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Photo by Comfreak

【第1回】強者の論理

 痛くはなかった。

 苦しくもなかった。

 むしろそれらの苦痛を忘れてしまうほど清々しく、落ち着いていた。

 まるで朝露の香る講堂の真ん中で一人ぽつんと椅子に座っているようだった。側面の窓からは目が眩むほどの白光が差し込み、光の筋が幾重にも重なって足元の床を照らしていた。どこからか美しいヴァイオリンの音色が聞こえてきて、その繊細なメロディに思わず目を瞑ってしまいそうだった。

 それは朝陽のあとに遅れて現れた影のようにぽつりぽつりと顔を出す。

 それは誰かが組み上げた瓦礫の隙間から恥ずかしそうにこちらを眺める。

 街路樹に宝石が実り、空にリンゴの群れが舞う。足もとをころころと丸いダイスが転がり、ここにたどり着くまでに、私も一緒に瓦礫を組み上げたことをふと思い出す。

 それは瑞々しい樹木の香り。

 それは物音一つしない厳粛な空気。

 それは薄暗い幻想から滴り落ちた一粒のユーフォリア。

 目を閉じると、眼球の奥で、とくん、とくんと音が聞こえた。

 今にも消え入りそうな儚い音。

 どんどんと広がっていく無常の音。

 

 カチン――。

 

 そしてもう一つ。

 さっきから一定のリズムを刻む機械音。脳の中心に直接響く連綿たる音。

 これのせいで、私は追い出された。

 そしてこれのおかげで、私は全てを理解した。たった今――。

 

 あの時、音が聞こえたの。ポキポキって枝が折れるような音。

 誰かいるんだと思った。私と同じように死に場所を探してるんだと思った。

 そうしたら光が見えた。木と木の間にぼんやりと光るカーテンみたいだった。こっちへ来いって言われてる気がした。

 それで光に向かっていった。そして気が付いたら、朝だった。

 私は道路の端に寝ていた。起き上がると、道路の先に私が乗ってきた車があった。

 スマホを見たらバッテリーが切れてた。死ぬなってことかなと思った。

 私は一度死んでいる。怖くはない。この世に未練も失うものも何もない、そう思っていた。

 

 カチン、カチン。

 

 でも違った。

 私は夢を見ていた。

 とてもリアルで奇妙な夢だった。手を伸ばせば、硝子の硬くて冷たい感覚が指先に宿るような、同時に念じれば、その硝子が薄いゴムのようにへこむような、目の前で起きている奇妙なことが現実としてすっと受け入れられるほど精巧で滑沢な世界だった。

 そこは、暴れ馬のようなエゴとエゴをぶつけ合う、他人なんてどうでもいい世界だった。大切なのは自分のエゴを信じること、そして流れに乗ることだった。そうしないと、すぐにでも居場所を失ってしまう。だから私は戦った。他人を疑い、鎌をかけ、利用した。時には切り捨て、蹂躙した。必死だったし、そうしているうちは誰にも負ける気はしなかった。私にはそれだけの力があるって分かっていたから。

 そうしたら、私は一人になった。

 怖かった。

 失うものは何もないなんて嘘だった。

 だって私は、今でもそれを引きずっている。

 

 カチンッ、カチンッ、カチンッ。

 

 知ってる。私が悪いんだって知ってる。

 私が不適合者だったから。

 私が気付いてしまったから。

 だからあいつがやってきたことも分かってる。

 ごめんなさい……。

 できることなら、もう一度やり直したい。

 もし、赦されるのならば、もう一度、向き合いたい。私自身の過去と、自分の弱さと、そして私の大切な人と、もう一度、しっかりと向き合いたい。

 虫のいい話だってことは分かってる。分かってるよ。

 でも、もう怒りたくない。

 もう、恨みたくないの……。

 

 カチッ、カチッ、カチッ。

 

 ああ、ここに来た時もこの音が鳴っていた。

 だからこの音が消えたら、私はここからいなくなる。

 この意識が途絶えたら……、この世界から、私はいなくなる――。

 

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……。

「――の結果、全ての個体で心拍を確認しています。大きさは平均して約一〇ミリ。頭部が認識できる大きさまで成長しています」

 男の声に掻き消されるように、頭の中で鳴っていた音が消えた。

 等間隔で時を刻む秒針のような機械音――その余韻がまだうっすらと頭に残る。

 あれは何の音だったのか……。思い出そうとしても思い出せない。まるで白昼夢でも見ていたかのように妙な気分だった。

「先週行ったAUGテストでは、改変したターゲット遺伝子にリライトやコピー異常などの変異は見つかっていません。次のテストは来月を予定していますが、当初予想されたほど変換遺伝子群の不適合性は高くないと考えられます。これはおそらく『マカ』が細胞の変異に関わるD10遺伝子をより応答性の高いものに改変したからだと考えられますが――」

 だらだらと長ったらしい説明はまったく頭に入ってこない。それよりも、今、私がここで何をしているのかが知りたかった。

「今日は何日だね?」

 私が言うと、男は「はい?」と困惑顔で聞き返した。

「今日の日付だよ」

「えっと……。二十三日です」

 手に持ったタブレットに指を這わせながら男が答える。

 同時に、私の手元に取り付けられたモニタにも、様々なグラフや数値とともに今日の日付が表示された。

 八月二十三日――。データ採取日のところにはっきりと、そう表示されている。

「八月?」

「はい」

 はて、てっきり九月だと思っていたが、まだ八月だったか……。

 目の前に立つその眼鏡を掛けた男は、なんとも不可解な様子で私を見下ろしていた。

 この男は、たしか……、と数秒前の記憶を手繰り寄せる。

 藤堂――第一生産棟、高度人工胎生技術応用課長――。そこまで思い出した途端、彼の背後にある白い天井灯に意識が移り、周囲の様子がわっと目に飛び込んできた。

 天井灯は一本の長い直線となって煌々と灯っていた。それは扇の中骨のように、扇形の天井を中心に向かって伸びている。扇形の部屋には、パソコンモニタと制御盤が何列にも弧を描いて配置されていた。その制御盤の前には作業員が座り、作業員同士、こちらを見ながらこそこそと何か会話をしている。

 ああ、そうだった……。徐々に記憶が蘇る。

 ここはAVT管理司令室。私は九鬼と一緒にここに来て、『マカ』の発育報告を受けていたんだった。

「それで、いつだね?」

「いつ、というのは?」

「彼らの誕生日だよ」

「来年の四月を予定しています」

「四月か……」

 足にぐっと力を込める――が、どうやっても下腹部にしか力が伝わらない。妙な感覚だった。足に力を入れているつもりが、腹についた脂肪の塊がぷるぷると揺れ動く。まるで足の動かし方を忘れてしまったみたいに、私は何度か息みを繰り返した。するとようやく片方の足が持ち上がる。

「どうされました?」

 背後にいた男がすっと手を差し出した。

 男は黒いスーツを着て私の傍に寄り添うように立っていた。

 ブランド物の高級スーツ。最新のMRグラス。もう一方の手には折り畳んだSN機を持っている。着ている物や身に着けている物はどれも凡人が手にすることのできない高価な洒落物だが、顔は介護を必要とする高齢者だ。七三に分けた髪は絹のように白く、老斑の際立つ頬はぶよぶよと垂れ下がる。眼鏡の奥に覗く目は細く、半開きの口から覗く歯はやけに白く綺麗に並んでいた。

「大丈夫ですか?」

 この男は九鬼清志郎――我が社の取締役の一人だ。

 歳は私より一回り以上若いが、入社年度は私より先。私が入社した頃は、『九鬼さん』などと呼んでいたが、二十年以上経った今は立場が逆転した。彼が私に気を遣ってくれているというのもあるが、彼はその立ち位置を楽しんでいる。人間というのは誰しも、しっくりくる関係性というのはあって、上の方が良い人がいれば、下の方がやり易い人もいる。九鬼は後者だ。いつしか彼は、私のために間を取り持ってくれたり、業務が円滑に進むよう先回りして現場に指示を出してくれたりするようになった。今となっては、私にとって欠かせない片腕のような存在だ。

「大丈夫だ」

 私は九鬼の手を払ってゆっくりと車椅子から立ち上がった。

 膝は微かに震えていたが気にならなかった。それよりも腿や膝裏に感じる、ぴりぴりと毛を引っ張られるような刺激の方が嫌だった。この感覚。この不自然さ。まるで他人の足で歩いているような違和感は、何度やっても慣れるものではない。

 傍にあった手摺りに掴まり、そろりそろりと一段ずつ階段を降りていく。

 こうして歩くのはいつぶりだろうか……。たった数段の段差が果てしなく長い階段に思えた。

 階段を降りた先には巨大な硝子窓があった。縦三メートル、端から端までおよそ十メートルといったところか。まるで水族館にある巨大な展示用水槽のようだった。ただ、硝子の向こうに魚の姿はなく、代わりに飛行機の格納庫のような広大な基地空間が広がっていた。

 一段一段、階段を降りる度にその基地空間の全容が見えてくる。同時にどくどくと、胸が高鳴り出した。それは地上に這い出た灼熱の溶岩のように、静かに、しかし力強く、全身を支配していく。

 わくわくした。こんな年になって、これほどまでにわくわくするとは思わなかった。まるでやることなすことの全てが新しい子供の頃に戻ったような新鮮な期待感だった。分かっている。そこに私が待ち望んだ人類の英知が眠っていることは分かっていた。だからこそ期待に胸が膨らむのだ。

 最後の一段を降り、ゆっくりと硝子窓に近づいていく。

 胸の動悸さえ心地良く感じる恍惚境の中、私は窓から下を見下ろした。

 地上には黒いベルトコンベヤが縦横に走っていた。コンベヤとコンベヤの間には、五十メートルプールが三つあり、その周りをジオラマ人形のような研究員たちが歩き回る。一番奥のプールは空。手前の二つは青い透明の液体で満たされていた。それら青い液体の入ったプールには、バスケットボールくらいの大きさの黒ずんだ球体が無数に沈んでいる。そしてそれらの球体からは、青や緑のケーブルが植物のおしべのようにコンベヤへと伸びていた。

「いよいよか……」

 立っていることを忘れるほどの喜びが胸の鼓動に合わせて湧き上がる。

 過去二十五年間。延べ二十万人を超えるGMCの育成データが集まった遺伝子の最終形。まさに超人と呼ぶに相応しい第七世代ツァラトゥストラ、『マカ』。

 凡人と超人の違いはなにか?

 凡人は与えられた人生をひたすらにこなしていく。考えることを諦め、他者が創り出した流れに便乗する。快適な暮らし、安楽な仲間、安定した職業……。自らの無能さに気付かず、勝手に諦め、勝手に悟り、自らが作り出した虚しさの中で生きていく。

 一方で、超人はすべてを受け入れる。苦悩も、虚しさも、すべてを受け入れる。その上で、自らの欲する欲望に従い、新たな価値を創造する。強くなりたい、賢くなりたい、大金持ちになりたい……。自らの力で苦悩を切り開く。

 プールの中の球体がふわふわと楽しそうに動き回っていた。

 絶対的な強さ。

 完全完璧な美しさ。

 そしてそれらを統合する最高の知能――。

「もうすぐ会えるね」

 その時を想像すると、自然と笑みがこぼれた。涌き出てやまない瑞々しい喜びに圧倒され、感動に体が震えた。これまで乗り越えてきた数々の困難、そして新発見の日々。そういった様々な過去が、一つ一つ、鮮明に頭に蘇った。それは、今まで黒だったものでさえも最終局面で全部白にひっくり返ったような、これまでやってきたことが全部、このために繋がっていたのだと思える至福の自己肯定感だった。

 その昔、人類は全知全能の神を作り出し、崇め、そして帰依してきた。

 しかし今、人類は神になった。

 自分が何者かなんて大したことじゃない。向かうべきは、神がいる世界――。

「アグリテックより先に会見を開けるように準備しておいてくれ」

「承知しました」

 すぐ後ろで九鬼の声がした。

「そうだね、私も今から楽しみで仕方ないよ……」

 プールの中の球体は、どことなく私を探して、健気にその時を待っているように見えた。

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