少し回った頃だった。

 その頃の俺は二子玉川に住んでいたから、田園都市線の駅に向かって歩いていた。

 みんなとは違う道。一人になりたかった。

 駅までの道はさっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。

 四月だというのに夜風はやけに冷たくて、服に染みついた肉の匂いと煙のせいで、いつもの帰り道がどこか違って見えた。自分の足音がやけに大きく聞こえたし、顔はほんのりと火照って、一歩を踏み出すたびに胸の空洞が少しずつ広がっていくようだった。酔いは深くないが、頭の芯が少しだけ緩んでいる、そんな気分だった。

 地下鉄への階段を降りていくと、その感覚はさらに強まった。

 自分の足音が反響して、自分がどこまでも大きく膨らんでいくような気がした。地下道を吹き抜ける風が妙に気持ち良くて、目を瞑ると、世界が変わったような気になった。いつもなら気にもしないどぶ川のような臭いさえ、今この瞬間を生きていると実感するほどに愛おしかった。酒乱の父親、アル中の母親。食べ物を探して忍び込んだ近所の屋敷。夜震えながら待ったコンビニの駐車場。妹を連れて通ったピザ屋の裏口。よくここまで来た、よくここまで生きてこれたと思った。

 改札を通って階段を降りると、ホームには人がまばらにいた。皆、スマホを眺めていて、不思議なくらい静かだった。

 電車がいつ来るかなんてどうでもよかった。

 こうしてホームに立って、周囲の音に耳を澄ましているだけで幸せだった。

 きっと誰も俺のことなんて気にしていないだろうと思ったし、今この瞬間にこんなことを考えているのは俺だけだろうと思った。

 でもそうやって周りを見ていたら、一人だけベンチに座っている男が目に留まった。

 そいつはホームの一番奥、突き当たりのベンチに座ってスマホを見ていた。

 最初は気付かなかった。でもそいつが見ているものがスマホじゃないって分かった時、すぐに分かった。そして、またやってる、そう思った。

 ベンチに座った彼は、背中を丸くして、両肘を膝に置いて、自分の手のひらを見ていた。

 もちろん放っておくこともできた。気付いていない振りをして、この後やってくる電車に乗ることもできた。ポケットからスマホを取り出して、クソみたいな投稿をいかにも重要そうに眺めることもできた。

 でも俺はそうしなかった。

 あいつもお前と似たようなもんだ――。

 俺の頭の中で、いつかの会長の言葉がぐるぐる回っていたからだ。

 

「お疲れ」

 俺はベンチに近寄りながらそう言った。

 すると、彼は顔を上げた。

 青白い顔。大きくてはっきりとした二重の目。長いまつ毛。

 彼は少し驚いたような顔をしていたが、やっぱり目だけは氷のように冷たかった。

「今日、来なかったじゃん」

 俺が言うと、彼は何も言わずにすぐに俯いた。

 やっぱりダメかと思った。思ったが、ここで引いたらわざわざ声をかけた意味がない。

「前も聞いたけどさ、それ、なんでいつも手見てんの?」

 俺はそう言って彼を見下ろした。

 そうしたら、彼はちらっと俺を見上げて、また黙り込んだ。

 塞ぎ込んでいる――。それ以外、思いつかなかった。

 思い返せば、彼は前からそうだった。俺が初めて彼に話しかけた時も、更衣室で「べつに」と返された時も、いや彼を初めてジムの受付で見かけた時からずっと、彼は周りを拒絶して一人の世界に閉じ籠もっていた。まるで誰も彼を救えない、誰も彼の心の痛みや苦しみを理解できない、そういうやけっぱちの目で周囲を威嚇して……。

 でもそれは違う。少なくとも俺に対しては違う。

「気持ちが落ち着くとか?」

 俺は続けた。

 すると彼は手のひらを見つめたまま、ぼそぼそっと言葉を吐いた。

「いや、そういうんじゃなくて――」

 それから両方の手のひらをすり合わせて俺を見る。

「ま、どうでもいいよ」

 俺は、ようやく話してくれたと思った。どうでもいいという言葉は引っ掛かったが、それでも彼が「べつに」以外の言葉を話してくれたことに変わりはない。

 俺は彼の隣に席を一つあけて座った。そして彼と同じようにホームの白線をぼんやりと眺めながら手のひらを合わせた。

「背中のヤツ、痛かっただろ?」

 彼の方は見なかった。ただ、彼には俺が仲間だって気付いて欲しかった。

「ったく誰だよ、そんなことしたの」

 俺はそう言って鼻で笑い飛ばした。彼が答えようが答えまいが構わなかった。同類なら分かってくれる、そう思っていた。

「まあ、分かるけどな。でもさ、過去は変えらんねえ。だったら前向くしかねえじゃん。強くなればいいんだよ。殴られた分、殴り返せるくらい強く。だってさ、いつまでも引きずってんの、バカらしくね?」

 俺は寄り添ったつもりでいた。彼の痛みを分かったうえで、そんなもん一緒に乗り越えていこうぜ、と元気づけたつもりだった。

 でも彼は俺を見た。例の、追い詰められて逃げ場がないって感じの目つきで――。

「お前も正論野郎かよ」

 彼は言った。

 その瞬間、空気が固まった。

 正論野郎?

 真っ直ぐに飛んできたその言葉の意味が分からなかった。

「うぜ……」

 そう言って立ち上がろうとする彼の肩を、俺は無意識につかんだ。

「待てよ」

「うぜえんだよ、消えろ」

「は?」

 掴んでいたTシャツの肩を強く握り込む。

「離せ」

 彼は俺の手を切り、睨んだ。

「は?」

 もう引けなかった。

 俺は彼の胸元を掴み、彼は俺の手首を掴んだ。

 言葉が出てこなかった。俺はムカついていたし、わざわざ助けてやろうとしてんのにその態度はなんだよって思っていた。

 そうしたら彼は俺の手首を掴む力をすっと緩めた。そして口元だけで笑った。

「落ちたくせに偉そうだな」

 それは俺が一番言われたくない言葉だった。自分が一番よく分かっているからこそ、切れ味のいいナイフのように心に刺さる残忍な言葉だ。

 全身の血が一瞬で沸き立つのが分かった。

 こめかみの血管が切れる音がして、考えるよりも先に手が出ていた。

 それまで繰り返し練習してきた左。相手を倒すために何度も体に教え込んできた渾身の左――それがきれいに彼の顎をとらえた。

 瞬間、彼がよろめく。俺は反射的に距離を詰めた。

 と、彼が右を出す。が、彼のパンチは空を切った。

 すぐに左ボディ。鈍い音。彼は腹を押さえて膝をついた。が、すぐに立ち上がる。

 俺は溢れ出るアドレナリンに駆られてダウンを取りに行く。

 殴る。殴る――。

 俺は酔って気が大きくなっていたし、彼の口から「すいません」を聞くまで止めるつもりはなかった。

 殴る。殴る。蹴る――。

 でも彼は謝らなかった。殴られても蹴られても立ち上がった。

 どれだけ殴っても手ごたえがない。ダメージはあるはずなのにまったく諦めない。というか、むしろそれを喜んでいるようにも見えた。勝っているはずの俺の方が、このまま殴り続けたら死んでしまうとためらったほどだ。ゾンビのような、そう言ったら変かもしれないが、まさにそういう不死身の人間を相手にしているような感覚だった。

 彼は口から血を流して立っていた。その目は生気を失って焦点が合わず、口からは唾液と血とが混じり合った何かがだらだらと垂れ落ちていた。伸び切ったTシャツの胸元は真っ赤に染まって、足元には血だまりができていた。その血だまりを見て、彼は声を出さずに笑っていた。

 無性に気味が悪かった。

 まるで悪魔が彼に憑依したようだった。いやむしろ彼の中にいた何かが外に出てきた、そう言った方が合っているのかもしれない。彼の中にいた人間の皮を被った化け物が外に飛び出してきて笑っている、そんな気がするほど、彼はさっきまで手のひらを見ていた彼とは別人だった。

 彼は傷つくことを恐れていない。きっと死ぬことすら怖がっていない。

 目の前にいるのは人じゃない。人の姿をした何かだ。

 ふと拳に目をやると、血がべっとりと付いていた。

 手を開くと、指の隙間から血が滲み出て、手のひらのしわにべっとりと血が残っていた。

「お客様!」

 誰かの声がする。

「やめてください! お客様!」

 ふと我に返って振り向くと、駅員が早足で向かってきていた。

 ホームにいた人たちが遠くからこっちを見ていた。

 急に怖くなって血を隠すように拳を握ると、手のひらがじんじんと痛み出した。

 でも痛いのは彼だって同じだ、そう思って彼を見ると、彼は血まみれの自分の手のひらを見てにたにたと笑っていた。

 

 

 結局、あれが何だったのか、今となっては知ることもできない。

 たぶん、彼は一生、誰にも理解されずに生きていくんだろうと思う。

 だた、一歩間違えば、俺だってああなっていたかもしれない。彼だって、生まれてくる時代が違ければ、もっとましな人生を送っていたかもしれなかった。

 じっと手のひらを見つめる。

 今になって思えば、あの時、彼は、生きている実感を確かめていたのかもしれない。

 日々の暮らしの中でどこかへ行ってしまいがちな自分を、現実につなぎ止めようとしていたのかもしれない。

 わからない。

 でも俺の場合、この手でチャンスを掴まなければならない。

 この春、俺はようやく念願のプロテストに合格した。そして八月にデビュー戦が決まった。対戦相手は名門『黒岩ジム』の新鋭、早乙女選手。十年に一度の逸材と噂の強敵だ。

 ぐっと拳を握り締める。

「音色、行くぞ」

 会長がベンチを立った。

 アナウンスが流れ、ホームに電車がやってくる。

 不思議な感覚だった。

 こちら側の線路と反対側の線路。駅では同じホームに入ってくるのに二本の電車は交わらない。

「会長、安達のこと、覚えてます?」

「安達?」

「俺とここで揉めたやつ」

「ああ、あいつか……」

「あいつ、何してんすかね?」

「知らん。そんなことより、今日のスパーに集中しろ。鳥羽さんがわざわざ左利きを用意してくれたんだ。今までやってきたことを一つ一つ確認するんだ」

「うす」

 俺はリュックを背負ってベンチを立った。

 電車が轟音を立ててホームに入ってくる。

 生暖かい風が頬を打ち、やがて電車はゆっくりと止まった。

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