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Photo by Santa3

【第1回】妙な記憶

 私には妙な記憶がある。

 どこまでも広がる青空の下、広大なヨーロッパ庭園の中を歩いている記憶だ。

 左手には、十六世紀初頭のカントリーハウスのような立派な邸宅がそびえ、右手には、正確に刈り揃えられた緑の植え込みが真っ直ぐに伸びる。腰ほどの高さの植え込みは、直角に曲がったり、円弧を描いてカーブしたり、まるで迷路の中を行くように私を導き、私はそれらの植え込みが模る、美しい幾何学的模様に心を奪われながらゆっくりと歩を進める。さながら中世ヨーロッパのお姫様のような気分だが、日傘もドレスもない。強い日差しが帽子の上から頭皮を焦がし、ブラウスがしっとりと汗で濡れていた。

 私の隣には、年配の紳士がいる。

 年は六十代くらいだろうか。ぼさぼさの髪は白く、右頬に一円玉くらいの染みがあった。伸びに伸びた眉は黒く、年代物の古めかしい眼鏡の縁に掛かっている。背は私と同じくらい。背筋は伸び、若々しかったが、歩くのが遅かった。

 老紳士は時折立ち止まって、植え込みを眺めたり、空を見上げたりしていた。

 だから私も立ち止まって、老紳士をじっと待つ。すると、老紳士が言った。

「予測は記憶、記憶は知識――」

 しばらく植え込みを見つめ、それからゆっくりとこちらへ振り返る。

「何も知らなければ予測はできない。予測ができなければ、君にとっての問題は解決できない」

 老紳士はそう言うと、なにか偉大な知略でも秘めたような慧眼で私を見た。

「いいかい、君が『問題』だと思っているものは、その問題の表面でしかない。問題の真の原因というのは、いつもミクロの世界にあるからだ」

 そして植え込みに目を戻し、そこから一枚の葉をちぎり取る。

 そっと開いた老紳士の手の中で、瑞々しい黄緑色の若葉がきらりと光った。

「たとえば、この植え込み。実に整然としていて、とても綺麗だ。どこまでも真っすぐで無駄がない。ここの植え込みは、毎朝九時に、ここの使用人が伸びた芽を狩り揃えているからね。でももし、使用人が一日でも仕事をさぼれば、この植え込みはたちまち、完璧な美と規律を失うだろう……」

 どこからか、陽気な鳥のさえずりが聞こえてくる。頭上から、焼けるような日差しが照り付け、腕が痛痒かった。

「もっとミクロの話をしよう。こっちへ来なさい」

 老紳士は私に背を向け、のそりのそりと庭園の奥へ進んでいく。

 じゃり、じゃりっと、老紳士の足音を追って、私も後をついていくと、広々とした広場に出た。周囲を植え込みに囲まれた見事なまでに左右対称の広場だ。広場の中心には、小さな正方形の池があり、その真ん中で二メートルくらいの噴水が噴き出していた。

「たとえば、この噴水。ずっと水が噴き出ているが、池から水が溢れることはない。どうしてかな?」

 老紳士は池の縁に腰を下ろすと、私を試すようにじっと見上げた。物言いは穏やかだが、間違えてはいけない、私にそう思わせるような厳格さが目の奥に宿っていた。

「同じ量の水を排水しているからでは?」

 私は言う。

「その通りだね。この池は今、定常状態にある。では仮に、この池に毎日、カップ一杯のコーヒーを入れ続けたとしよう。池の魚たちはカフェイン中毒になるかな?」

「カップ一杯程度ではならないでしょう」

 私が言うと、老紳士はにこりと口元を緩ませ、頷いた。

「ここで問題となってくるのは、水中のカフェイン濃度だ。毎日、水を入れ替えている池では、『カップ一杯程度では問題にならない』、そうだろうね。ではもし、排出口が詰まっていたら、どうだろう?」

 そう言って、今度は池の中を覗き込む。

 それで私も池を覗き込むと、底まで光が差し込むほど透き通った水の中を、小さな魚の群れがつうっと横切った。

「あっ」と、思わず声が漏れる。

 想像していたよりも、ずっと小さい魚だった。あの大きさならば、群れの中の一匹くらいは、カフェインに反応しやすい個体がいてもおかしくはない、そう思った。もちろん、池の排出が滞っていて、水中のカフェイン濃度が日に日に高くなっているという前提で――。

「可能性はあります」

 私は言った。

「魚にカフェイン中毒というものがあるのかは知りませんが……」

 すると老紳士は、水中をじっと見つめたまま、嬉しそうにうんうんと頷いた。

「そう。それが、予測。でも『問題』はまだ、解決されていない」

「問題? というと……?」

「水中からカフェインを完全に取り除くことはできない。カフェイン濃度は日に日に高くなっていく。結果、水中の魚が異常行動をし出す可能性が高まる。これが問題だ」

「異常な魚だけ、別の水槽に移し替えれば良いのでは?」

「隔離すると?」

「ええ、『隔離』という言葉が適切かは分かりませんが……」

「また異常な魚が現れたら?」

「また別の水槽に移し替えるだけです。この池の水量に、カップ一杯のコーヒーなんて、高が知れています。中毒になると言っても、数匹でしょう」

 私が言うと、老紳士は急に口元を引き締め、難色を眉間に刻んだ。そしてその厳しい表情のまま、私から水中へと再び目を戻す。

「良い『予測』だ。でも君は、予測の『先』に目を向けなければならない。言っただろう。予測は記憶。記憶は知識……」

 そう言うと、老紳士はおもむろに水の中へ手を入れた。

「つまりこの状況で、君がすべきことは――」

 そう言いながら、ゆっくりと手を引き抜く。

 老紳士の指先には、濡れてくたくたになった一枚の落ち葉があった。

「――排出口に溜まった葉を取り除くことになる」

 その瞬間、私は身動きが取れなくなって、老紳士も、彼の手の中にある葉っぱも、池も、植え込みも、何もかもがつむじ風に包まれて、高く、小さく、天へと消えていく。夢だか、神の御告げだか、よく分からない、なんだか少し寓意的な記憶だ。素敵なヨーロッパ庭園の中を、見知らぬ老紳士と歩くところから始まって、彼が私に、濡れた一枚の葉を見せたその瞬間まで――たったそれだけの記憶だが、東の空にぽつんと浮かぶ明けの明星のようにはっきりと頭に残っていた。

 妙だと言ったのはそのためだ。

 つい数秒前に何をしようとしていたかさえ思い出せない私に、こんなに鮮明な記憶はありえない。

 もしかしたら記憶じゃないのかもしれない。だって私はそもそも理数系の人間ではないし、定常状態だとか、カフェイン濃度だとかに詳しくない。広大なヨーロッパ庭園なんか知らないし、大学に行ったことのない私に理数系の知識を教示してくれる、心優しい老紳士の知り合いなんているはずもない。

 もしかしたら夢なのかもしれない。

 もしかしたら、前世の記憶なのかもしれない。

 前世とか輪転とか、宗教的なことはよく分からないけれど、こうして『問題』が起きている時に、この映像が頭の中に蘇ったのは、誰かが私に、何かを伝えようとしているからなのかもしれない。

 きっとそう。そうに違いない。この記憶には、『意味』があるのだ。

 

 予測は記憶。記憶は知識。

 予測は記憶。記憶は知識……。

 予測は記憶。記憶は……。

 

「巻さん、これ、見てください」

 ふと、足もとで自分を呼ぶ声がして、私は我に返った。

 ぼつぼつと不気味な音が鳴っている。

 音は不規則に調子を刻み、時折、ざあっと砂嵐のような音に掻き消された。

 雨だ。激しい雨が降っている。

 見上げると、頭上をブルーシートが覆っていた。ブルーシートは木と木の間にロープで吊るされ、地面に設置された照明に下から照らされて、青く透き通っていた。

 吸い込まれるほど遠い青。

 見たこともないほど透き通った青――その青い天井に、また、ぼつぼつっと雨が当たる。

「ここです。この胸のところ……」

 マスク越しの曇り声が聞こえて、青い視界が一気に広がった。

 夜の雑木林。

 樹木は濡れている。

 地面には落ち葉が溜まり、落ち葉も濡れていた。

 強烈な照明が暗闇を突き抜ける。

 ブルーシートで覆われたテントの中、斜面から突き出た一本の大木の根元に、人が集まっていた。

 皆、頭まですっぽりと覆われた青い防護服を着て、口元にはマスク、手には白い手袋を嵌めている。写真を撮る者、薬品を樹幹に塗る者、懐中電灯で地面を照らす者、それぞれが黙々と動いていた。彼らの背中には『警視庁』の黒い文字が覗く。

「銃創が二つ。ここと、約……、五……、六センチあけて、ここ」

 再び声がして、私は視線を落とした。

 足元に男が屈み、男の前には、老人が仰向けに横たわっていた。

「ちょっと濡れていて分かりにくいですが、衣服が破損、繊維が焦げています。おそらく正面、至近距離からの発砲かと。一応、遺体に付着した射撃残渣の検査はしますが、この雨ですからね……」

 老人は黒のニット帽を被っていた。ニット帽は頭からずれ落ち、凄まじい形相で目を見開いた皺だらけの老顔が覗いている。苦悶に満ちた口は半開き、そこから吐血しているところを見ると、失血性のショック死か……。膝まである紺色のダウンコートは雨を吸い、落ち葉の中に重く沈んでいた。前開きのジッパーは下りていて、中のセーターが覗く。そのセーターもぐっしょりと雨に濡れ、胸元が黒く変色していた。

「巻さん、聞いてますか?」

 指先がじんじんと痺れ出す。

 雨音が耳を塞ぎ、激しい心音が雨の隙間を昇ってきた。

「嘘でしょ?」

 ぼそりと漏らす。

 あり得ない――遺体を見たその瞬間から、ずっとその思いが頭の中を巡っていた。

 目の前の遺体は、おそらく八十代、若く見積もっても、七十代の男性だろう。皮膚が張りを失って頬骨や喉仏に張り付いているし、頬には老斑が点在している。

「ああ……、足も撃たれてますね……」

 地面にひざまずく男は、遺体の足に懐中電灯の光を当てていた。

「本当に、パクなんですか……?」

 私は声を絞り出した。

「間違いないですね、DNAの型が一致しましたから」

「私には、八十代のお爺ちゃんに見えますけど……」

「ええ、僕にも信じられませんが……」

 老人は、落ち葉の上にぐったりと倒れていた。全身雨に濡れ、ぴくりとも動かない。

 意味が分からなかった。

 この老人は、私の知っているパクではない。

 私が知っているのは、もっと若くて、もっと狂気に満ち溢れていて、『お前を殺してやる』とあざ笑うかのような、高慢で冷酷な兵士だ。こんな、追い詰められて助けを請うような、怯えた老人ではない。

「これが、パク・ソンホ……」

 そう呟いた時、耳奥でカチカチッと音がした。それはまるで広大な氷海にゆっくりとひびが入っていくような、頭の中の記憶がゆっくりと色を取り戻していくような――そう――それは、これまでに何度も耳にしたことのある、あの音だった。

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