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【第1回】エアポート

 成田空港 国際線第1ターミナル

 出発ゲート22前 ドラッグストア 午前9時27分

 

 そのページにはびっしりと線が引かれていた。

 先の丸まった鉛筆で書いたのだろう。線は太く、はっきりしない。

 それはクリーム色の薄っぺらい紙に、一ページ約二十個ほどの単語が載る国語辞書だが、単語の横に線が引いてあり、その説明書きに線が引いてある箇所もあった。

 ぱらぱらとページを捲(めく)る。

 とても勉強熱心だったのがよく分かる。小学生用の辞書とは言え、その単語量は膨大だ。ざっと見ただけで千ページ以上はあるから、単語数としては二万個以上ある。そのほとんどのページに線が引かれているということは、数千個はマークしたことになる。

 一体いつ勉強していたのだろう……。

 ドラッグストアの壁に寄り掛かって辞書を眺めていた小泉陸(こいずみりく)は、感嘆の息を吐いて顔を上げた。

 出発ゲートには大勢の人々が集まっていた。大勢と言っても、百人もいないかもしれない。日本人の中年団体、若いバックパッカーの集団、ベトナム人らしき若者のグループ。様々な人間達が一箇所にぎゅっと集まっていたから大勢に見えたと言った方が良いだろうか。椅子に腰掛けてスマートフォンを見つめる者、椅子を一列占領して大声で会話する大家族、硝子窓の向こうに見える鋼鉄の機体を眺める親子、皆それぞれに搭乗開始のアナウンスを待っていた。

 穏やかな時が流れていた。

 いつもよりも少し早めの心音が体の内側をとくとくと叩く。期待によく似た緊張で、辞書を持つ指先が微かに震えていた。大学入試のセンター試験で、初めて大学の教室に足を踏み入れた時のような高揚感、そして周到に準備してきたであろう周りを見て、やるしかないと自分を鼓舞するあれだ。

 陸は周囲をゆっくりと見回した。

 こういう時は、周りの状況を把握するのが一番だと、父が言っていた。周りが見えてくれば、自然と落ち着きを取り戻せると、そういうことだ。父は間の抜けた性格で、普段はふざけたことしか言わなかったが、ごく稀にこういう身になる話をした。そしてそういう話は不思議と今でも覚えている。もっとも、父が真剣に話す時というのは、十回に一回、あるかないかだが――。

 北ウイング三階の通路には、広々としたカーペットの上を駆け回る幼児のほかに出歩く者はいなかった。静かで、閑散としていて、まるで閉館前の博物館にいるようだった。平日の午前中はいつもこんな感じなのだろうか。生まれて初めての海外旅行だから知る由もないが、こういう落ち着いた雰囲気は嫌いではない。

 陸は小さく深呼吸をすると、また辞書に目を落とした。

 ぱらぱらとページを捲る。

 面白いのは、マークしてある単語のチョイスだ。

 どうやって線を引く単語を決めたのだろうか。『しっくり』、『じっくり』に線があるのは分かるが、『しつこい』の横に線が引いてあるのは興味深かった。教科書に『しつこい』が出てきたのだろうか。それとも周りで誰かが言っていたのだろうか――。いずれにせよ、『しつこい』という言葉を日常で耳にすることは滅多にないような気がした。

 更にぱらぱらとページを捲る。

 『とり』、『とりあえず』、『とりあつかう』、『とりいれる』。『とり』だけで実に沢山の言葉が並ぶ。その中で、何度か線を引き直した一つの言葉が目に留まって、陸はその手を止めた。

 ――とりかえす。

 単語の説明文にも線が引かれ、その上の余白に、赤いボウフラのような文字でごちゃごちゃと何か書いてあった。なんて書いてあるかはもちろん分からない。ただ、そこに彼が何らかの記憶を留めておいたことだけは確かだった。

「とりかえす……」

 ページを捲る人差し指に、古びたぺらぺらの薄紙がぺたりと凭(もた)れ掛かった。さらさらと冷たいシルクを這わせたような肌触りが指の上を滑り抜け、どこまでも広がる草原のような清々しい匂いが鼻の奥を通り抜けた。

 ああ、なんて懐かしい匂いだろう。

 どこか純朴で、どこか初々しくて、大昔の失敗を旧友に打ち明ける直前のような恥ずかしさが一気に胸の奥に込み上げる。

 これを彼に手渡したのは、僕が小学校六年生の夏だ。当時、僕は勉強が大嫌いで自分から勉強をしたことなど一度もなかった。学校の宿題を「終わった」と言ってやらなかったり、テストの成績が悪いと、親に見せずに丸めて捨てたりもしていた。夏休みの宿題だって、休みが終わるぎりぎりになってから取り掛かり、結局、全部終わらなかったこともある。だから一度も開いたことのなかったこの国語辞書だって、それを必要としている人の元へ渡って、さぞかし喜んでいるだろうと思っていた。

 陸は思い出し笑いを噛み殺した。親に対して、一生懸命に勉強をしている振りをしていた当時の努力が、急に馬鹿げて思えたからだ。あの頃の時間を取り返せるものなら取り返したい。そして当時の自分に言うのだ――そんなことに力を使わずに素直に勉強しとけ。さもないと、センター当日に単語帳を忘れて超絶焦ることになるぞと。途端に、手汗でしわしわになった答案用紙の感触が指先に思い浮かび、陸は肩をぶるんと震わせて掌をじっと見つめた。

 なぜだろう。今朝は起きてからずっと、妙な緊張感に包まれていた。いや緊張の理由は分かっている。そうではなくて、自分という等身大の着ぐるみの中にいるような不思議な感覚だ。他人の体を借りているような、それを傷つけないよう慎重に操作しているような妙な感覚が続いていた。

 陸はまたページを捲ろうとして、その手を止めた。

「胃腸薬必須じゃない?」

 後方から若い女の声が聞こえてくる。

「下痢止めならあるよ」

 横を見ると、市販薬が陳列された棚の前で、二人の女が話していた。

 大学のキャンパスでよく見る今時の若い女の子だ。どちらも栗色の前髪をふわりとカールさせ、赤い口紅を塗っていた。

「えー、じゃあいらないかなぁ……」

「でもどこで食べるかにもよるよね。ホテルとかなら多分大丈夫だし。屋台は多分、くるね」

「くる? だよねぇ。でも屋台食べたいよねぇ」

「食べたいよねぇ」

「買っとく?」

「買っとく?」

 控えめに意思を確かめ合う二人は、見ているこちらが恥ずかしくなるくらいに仲睦まじい。卒業旅行にでも行くのだろうか。彼女たちは浮かれていた。

「あ、でも待って」

 一人が、前髪を気にしながら言う。

「向こうにコンビニあるのかなぁ?」

 するともう一方の女も、前髪を指先でちょんちょんと弄りながら言った。

「あるらしいよ」

「じゃあ、最悪、コンビニ弁当で」

「でもコンビニ、不味くない?」

「でも安くない?」

「たしかにぃ」

 他愛ない言葉が耳の奥にぴたりと張り付いた。

 そう。確かに、コンビニ弁当は安い――。

 そう考えた途端、突然、陸の頭に得体の知れない不安が広がっていった。

 まるで真空装置の中に迷い込んだような静けさだった。音は聞こえるのに、どこか遠く、自分とは関係のないところで鳴っていた。どくどくという心音だけが頭に響いていた。それは、あの時の槍で胸を突かれたような驚悸とともに、それ以来、漠然と自分を縛り付けてきた愁悶(しゅうもん)をゆっくりと呼び覚ましていく。

(なんでそんなに安いか、知ってる?)

 陸は、そう言おうとして、寸前でそれを飲み込んだ。

 この七年、ずっとそれを引き摺ってきた。それは、船尾にできる引き波のように、絶えず付いて回った。消えたと思っても、前に進み出すとすぐに現れ、立ち止まって振り返ると、音もなく消えていった。眠れない日もあった。外に出れない日もあった。でも――それも今日で終わりだ。

 陸は持っていた辞書をぱたんと閉じた。

 表紙は折れ曲がり、泥で汚れていた。所々、砂利を強く押し当てたような凹みが残り、掠り傷が付いていた。

 陸はそれを足元のバックパックの中に押し込むと、ひょいと背中に担ぎ上げた。それからバックパックの肩ベルトをぐっと握り込むと、顔を上げて出発ゲートに目をやった。

 出発ゲートでは、搭乗カウンターを先頭に、搭乗待ちをする人々の列が見えた。その中ほどで、小柄な男がにこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべて、こちらに向かって手を振っている。

「小泉さーん、早くー。搭乗開始みたいですよぉー」

 男の頭の上、青色の電光掲示板には『ハノイ HANOI』の文字が光って見えた。

 そう。そのために、今日、僕はここに来たんだ。

 陸は男に向かって手を挙げると、ずっしりと重いバックパックを背に、出発ゲートに向かって歩き出した。

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