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Photo by xusenru

【第2回】嫌な匂い

 六月の上旬、静岡の叔母さんから段ボール箱が届いた。

 見た目は普通の段ボールだけど、持つと両手にずっしりと重たい。宛名は『高木麻央様』――私だった。

 箱を開けると、中に夏みかんが入っていた。どれも丸々と太った立派な夏みかんで、光沢のある橙色が綺麗だった。取れ立てのものを送ってくれたのだろう。瑞々しいみかんの匂いが箱一杯に詰まっていた。酸味をまったく感じさせない、ほんのりと甘い柑橘類の香り。昔は好きだったけど、今はあまり好きではない香り――。

 箱の中には手紙もあり、それと一緒に葉のついた枝が一本入っていた。

「前略

 皆さん、お元気のことと思います。

 過日は、お写真を送っていただき、ありがとうございました。皆で楽しく拝見しました。

 麻央さん、大きくなりましたね。幼少の頃のやんちゃなあなたを知っているだけに、見違えるほどの美人さんで、びっくりしました。こちらにもまた遊びにおいでくださいね。

 さて、少しですが初夏の香りを送ります。そのまま食べても美味しいですが、ピールやマーマレードにしてもとっても美味しいですよ。残りは、日の当たらない涼しい場所で保管してください。

 私共も、皆、元気でやっております。こちらは農繁期に入り、忙しい日々が続いていますが、パートさんに手伝ってもらい(私が腱鞘炎のため)、なんとか梨の摘果作業と夏代々の出荷準備を進めております。

 すみれは、8月にピアノの発表会を控え、課題曲の練習に励んでいます。4年生にしては少し難しい曲のようで、「指があと一センチ長かったら」なんて泣き言を言いながらやっています。

 大輔は、今年も静岡県選抜に選ばれ、8月にはイタリアに遠征してきます。今回は本人もやる気のようで、イタリア語の辞書を持っていくそうです。

 恭正は、4月の全国模試でC判定をもらい、かなり落ち込んでいます。親としては、もうひと頑張りしてほしいところですが、あまり言うとまた怒られますのでそっとしています。受験は長期戦ですからね。麻央さんも、希望の大学に入れますよう、健康に十分留意し、一所懸命、勉学にお励みください。

 それでは取り急ぎ、またお会いできますことを楽しみにして失礼いたします。

 追)先日、懐かしいものを見つけたので一緒に送ります。 叔母より」

 達筆で気品のある字は、なんとも叔母さんらしい。

 私は手紙を折り畳み、箱の中にあった小枝を摘まみ上げた。

 濃い緑色の硬い葉が三枚ついている。その付け根、緑色の枝の部分にアゲハ蝶の蛹がついていた。

 きゃあと思わず声が出る。慌てて小枝を投げ捨て、尻もちをついた。

 軽く動悸がしていた。思いがけず記憶のびっくり箱を開けてしまったような、驚きの奥に、自分でも忘れていた古い感情が蘇ったような変な気持ちだった。

 透き通ったキャベツ色をした魔法の小舟が頭の中を流れていく。

 気が動転して、小枝に触れた手をどうしたらいいか分からなかった。するとそこへ、洗面所から声が掛かった。

「どうしたの?」

 櫛(くし)で髪を梳(と)かしながら母が居間に顔を出す。母は外行きのワンピースを着て立っていた。赤いハイビスカスが印象的な膝丈のマーメイドドレスだ。先月、一緒に買い物に行って、母が一目惚れしたお気に入りのワンピースだった。

 母は今年五十歳になる。でも五十にはとても見えない。顔は童顔だし、スタイルはいいし、時代遅れのリキッドアイライナーさえ引いてなければ、三十代と言っても分からないくらい若々しい。

「なんでもない」

 そう言って、おそるおそる段ボール箱の中を覗き込む。それは、夏みかんの隙間に落ちていた。

「夏みかんだった?」

「うん」

 母が居間に入ってくると、柑橘系の甘い匂いが鼻先を通り過ぎた。段ボールに閉じ込めた瑞々しい太陽の匂いではなく、人工的な、甘ったるい香水の匂い。私の嫌いな母の匂い。

 香水なんて臭いだけじゃない、なんて言っていた母がそれをつけるようになったのは、数年前に近所に新しくできたテニススクールに通うようになってからだった。

 それまでの母は家にいることが多く、ドラマを見たり、漫画を読んだり、スマートフォンでゲームをしたりしていた。どちらかと言うと、化粧なんかするタイプではなく、服だって一日中Tシャツ短パンでいたり、外見を気にするような人ではなかったのだ。それがテニスを始めた途端、口数が増え、表情が見違えるほど明るくなった。最近では、化粧もするようになり、新しい服を買いに外へ出かけるようになったほどだ。それが嫌なわけではない。むしろそれまでの元気のない母を知っているから、生き生きと行動する母を見るのは素直に嬉しい。嬉しいのは嬉しいのだけれど、心から喜ぶことはできなかった。

「うちにもあるのにね」

 大きなボストンバッグを玄関に置いて、母が庭に目をやる。

 レースのカーテンが閉められた硝子戸の向こう、我が家の庭にも夏みかんの木があった。私が小学生くらいの頃、食べ残した種を土に埋めたらどうなるかを実験してみて、本当に生えてきたみかんの木だ。中学生の頃には、実が五、六個なるようになり、今では数十個なっている。一度、収穫して実際に食べてみたけれど、酸っぱくてとても食べられなかった。だからうちの木は観賞用だ。

「食べる?」

 母が言った。

「いらない」

 私は息を止めた。

「昔、あんなに好きだったのにね。ビタミンはお肌にいいんだよ」

「知ってる」

「ママの肌、触ってごらん。ほら、すべすべだよぉ」

「分かったから」

「ねぇ、ママ、最近、若返ったと思わない?」

「そうだね」

「でしょ? ママね、最近、お腹のお肉も落ちてきてねぇ、女優の青木ルリ子に似てるってよく言われるんだよ。すごくない? でもやっぱり似てるのは……」

 私は母を無視して、みかんの木に目をやる。

 ――蛹を用水路に流したことなんて、母はもう覚えていないだろう。

 私は、夏みかんの隙間に落ちていた小枝を摘まみ上げた。

 ――これは、母が私のことを見てくれていた頃の思い出。私の手を握って、私と同じものを見てくれていたあの頃の大切な記憶だ。

「……がいいよねぇ」

 母の声が聞こえる。

 私は蛹を隠すように背を向けた。

「人の話、聞いてる?」

「え? うん、いいと思う」

「やっぱそう思う? だよねぇ……。まあいいや、ママね、これからジム行ってくるから。悪いけど、リエちゃんにお礼の電話しといてくれる?」

 そう言って、母は玄関におりた。真っ赤に熟れた林檎のようなエナメルのヒールを靴箱から取り出す。ヒールを履き、ワンピースの裾を整えると、傍にあった大きなボストンバッグを肩に掛けた。

「わかった」

「それから、食器洗いもお願いしていい?」

「わかった、やっとく」

 私は母に背を向けたまま言った。

 遠くで玄関の閉まる音がする。山に向かって叫んだ言葉が、山彦となって帰ってくるくらいに遠く感じた。その山彦だって、返した本人はすでにいない。周りをめちゃくちゃに掻き回すだけ掻き回して、自分だけすっとどこかへ行ってしまう、いつもの母がそこにあった。

 私だって、今の母を受け入れたい。母のことは大好きだし、できることなら、私も一緒に楽しくありたい。でも、自由奔放で、自分勝手で、家族のことなんか少しも考えていない今の母は、どうしても好きになれなかった。そのヒールも、そのワンピースも、その香水も。

 でもそれを言ったら全てが終わる。たぶん終わる。これまでずっと続けてきた日々の日常も、仕事一筋だった父との思い出も、優しかった母との思い出も、なにもかも全部。

 だから私は言わない。

 誰にだってあると思う。言いたくても言えないこと。大切な人だからこそ、言えないこと――。

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