Photo by debannja
【第10回】枝先に揺れる
白木蓮の花が落ちて、代わりに桜が咲き始めた三月下旬。萩谷の元に、柴崎の血液から作った免疫製剤が治験薬審査委員会を無事に通過したとの一報が入った。吉報を心待ちにしていた萩谷は、水産課試験室の仲間たちと歓声を上げて喜び合った。もちろん、提出した試験結果と抗体サンプルが柴崎の血液から作られたものだとは同僚も薬剤部も知らない。しかしそれで良いのだ。上層部が求めているのは過程ではなく結果である。
さて、出来上がった免疫製剤は早速、地下研に収容されているエス看三名に投与された。
その結果は目を見張るものだった。免疫製剤を投与された三名全てにおいて、エスウイルスの症状が劇的に改善したのである。
まず痰咳が止まった。それから関節の痛みや疲労感を訴えることがなくなった。三名中二名が頻繁に空腹感を訴えるようになり、両者ともに提供した食事を残さずに食べるようになった。それまで完食することのなかった二名が、である。何より興味深いのは、三人ともに共通して発話の回数が増え、表情が見違えるほどに明るくなったことであろう。それらを見る限り、今回の免疫製剤はエスウイルスに対し一定の効果があると言わざるを得なかった。
血液検査の結果も同様の傾向を支持した。リンパ球の数値は基準値内に収まり、自己生成された免疫グロブリンの値も基準値内に戻っていた。各種抗体検査でも異常はなく、血中のウイルス量は陰性レベルまで低下していたのである。その上、投与後の危篤な副作用は見られない、容体も安定している、となると、この結果を元にモノクローナル抗体さえ生成できれば、晴れて待望の治療薬の完成となる。もちろんこれから経過観察を続けていく必要はあるが、他社に先駆けての開発も見えてきて、薬剤部のみならず、地下研の人間たちも歓喜に沸いているようだった。地下研で浮いた存在である有坂でさえそうなのだから、それはもう相当である。
「やりましたね。これでアグリテックより先に出せそうですよ。藤崎さんは本当どこ行っちゃったんすかね? 待望の治療薬ができるっていうのに」
「ああ、そうだな……」
萩谷は電子タバコを口に当てた。
喫煙室の隅に立って水蒸気を吸い込む。しばらく肺に溜め込み、それからゆっくりと煙を吐き出した。
「でもまあ、藤崎さんいなくても、厚労省に顔が効く人は他にもいますからね」
有坂もスパスパと電子タバコをやっている。
「警察はまだ来てんのか?」
「来てますよ」
「なんか進展あったか?」
「さあ……」
有坂はちらりと萩谷を見た。
「症状は改善してんだろ?」
「してますね。ただ、妄想はまだ続いてるみたいです」
「記憶は戻らねえか」
「そうすね。変な記憶が混じってるって言ってますし」
「なんだそれ?」
「知らないお爺さんが出てくるらしいす」
「藤崎さんじゃなくて?」
「じゃなくて、頬っぺたに一円玉くらいの染みがあるって言ってましたね。結構、具体的で」
有坂は笑った。
「過誤記憶か」
「たぶん。まあ脳も老化してるし、症状は良くなったって言っても、老齢化した体は元に戻らないすからね。コルサコフかアルツハイマーか……」
「脳腫瘍の可能性は?」
「調べてないす。でも情緒不安定ではありますね。昨日なんか、どうして私だけって泣いてましたから。次生まれ変わったら普通に生きたいとか……。エモいすよね」
萩谷も笑い飛ばした。それからまたタバコを口にくわえると、煙を吐き出しながら言った。
「有坂、ちょっとお前、頼まれてくれるか?」
「なんすか?」
「D8のサンプル、手に入るか?」
◇
ピピっと音が鳴って、ドアが開錠した。
ドアノブを回してドアを引く。中からカレーの匂いが漂い出して、萩谷は明日の朝食用にパンを買ってきて正解だったと思った。
真っ暗な家の中を忍び足でリビングへと向かう。
リビングの明かりをつけると、コートを脱いでパンと鞄を置いた。
胸を締め付けられるほどの静寂が押し寄せる。周囲の壁がじりじりと押し迫り、気を抜くと、一気に孤独の闇へと連れていかれそうだった。
萩谷は手に持っていた郵便物に目を通した。
一つは銀行からの投資への勧誘、もう一つは消費者金融からの催促状だった。
郵便物をゴミ箱に捨て、テレビ台の上にあったMRグラスを手に取る。隣にあったフィギュアの向きを正すと、ダイニングテーブルの上の置きメモを眺めた。
「夕食 18時30分頃 カレー
カエデはおかわりをしました サクラはまだニンジンが嫌いなようです
就寝 20時頃
トイレ 15時頃、18時頃、就寝前
カエデは一人でできるようになりました サクラは私が傍に必要です 踏み台があると良いです 購入を検討してください」
「踏み台?」
萩谷はぽりぽりと頭をかいた。疲れ果てた頭では、踏み台を何に使うのか、ちっとも想像できない。しかし最後の一文に目をやった時、疲れた頭でもすんなりと理解できた自分に、萩谷は溜息をついた。
「今週中に先月のナニー代が入金されなければ、来月から来ません サラ」
萩谷はMRグラスを外すと、それをテーブルの上にそっと置いた。そしてぼんやりと、壁に飾られた子どもたちの写真を眺めていた。
よく笑う、可愛い子どもたちだ。この子らのためにも、俺はまだ立ち止まるわけにはいかない。
やがて萩谷は、思い出したように鞄から小さな箱を取り出した。
それは縦三〇センチ、横二〇センチほどの図鑑のような冷却装置だった。一定の温度に保ったまま持ち運べる小さな冷蔵庫のような機械だ。
ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、画面上に暗証画像を表示させる。それを箱の中央にある認証モニタに読み込ませると、カチリとロックの外れる音がした。
高価な宝石箱を開くように、ゆっくりと箱の蓋を開いていく。
箱の中には、灰色のウレタンに挟まって、小さな試験管のようなものが一本だけ入っていた。書斎に置いてある、人工胎生制御装置用の外付けコネクタだ。コネクタの中には、有坂から貰ったザインD8が入っている。
萩谷はそれを手の中に握ると、書斎へと向かった。
書斎は薄暗かった。
壁沿いに並んだ本棚。窓際にある机。入ってすぐの壁には、たくさんの賞状が飾られていた。窓からは街灯の明かりが差し込み、机の辺りをぼんやりと明るく照らしている。
萩谷は扉に鍵をかけると、ゆっくりと机に向かっていった。
机の下、青い透明の液体で満たされた水槽の隅に、バランスボールほどの大きさの黒ずんだ物体がごろんと沈んでいる。それはゆっくりと膨らんだり萎んだりしていたが、今にも動きが止まってしまいそうだった。
壁沿いに設置された制御装置の状態モニタに目をやる。ボタンをタップして何度かモニタを切り替えると、心拍数モニタのグラフを見て萩谷は唸った。
「落ちてんな……」
平均心拍数が先週からなだらかに下っていた。弱っている証拠だ。ただ、その他のサイトカイン類に異常は見られない。むしろここまで生きていることが奇跡と言ってもいい。
「よく頑張ったぞ」
萩谷は黒ずんだ物体に向かってそう言うと、コネクタ本体を温めるように両手でぎゅっと包み込んだ。
ひんやりと冷たい金属の感触が両手を伝って肩まで上ってくる。
萩谷は背中をぶるんと震わせると、コネクタを握ったまましばらく水槽の中の物体を眺めていた。
「吐血?」
「はい。萩谷さんに造血幹細胞についてお聞きしたいことがありまして」
あの日、第一生産棟の地下で目にした光景は、この世のものとは思えない凄惨な現場だった。
生産棟の地下に設置された二つの五十メートルプール。プールを満たしているのは、本来であれば透明の青い培養液だが、両方のプールが赤茶色に濁っていた。プールの中には、超人『マカ』が育つバスケットボール大の人工子宮が無数に沈んでいたが、そこでは培養液の中に腰まで浸かった試験員たちがまだ心拍のあるマカとそうでないマカを選り分けていた。ぞっとしたのは、試験員たちが死んだマカをプールサイドに設置されたコンテナの中に次々と放り投げていたことだ。
無慈悲とかそういうことじゃない。まるで悪夢を見ているようだった。あの時、人工子宮の中には新しい生命がたしかに宿っていた。ただの生命じゃない。超人だ。それなのに、試験員たちは誰一人として疑問を抱くことなく、まるでゴミでも捨てるかのように乱暴に投げ入れていた。中には、人工子宮をボールのように投げ合って遊ぶ者もいたくらいだ。それは奥の研究室へ通されるまでのほんの数十秒の間だったが、救いようのない地獄絵図を前に声も出せずに立ち尽くしたことは、生涯忘れることはないだろうと思う。
世間は人情の欠如を嘆く。そして愛情の必要性を説く。
酷い人間だ――言うのは容易い。彼らもまた時代の犠牲者だ――思うのは自由だ。
ただ、俺からすれば世間の倫理はすでに崩壊している。残念なことに、死んだマカをバスケットボールのように投げて遊ぶ若者は今やどこにでもいる。彼らは、自分が対峙しているものが人間だという認識を持っていない。硬い人工子宮の壁の向こうに、ヒトがいるという想像に及ばない。
それがおかしいと考える人間が多数派でなくなったってのはあるだろう。社会が分断された今の時代、主流派というのは存在しない。皆が違って当然で、皆がそれぞれに正義を持っている。
それが間違ったものだと教えてこなかった俺たちの責任だとも言えるかもしれない。対立を恐れて注意してこなかった俺たちの世代が今の社会を作ったとも言えるかもしれない。
俺はしてきた、なんて言うつもりはない。でも俺一人でどうにかなることでもなかっただろうとも思う。結局のところ、俺たちはたくさんある葉の一つでしかないんだ。木の枝に一生懸命にしがみ付いて、雨が降っても、風が吹いても、毎日毎日落ちるものかと歯を食いしばる。それでも周りが枯れ始め、一つ、また一つと落ちていけば、下を見て思うのだ。今この手を離してあの川に落ちたらどれだけ楽だろうかって――。
大久保さん、残念だけど、今の社会に礼節はもう必要ないんだ……。
机の上のパソコンをつける。
暗闇に煌々と灯る画面には、メッセージアプリが立ち上がっていた。
やり取りの相手は『渋川秀人』。萩谷の大学時代の後輩である。
渋川とのやり取りは昨年の十二月から続いていた。ちょうどマカのエス陽性が判明した時期である。
『誰にも見られてないですか?』
『見られてないし破棄の手続きは完了している 満額用意しとけ』
『身体健康上の問題が見つかった場合 十分の一の額になります これにはエス陽性も含まれます』
『問題ない エスは治癒する』
『分かりました 生まれたらまた連絡してください』
プロフィール欄には『アグリテックジャパン情報戦略室所属』とある。
しばらく画面を眺めていた萩谷は、長い溜息を吐き出した。
盗んだわけではない。超人研究における貴重なサンプルを保護したんだ。
自分に強く言い聞かせ、机の上のカレンダーを捲る。
こいつがいれば柴崎なんか必要ない。こいつはこの国、いや人類の歴史を変える可能性を秘めている。カイ以上の逸材だ。
そして『四月十二日』に付いた赤い丸を見つめながらぼそりと呟いた。
「あと二週間……」
顔の前で祈るように外付けコネクタを手の中に包み込む。
俺にはお前を幸せにはできない。だから、お前はお前を必要とする人間のところに行け。
制御装置の外部入力端子の穴に、体温に温められた外付けコネクタをすっと差し込む。そして外部入力端子の取り込み開始ボタンをタップすると、萩谷は水槽の中でぽこぽこと膨らんだり凹んだり動き出すマカをしばらくじっと眺めていた。