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Photo by Engin_Akyurt

【第1回】奇妙なマグロ

 僕には妙な記憶がある。

 良く晴れた夏空の下、犬を散歩している記憶だ。

 頭上を白い綿雲が流れ、前方からは生暖かい風が吹いてくる。左手には大きな川が流れていて、河川敷では少年サッカーの試合が始まったばかりだった。僕は川沿いの土手を歩いているのだが、どういうわけか、足が思うようについてこない。膝から下の感覚がすっぽりと抜け落ちたように、足を出す度に転びそうになるのだ。さながら酩酊した花見客のようだが、頭ははっきりと落ち着いている。地面も傾いていないし、視界も冴えていた。

 僕の右手にはリードが握られている。持ち手の赤いフレキシブルリードだ。リードは前方に真っ直ぐに伸び、時折、ぐいぐいと僕を引っ張る。

 ぴんと張ったリードの先には、小さな犬がいる。黒の柴犬だ。口周りは白く、足元は靴下を履いたように茶色い。眉のところだけ白い毛が生えていて、ぱっと見ただけでは目がどこにあるのか分からない。犬は数メートル先で、耳をぴんと立て、僕を待っていた。

 犬は、僕が進むと嬉しそうに飛び跳ねて先を行き、しばらくすると、また立ち止まる。僕が近づくと、また先へ走っていく。そうやって、早く、早くと、僕を急かす。

 僕は転びそうになりながら走り出す。すると犬も、待ってましたとばかりに走り出す。体をうねらせ、はっはっと舌を出し、犬は勢いの増した夏風のように突き進んでいく。ところが僕は、一生懸命に追いかけるが、息が続かない。そしてとうとう僕は立ち止まる。

「お前に、勝てるわけ、ないだろ」

 息を切らしながらそう言って、僕の側に寄ってきた犬をぐっと抱き寄せる。頭を撫で、首元をくしゃくしゃと搔き乱した。すると犬は、舌を出したままうっとりと目を瞑り、雑草の生い茂る土手の斜面にごろんと横たわる。そして白いお腹を見せて、せがむように僕を見るのだ。その顔がなんとも愛くるしい。僕に対する絶対的な信頼、あるいは恋慕の情さえ感じさせる甘えた顔だった。

 なんて可愛い奴だ――僕は後方に声を張り上げる。

「ねぇ、見て! こいつ、めちゃくちゃ興奮してる!」

 僕の後ろには、なだらかにカーブした土手道が続いている。そこを、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる女の人がいた。

 水色のシャツ。デニムのジーンズ。赤いベースボールキャップから出た長い髪が川風に踊っている。

 僕は仰向けに寝転ぶ犬の腹をさすりながら、気持ち良さそうに目を細める犬に笑いかける。

「これがいいのか? こいつめ。ねぇ、早く!」

 そしてまた彼女に振り返ると、もう彼女はいない。

 その瞬間、ふと僕だけが風に包まれて、犬も、雑草も、川も、空も、何もかもが色褪せて、暗く、薄く、消えていく。夢だか願望だかよく分からない、なんだかちょっぴり寂しくなる記憶だ。犬に引っ張られて走り出すところから、彼女がいなくなったその瞬間まで――たったそれだけの記憶だが、まるで壁に掛けられた思い出の写真を順々に眺めていくように鮮明な記憶だった。明るい空、優しい風、愛嬌のある犬と物静かな女。なんて穏やかな世界だろうか。その中に僕もいる。妙だと言ったのはそのためだ。そんな平和な世界なんてありえないし、僕にはそもそも、そんな犬を飼ったこともない。川沿いの土手なんて歩いたこともないし、まして僕に、親しい異性の知り合いもいない。

 

 僕を解離性現実障害だと言う人がいる。

 仮想現実の世界と現実の世界がごちゃまぜになって、自分が今、どちらの世界にいるのか、分からなくなってしまった人たちのことだ。

 仮想現実と聞くと、コンピューターグラフィックで描かれた三次元の世界を思い浮かべる人もいるかもしれないが、実際は夢に近い。眠っている時に見る、あの『夢』だ。空を飛ぶ夢、放課後の教室で友人と話す夢、何かに追いかけられて必死に逃げ回る夢――夢は、それを見ている間は、それが夢だって気が付かないくらいにリアルだ。それと同じで、仮想空間にログインしている間は、手を伸ばす、屈む、飛ぶといった体の反射から、楽しい、怖いといった感情の起伏まで、驚くほどリアルに再現される。もちろん、使用するギアの値段や種類にもよるが、家電量販店で安売りされている安価なヘッドギアセットでも、いわゆる夢見心地は体験できる。夢と違うのは、仮想空間の中にいる自分という意識があることと、ギアを外した後もそれを覚えているということくらいか。

 そういう仮想現実空間が世の中には溢れている。

 遊園地やテーマパークに行けば、好みのキャラクターと一緒に冒険する仮想空間アトラクションがあり、ゲームセンターに行けば、バトルものの仮想現実ゲームがある。ネット上には、エロ系の仮想現実ソフトが大量に転がり、大手のカフェチェーンでは、珈琲を飲みながら世界旅行が楽しめる。一人一ギア持っているのは当たり前で、皆、仕事が終わると、自宅に帰って仮想空間にログインする。帰宅するまで待てずに、仮想空間喫茶でログイン、そのまま泊まっていくビジネスマンだっている。小学生のなりたい職業ランキングでは、それまでずっと一位だった昆虫ハンターを抜いて、仮想現実デザイナーが昨年トップに立った。仮想現実は今や、僕たちの生活の一部なのだ。

 でも仮想現実が僕たちの身近に溢れれば溢れるほど、それに関連した問題も当然起こってくる。

 半年ほど前、コンビニの駐車場で、八十六歳の老婆が若者に刺殺される事件があった。逮捕された若者は、米海兵隊員のコンバットナイフを持ち歩いていたらしい。事件後、メディアは揃って、彼が仮想サバイバルゲーム『サバイバー3』の上位ランキング常駐者だったことを報道した。サバイバー3は、国防軍人用に開発された市街地戦闘プログラムを元に作られた、リアルな対人戦闘ゲームだ。屋内戦、野戦、色々なステージが用意されている。個人で戦う個人モードと、チームで戦う団体モードとあり、プレイヤーは日々どこかのステージで戦っている。そういう世界に毎日ログインしていると、人を殺すことに躊躇いがなくなってしまうのだと専門家は言う。むしろ殺した敵の数でランキングを競う世界なのだから、いかに効率良く殺せるかって、そういう思考回路になってくるらしい。『解離性現実障害』――この言葉が世に溢れるきっかけとなった事件だ。

 逮捕された若者が、本当に解離性現実障害だったかどうか、僕には分からない。でももし報道されたように、二十四時間、三百六十五日、彼がずっと仮想空間の中で戦っていたとしたら、彼は何かしらの問題を抱えていたに違いない。食事中も、排泄中も、ずっとヘッドギアをつけたまま、汗や皮脂でぎとぎとになった頭が蒸れて痒くなっても、脳の中心が、脳内に数匹の火蟻を飼っているみたいにちくちく痛み出しても、彼自身が仮想空間にいることを選んでいたとしたら、この現実社会のどこかに、問題があるんだと思う。

 彼がヘッドギアを取った時、何を思ったんだろう?

 ふと現実に戻り、籠もっていた自分の部屋を見渡した時、何を感じたんだろう……?

 道端では今日も、誰かが喚き散らしている。電車では女の人が護身用にスタンガンを携帯し、バスでは高齢者が赤子を外へ放り出す。解体されることのない廃ビルでは、一日中銃声が木霊し、建設工事が止まったままの空き地では、日夜改造車のレースが繰り返される。街にはごみが溢れ、落書きが残る。コンビニ、ファミレス、スーパーマーケット、どこに行っても、人の声を模した何か別の物と話をし、家に帰ればそれぞれがそれぞれに好きな仮想空間にログインする。路地裏で老人が殴られていても、若者が廃人のように横たわっていても、誰も見向きもしない。電車の中で女の子が犯されていても、駅前でがりがりの男の子が物乞いをしていても、誰も気に留めない。

 この喪失感はなんだろう?

 この無力感は、一体、なんなんだろう……。

 僕のことを解離性現実障害だと言う人は、きっと何も分かっていない。

 新しい言葉を、さも知ったように話す人たちは、その言葉の本当に意味するところを知らない。

 僕らのことを『現実世界に上手く適応できない悲惨な人』と思っている人たちは、問題の本質が見えていない。問題は僕らが解離性現実障害かどうかではない。それが、誰もが掛かり得る怖い病気かどうかでもない。問題はもっと、ずっと深いところにある。

 

 

「おい、寝てんのか?」

 マスク越しのくぐもり声が掛かって、僕は意識を引っ張られた。

 手にはたも網を持ち、目の前には生簀があった。薄暗い体育館のようなだだっ広い場所に、長方形の生簀が十数個並んでいた。一つ一つの生簀は、人が十人、並んで足を延ばせるくらいの大きさで、黒く透き通った水面がぽこぽこと白い泡を立てていた。天井には剥き出しの配水管が張り巡らされ、それぞれの生簀の上で白い蛍光灯が水面を照らしている。声が響くほど静かで、何となく肌寒い、整然とした印象の場所だった。

「ぼうっとしてんじゃねえよ!」

 二度目の怒声に、僕はたも網を握り締めた。アルミ製のたも網はやけに軽い。両手には手袋を嵌め、足にはビニルの長靴を履いていた。

 隣には中年の男が立っていた。頭は綺麗に禿げ上がり、口元には立派な髭を蓄えている。背はそれほど高くなく痩せていた。大きめの作業服が余計にそう見せているのかもしれないが、全体的に骨々しく、華奢な印象は拭えない。

「ほら、早く掬えって!」

 彼の名前は萩谷真。先月からここで一緒に試験を担当している僕の同僚だ。もっとも、彼は僕よりもうんと年が上だから、僕にとっては同僚というよりも、親戚の叔父さんみたいな存在になる。僕には親戚がいないから想像でしかないが、きっと叔父さんって、彼みたいに乱暴で、威圧的で、それでいてちょっぴり優しくて、根っこの部分でなんとなく僕と似ているところがあるんだろうと思う。

 僕は網を水中に差し込んで、生簀を泳ぎ回る魚に目を凝らした。

 五〇センチくらいのクロマグロが水中をゆっくりと進んでいた。悠々と尾びれを振り、壁の手前でくるりと魚体を返す様はまるで鯉のようだ。僕が狙いを定めて網をそっと近づけると、そいつは突然スピードを上げて泳ぎ出した。ぷっくりと太った体をしならせて、一気に生簀の反対側まで逃げていく。僕の前には、水面のうねりだけが残った。

「下手糞! 貸してみろ」

 今度は萩谷さんが網を持つ。網を水中に差し入れ、じっと息を潜めていた。

 魚は生簀に五、六匹泳いでいて、萩谷さんはそのうちの一匹がこちらに寄ってくるのを待っていた。やがて、さっきよりも小振りの奴が壁沿いにゆっくりと近づいてくる。萩谷さんは、その落ち窪んだ目で水面のうねりを睨みつけると、魚目掛けて、ふんと気張って網を持ち上げた。

 網の中で小さなマグロが元気よく暴れる。冷たい水しぶきが僕の頬に当たり、僕は安堵の笑みを漏らした。

「ハゲタニさん……、さすが!」

「おまえ、その呼び方やめろ。この辺がそわそわすんだよ」

 萩谷さんはそう言って頭を指すと、網を持って奥の試験台に向かっていった。

 ここは第三試験棟、水産課試験室――。

 萩谷さんと僕は、ここでクロマグロの発育調査を担当している。生殖細胞のDNAを操作したマグロを育てて、世代ごとの変化を観察するのが目的だ。ここの生簀にいるマグロは第三世代。見た目は普通のマグロだが、皆がよく知るマグロではない。なぜなら彼らは泳ぐことをやめたからだ。自然界にいるマグロは、鱒や鯉のように自力で鰓を動かすことはできない。だから口を開けたまま泳ぐことで鰓に海水を通して呼吸しているわけだが、この生簀にいるマグロ達はじっと水中に浮かんでいる。止まったままでも鰓呼吸ができるようにDNAを改変したからだ。

「ヨンジュウ……、二センチ。筋肉の発達が鈍っているな……」

 萩谷さんが言った。萩谷さんはこう見えて、生物物理学の博士号を持っている。博識で頭の切れる人だ。元々は研究棟にいた人だが、若い上司と肌が合わないらしく、自ら試験室に下りてきた。彼曰く、「若い奴は礼儀を知らない」そうだ。

 萩谷さんは試験台の上で暴れるマグロを嬉しそうに押さえていた。口からホースで海水を流し込み、まるで飼い犬でも撫でるように何度も魚体を撫でている。マグロも不思議と落ち着いて、気持ち良さそうに尾びれを揺らしていた。

 萩谷さんはきっと、こういう泥臭いことが好きなんだと思う。ああやって目で見て、鼻で嗅いで、自分の手で実際に触れてみて、そうやって疑問を解決していくのが好きなんだと思う。言ってみれば、萩谷さんは自然界のマグロだ。広大な外洋を縦横無尽にビュンビュン切り裂いて突き進んでいく。餌を求め、酸素を求め、常に泳ぎ続ける。萩谷さんがここに来たのはきっとそういう理由からだと思う。AIによる作業の効率化、徹底した分業、組織化された労働、そういう管理された職場が合わなかった。そしてそれらに何の疑問も持たないで、ただ働くだけの人達に飽き飽きしていたんだろうと思う。

「鱗が立ってきてる。触ってみろ」

 僕も言われて試験台の上の魚体に触れてみる。魚体を撫でると、ざらざらとした感触が手袋の下から伝わってきた。確かに筋肉に弾力はなく、指で押すと、ぶよぶよしている。

「これじゃあ、マグロじゃねえよな……」

 そう言いながら、萩谷さんは魚体から血液を採取していた。

 僕が働いている会社『スマートジェネティクスジャパン』は、遺伝子操作によって、様々な農作物や家畜に品種改良を行っている企業だ。元々は医薬品の製造・販売を行う製薬会社だったそうだが、アメリカの製薬会社『スマートジェネティクス』に買収されてからは、遺伝子操作の分野でマーケットシェアの六割を占める大企業に成長した。殺虫剤に強いキャベツ、熱帯でも育つ林檎、一メートルを超える鶏――エスジーと聞いて知らない人はいない。このマグロもそう。いずれスーパーの鮮魚コーナーに並ぶことになる。より安全で、より高品質。育てやすく、病気に強い。そういう『優れた』モノを人工的に作り出している企業、それが僕の会社だ。

「おまえ、今日、定時か?」

 萩谷さんが言った。

「はい。あ、今日、三時から面談あるんで抜けますけど、いいですか?」

 萩谷さんは魚を水槽に移し終え、採取した血液を遠心分離器にセットしていた。

「面談?」

 スタートボタンを押して、不思議そうに顔を上げる。

「月一の定期面談です」

「なんだそれ?」

「GMCは皆受けるんですよ」

 僕がそう言うと、萩谷さんは、あぁと分かったような顔をした。GMCとは、ジェネティカリーマニピュレイティドチャイルドの略、つまり遺伝子操作された子供という意味だ。

 そう、僕もここで生まれた。

 より安全で、より高品質。育てやすく、病気に強い――そういう優れた『モノ』の一つだ。

 言ってみれば、僕はそこの水槽の中のマグロと変わらない。水槽の中でじっと鰓を動かし、恨めしそうにこちらを眺めている、奇妙なマグロと何も変わらない。

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