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Photo by jarmoluk

【第2回】いざベトナム!

 男の名は、増本と言った。

 つい先ほど、一階のチェックインカウンターで会ったばかりだが、人当りがよく、話しやすい印象だった。

 背は低く、全体的にぽっちゃりとしている。夏物の白い半袖シャツに、グレイのスラックスを穿(は)いており、全身から企業人の風格が滲み出ていた。三十代後半だろうか。真ん中でくっきりと分けたさらさらの黒髪に、ぽつぽつと白髪が混じる。髭や揉み上げを綺麗に剃り落とし、大きな鼻に眼鏡をかけた丸顔は、真面目で几帳面なコアラのようだった。

 彼は、釣り雑誌の編集記者をしていると言っていた。荷物チェックインの時に、僕の釣竿を見て、今は生産中止になった古いモデルだと言い当てたことからも釣具に明るい。ロッドやリール、最新のルアーから魚の生態まで非常に詳しかった。専門分野を突き詰めていって、辿り着いた先端に立っているような人なのだろう。搭乗ゲートに着くまでの間、釣り業界の裏話や有名人の逸話など、興味深い話を沢山してくれた。全国各地の湖川を巡ったことがあるらしく、霊鎮湖(りょうぢんこ)のことも知っていたのには驚いた。話好きの彼が隣に座ることを考えると、今から少し気が滅入るが、博識で明朗、気さくで丁寧な振る舞いは好感が持てる――彼は今回の旅の同行者だ。

「ヒデさんは?」

 陸は、増本と列を進みながらきょろきょろと辺りを見回した。

 窓の外には、梅雨とは思えないほどに快晴の空が広がり、それと同じくらいに鮮やかなスカイブルーの機体が止まっていた。円錐型の鼻先が初夏の銀光を反射し、その下を玩具(おもちゃ)のような牽引車が移動していく。巨大なエンジンを吊り下げた主翼の下には、黄色いベストを着た作業員がジオラマ人形のように立ち、コックピットの横には蛇腹の搭乗橋がぴったりと接続されていた。

「ビジネスクラス。自分だけ」

 増本が苦笑しながら飛行機に目をやった。

 実は、今回の旅の同行者はもう一人いる。同行者というよりは発起人か。この旅を企画し、連絡をしてくれたその人は、もう既に搭乗しているらしい。

「さすが自由人」

 陸は増本に笑い返すと、列の先にある搭乗カウンターに目をやった。

 カウンターには日本人の女性スタッフが二名立ち、乗客から受け取った搭乗券を速やかに改札機に読み取らせていた。カウンターの横には、青いベルトのパーティションポールが設置され、その向こう側で、スーツを着た小柄な老紳士が列の進行を静かに見守っている。

「ですね」

 増本はそう言うと、ぱんぱんに膨れ上がったPCバッグを重そうに持ち直して歩き出した。

 陸も増本に続いて歩き出す。そしてどんどんと進んでいく列に並びながら、陸は小学校の給食の時間を思い出していた。

 ――生徒たちがトレイを持って廊下に並び、白衣を着た給食当番が流れ作業で食材をよそっていく。その当番に、ピーマンはいらないとか、スープを多めにしてとか、僕はよく注文を付けていた。そしてトレイを自分の机に運んだ後は、その日休んだ人数を確認する。もちろん、デザートの残り数を知っておくためだ。

 僕のクラスでは、余った食材は全部食べ終えた人から早い者勝ちで取れたから、それが人気のあるデザートだった日には、皆、競うように早く食べていた。皆と言っても、いつも四、五人の決まった男子たちだったが、中には早く食べ過ぎて喉に詰まらせ、トレイの上にリバースした奴もいる。それでもそいつは、最後のデザートを勝ち取ってこう言った。

「プリン、うめぇ」

 完敗だ。僕に嘔吐してまでデザートを勝ち取る気概はない。

 その出来事だけは、今でも鮮明に覚えている。顔も名前も思い出せないが、そいつが最後のプリンを勝ち誇った顔で食べるところだけは覚えていた。

 そいつが、今、どこで何をしているかは分からない。もしかしたら、街ですれ違ってもお互いに気が付かずに生活しているかもしれない。もしかしたら、よく行くラーメン屋で隣に座ってラーメンを啜っているかもしれないし、もしかしたら、今まさにこの列に並んでいて、同じ飛行機でベトナムに行こうとしているかもしれない。

 もしも、今、そいつと話す機会があったら何を話そうか。お前、プリン好きだったよな、とでも言おうか。トレイの上にリバースしたよな、とでも言おうか。そんなこと覚えていないと言われたらどうしようか。お前、変わったなと言われたら、どうしようか……。限りなく狭く小さくなった記憶の断片で、昔の友と語り合うのは難しい。それが、限りなく短い時間しか共有していなかったのなら、尚更のことだ。

「パスポートと搭乗券を用意して進んでくださーい」

 陸は老紳士の声に呼び戻された。

 ジーパンの後ろポケットから、慌てて搭乗券の挟まったパスポートを取り出す。そして先に改札を通り抜けた増本の後を追って、陸も搭乗券とパスポートを女に差し出した。

 女はじっとパスポートを確認し、搭乗券を改札機に読み取らせた。それから「行ってらっしゃいませ」と品良く微笑んだ。女の声に、子供の頃に抱いていたはずの自由奔放な冒険心が、ぽつぽつと頭の中に蘇った。

 いよいよだ。僕はこれからベトナム行きの飛行機に乗る。何はともあれ、これから昔の友に会いに行くのだ。

 陸は高鳴る胸を抑えるようにバックパックの肩ベルトをぐっと握り締めた。そしてパスポートを胸に、増本の後を追ってエコノミーと矢印の示す赤い連絡通路を下っていった。

 一歩を踏み出すごとに、固いトランポリンの上を行くように床が上下していた。左右の窓からは、どこまでも広がる飛行場と先ほどまで自分がいた搭乗ロビーが見えた。ロビーのある建物を『自分が住む世界』、飛行機を『別の世界へと連れて行ってくれる乗り物』とすると、ここはまさに『異世界への通路』ということになる。そういう意味で、海外旅行とは、搭乗前から非現実的な冒険心を内包しているのかもしれない。揺れ動く期待と瑞々しい興奮、それらが交じり合って、海外旅行を特別に魅惑的なものにしてくれているのかもしれなかった。

 搭乗口では、鮮やかな翡翠色(ひすいいろ)のアオザイを着た客室乗務員が出迎えてくれた。髪を頭の上で一つに纏(まと)め、目鼻立ちのはっきりとした美人顔の女だった。彼女は手を前で上品に組むと、行ってらっしゃいませと丁寧にお辞儀をした。すらりと背の高い彼女がそこに立っているだけで、高級レストランに入る前のような緊張感を覚えるのだから不思議だ。予約はしたが、自分がその場に相応(ふさわ)しいかは自信がない、そういう気分だった。陸は女にちょこんと頭を下げると、足早に機内に乗り込んだ。

 

 飛行機の中は、思った以上に広く綺麗だった。座席は三つずつ、三列並んでいる。新しい機体なのか、座席や内装に清潔感があり、早朝の杉林にいるような清々しい匂いがした。

 搭乗券を見ながら座席番号を確認する。

 22K――陸は機内にいた別の客室乗務員に誘導されるがままに、二つある通路の奥の方を進んでいった。

 周りから甲高いベトナム語の会話が聞こえてくる。懐かしく、心地よささえ覚える喧噪だった。周りをざっと見回すと、どうやらベトナム人の方が日本人よりも多そうだった。乗客は少ないと思っていたが、こうして見ると、座席は大方埋まっている。ベトナム人以外にも、声の大きい中国人や体の大きい欧米人、それからどこの国かは分からないが、東南アジア系の顔付きの人々もいた。

 通路を塞いで荷物を棚に上げる太ったおばさんの背後をすり抜けて進む。

「22のK、22のK……」

 そう繰り返しながら行くと、通路の左手に、先を行っていた増本を見つけて陸は立ち止まった。

 増本は三つある席の真ん中に座り、スマートフォンを弄(いじ)っていた。靴を脱ぎ、PCバッグを足元に置いてある。どうやら増本は真ん中、陸は窓際の席のようだった。

「あ、すいません。今、会社にメールしてて」

 増本が顔を上げた。

「ぜんっぜん、大丈夫です」

 陸が明るく笑い、頭上の収納扉を跳ね上げる。増本の隣の人はまだのようで、棚の中は空っぽだった。背負っていたバックパックを棚の奥にぎゅっぎゅっと押し込む。そして増本の前を体を横にすり抜けると、コバルトブルーの座席に静かに腰を下ろした。

 ずっとバックパックを背負っていたせいか、腰に当たる薄い枕が妙に心地良かった。座席はエコノミークラスだが、足回りのスペースには充分な余裕がある。天井も高く、空調も効いていて何も申し分なかった。目の前にはタッチパネル式のパーソナルモニタがあるし、肘掛けには小型のコントローラーが備え付けられているし、これから約六時間の空旅に飽きることはなさそうだ。

 陸はポケットからスマートフォンを取り出した。時刻を確認する。午前九時五十二分だった。十時ちょうどの出発予定だから、このままいけば定時に動き出しそうだ。

 陸はスマートフォンの電源を落とすと、窓から外を眺めた。

 窓の外に飛行機の翼が見えた。何枚ものパネルを繋ぎ合わせて作られたとても大きな翼だった。

 あの翼一つを作るのに、一体どれだけの人が関わっているのだろう。金属を加工し、パネルを製造し、それらを繋ぎ合わせ、形にする。安全に飛ぶために力を計算する人、設計図を引く人、それを製造する人、組み立てる人、出来上がったものをテストする人、それを売り込む人――そういう人たちの名前は、翼に書いていない。映画のエンドロールのように、それに関わった人全員の名前を油性ペンで翼に書いておけば、それを見た人は、自分の命はこんなにも多くの人に支えられているんだと気付くだろうに。もっともそんなことをすれば、翼が真っ黒になって夜間飛行に影響が出るかもしれないが――そんなことを考えていると、増本が言った。

「晴れましたね」

 増本はメールを打ち終えた様子で、手にスマートフォンを握っていた。

「そうですね」

 陸はそう言うと、翼の向こうに広がる明るい水色の空に目をやった。

 彼と初めて会った時も、ちょうどこんな感じの水色の空だった。

 彼は今、どうしているだろうか――。

 周りから聞こえるベトナム語に混じって、彼のベトナム語訛りの陽気な日本語が聞こえてきたような気がして、陸は目を瞑った。

 かさかさとブナの葉が風に揺れる音がした。

 足元でぴちゃりと水が撥ね、遠くでモーターボートのエンジン音が鳴っていた。

 蝉が鳴き、ヒヨドリが鳴く。風がそよぎ、パトカーのサイレンが遠ざかっていった。

 ゆっくりと目を開ける。機内には落ち着いた女性の声で、非常用設備の案内アナウンスが流れ、隣では増本が心配そうに陸を見つめていた。

「大丈夫ですか?」

 甲高いモーター音のような轟音が聞こえ、振動が体を包み込む。窓の外の景色がゆっくりと移動していった。

「え? あ、はい。大丈夫です」

「良かった。海外旅行、初めてだって聞いてたから、気分でも悪くなったのかと思って」

 増本はそう言うと、ほっとしたように笑った。

 翡翠色の客室乗務員が、収納棚の開閉を確認しながら去っていく。

 陸は増本がシートベルトを締めたのを見て、自分もシートベルトをカチリと嵌めた。

 増本が陸に話し掛ける。

「それで、釣りはいつから始めたんですか?」

「兄がバス釣りをしてて。その……、いつからか、もう覚えてないですね」

「へぇ、お兄さんと。お兄さんとは、いくつ離れてるんですか?」

「兄貴は二人いて、一番上は七個、二番目が三個上です。バス釣りをしてたのは、二番目の兄貴ですね。一番上は高校から他県に行ってたから、あんまり遊んだ記憶ないです」

 陸がそう言うと、増本はうんうんと頷きながら言った。

「まあ、そこまで離れてると一緒に遊ばないですよね。僕にも弟いますけど、あまり一緒には遊ばなかったですから」

「何個違いですか?」

「四つです。小学校入ると、もう同年代の友達としか遊ばなくなっちゃって」

「うちもそんな感じです。兄貴の友達の中に無理やり入れてもらってた、みたいな」

 陸が笑うと、増本も同じように笑った。

 なぜだろう。さっきからずっと、小学校の頃の思い出が頭の中を回っていた。一つの記憶を思い出すと、それが次々と別の記憶を掘り起こし、思い出が電車のように連なって頭の中を動いていく。放課後の教室、田んぼの中の通学路、橋の上から眺める緑色の湖――。随分と長い間忘れていた当時の風景がざわざわと色めいたかと思うと、突然、陸の右手に釣り竿の感触が蘇った。

「二人目のお兄さんもやっぱり、釣りが上手だったんですか?」

 右手をぐっと握り込み、窓の外に目をやる。

 水色の空がゆっくりと回転していた。翼に付いたフラップがぱたぱたと動き、遠くに見える白い積乱雲が後ろに流れていった。

 積乱雲――。あの雲は周りの空気を吸い上げる。そうしたらきっと風が強くなって、水面に近い水が動き出す。そうなればきっと、奴らは風表からちょっとずれた岸にへばりつくだろうから、岸すれすれを狙って、ゆっくりと引いてやれば……。

 陸の右手がぴくりと動き、増本が陸の右手に注目した。

 陸は右手を少し持ち上げると、すっと手首を振り下ろした。

 陸の親指が小刻みに上下する。

 懐かしい感覚だ。スポイトで垂らした知恵の塊が、周りに点在する情報の断片を引き寄せながら大きくなっていくような、するすると頭にアイデアが浮かび、それを試すために体が勝手に動き出すような、ぞくぞくして、わくわくして――。

「いや――」

 陸は親指の先をじっと見つめると、にやりと笑った。

「僕のが上手かったですね」

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