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Photo by anaterate

【第9回】現代病

 柴崎には妙な記憶があると言う。

 それはいつも同じ情景から始まる。どこかの河川敷を歩いている情景だ。

 河川敷では少年たちがサッカーをしていて、声が聞こえてくる。柴崎は土手の上を犬と散歩をしているのだが、犬と一緒に歩いていると突然、犬が走り出す。それで柴崎も走り出すと、今度は犬が土手の斜面にごろんと横になる。その姿があまりに可愛いために、柴崎は土手の後方を歩いていた女性に向かって声を張り上げる。見てよ、こんなに可愛いよと。ところがその女性は柴崎が振り返った瞬間に跡形もなく消えてしまう。土手の上を犬と一緒に歩いている情景から、振り返って女性が消える瞬間までの短くも鮮明な記憶。どこにでもある日常の記憶だ。これのどこが妙かと言うと、これだけ鮮明にそれをした記憶が残っているのに、柴崎自身はそんなところに行ったこともなければ、その場所がどこにあるかも分からない点だ。自分は犬を飼ったことさえないと柴崎は言う。

 約一年前、コンビニの駐車場で、八十六歳の老婆が若者に刺殺される事件があった。凶器は米海兵隊員のコンバットナイフ。逮捕された若者は、仮想サバイバルゲームの上位ランキング常駐者だった。『解離性現実障害』――この言葉が有名になった事件だが、厚労省の患者調査によると、解離性現実障害者の数は年々増え続けている。仮想現実技術が発達した現代における現代病と言っても差し支えないだろう。

 解離性現実障害――またはDRD――は、ある経験が現実に起こったことなのか、仮想空間で起こったことなのかの区別がつかない病気だ。日本精神医学会によれば、うつ病の一種とも定義されている。

 解離性現実障害を発症する要因は様々ある。VRゲームのやり過ぎだとか、ある特定のサプリメントだとか、あるいはそれに頼らざるを得ない不規則な生活だとか色々と言われているが、現時点では、幼少期の心的トラウマが根本的な原因だとする説が有力である。その人が抱える心的トラウマから逃れるために、現実とは別の世界に新たな自分を作り出す。そこでは何でも自分の思い通りに物事が進む。しかし現実にはそのように事が進んでいないため、周囲との間に摩擦が生じる。結果として、傷付いた自分を守るために、目の前の現実を自分が慣れ親しんだ別の世界と認識し始める。自分がおかしいのではない、周りがおかしいのだ、そう思い込むようになる。その際、ありもしない記憶を作り上げたりもするようだ。過誤記憶――まさに柴崎が言う『妙な記憶』そのものである。

 ここに解離性現実障害と特定の遺伝子における発現率の関係を調べた興味深い実験結果がある。

 アランティアのアクラム博士によると、解離性現実障害者三〇〇人を対象とした実験において、約八割の被験者にPDE4B遺伝子のメチル化が認められたようだ。遺伝子のメチル化は遺伝子の発現を抑制する。PDE4B遺伝子は、主に不安症や緊張症の緩和と問題解決能力の向上を目的に改変される遺伝子であるが、この遺伝子の働きが抑制されると、過去の心的トラウマを追体験しやすくなる。超人も例外ではない。そしてこのような状態にある人間の脳内ではセロトニン量が低下し、気分が落ち込んだり、やる気が起きなかったり、鬱に近い状態になることも知られている。本来の能力を十分に発揮できる精神状態にはないということだ。

 もし、この研究結果が正しいとすれば、柴崎が解離性現実障害を発症している可能性は高い。柴崎もPDE4Bを改変されたGMCだからだ。そしてもし解離性現実障害を発症した結果、脳内のセロトニン量が減少し、鬱状態になっているのだとすれば、柴崎の超人としての能力が発現しないのも頷ける。つまり彼に超人としての能力がないわけじゃない。それを十分に発揮できる精神状態にないだけなのだ。そしてもしそうであるならば、彼の超人能力を開花させるためには、彼の解離性現実障害を治療するのが先決であろう。

「まだ痛い?」

 早見は壁に掛かった大きなモニタに話しかけた。

 画面には服を捲り上げた腹部が映っている。腹は肋骨が浮き上がるほど痩せていて、左の脇腹には円形に盛り上がったどす黒い銃創痕が残っていた。

「はい。でも前よりはだいぶ楽になりました」

 モニタから柴崎の落ち着いた声が聞こえてくる。

「ベッドから普通に起き上がれるようになりましたし」

 そう言ってカメラから遠ざかる。カメラはベッドに横になる柴崎を映し、モニタの中で、柴崎はごろんと横に回転してベッドから起き上がっていた。

 思った以上に回復が早い――それが傷跡を見た早見の第一印象である。

「前に話していた妙な記憶はどうなった? もう見ない?」

「最近は見ないですね。でも時々、自分が自分じゃないみたいに感じるというか……。僕、前世で女の人だったんじゃないかって」

 柴崎は困ったような表情を浮かべていた。

「女の人?」

「はい。時々、僕の中にもう一人いるような気がして、それが女の人に感じるというか、何て言うか、説明するのは難しいんですけど……」

「君の中にもう一人、別の人間がいるんだね?」

「分からないですけど、そう感じる時はあります」

「それが女性なんじゃないかと君は疑っているわけだ」

「そうです」

「それは妙な記憶に出てくる女の人?」

「分かりません」

「一応確認するけど、犬を飼ったことも、土手を歩いたこともないんだよね?」

「ないです」

 柴崎はそう言うと、カメラをじっと見つめてからすっと視線を落とした。そして俯いたまま、ぼそぼそと不安そうに言う。

「やっぱり、僕、解離性現実障害なんですかね?」

 早見には柴崎が困惑しているのがよく分かった。原因が分からないうちは誰もが不安だ。しかし原因が分かり、対処法が見つかれば、少なからず希望が見えてくる。

「僕が見た限り、君は現実と仮想空間、しっかりと区別が付いているように思うけどね」

 早見は柴崎を安心させようとした。しかし柴崎はそう簡単に安心する人間ではない。彼の心のずっと奥深いところに複雑に絡まり合った警戒の鎖は切ることも解くこともできない。自分ではどうすることもできないし、まして他人である早見には触れることさえできないのである。

「でもたまに、現実なのに仮想空間の中にいるような感覚はありますよ」

「へぇ……。どんな感覚?」

「少し先の未来が見えるというか、これから何が起こるか読めてしまうというか……」

「たまたま、ではなくて?」

「いやそれがだいたい当たるんですよ。今まではそれが当たり続けるのが怖くて、あえて見ないようにしてきたというか、あまり考えないようにしてきたんですけど……」

「なるほど……」

 早見は確信した。柴崎は解離性現実障害の一歩手前にいる、できるだけ早く治療に取り組んだ方が良いだろうと。

「オキトコス、試してみるかい?」

 早見が言うと、柴崎はゆっくりと顔を上げた。

 今現在、治療法の一つとしてもっとも有効と考えられているものに、オキトコスがある。オキトコスは、脳下垂体から分泌されるペプチドホルモン『オキシトシン』を含む薬剤で、体内のオキシトシン受容体を刺激し、活性化させる効果がある。ただオキシトシンは、幸福感の増加やリラックス効果が期待される一方で、血圧の低下、呼吸困難、女性であれば子宮の過強収縮や過強陣痛など注意しなければならない副作用は多い。また仲間意識が強化されるため、自分とは違う集団に対し排他的な言動を取り易くなるという側面も、今の時代では自分に不利に働くことがある。

 それでも試さないよりは試した方が良いだろうと早見は考えた。なぜなら彼は超人だからである。それもただの超人ではない。エスジーが長い年月と大金をかけて取り組み、待ち望んだ『心を持つ』超人だ。今年に入って母を失った早見にとっては、人生の支えそのものでもあった。

「DRDのお薬だよ。西田君にも聞いてみるけど、君が望むのであれば一、二週間試してみるのも手だよ。どうする?」

 すると柴崎はしばらく考えていた。俯いてじっと考え込むその様子からは、気が進まないのが伝わってくる。

「効果がなさそうだったら止めればいい」

「はい……」

「西田君に聞いてみないと分からないけど、来週中には届くと思うから。用法をよく読んで服用して」

「はい」

「それから今週分の検査キットは僕の住所の方に送って」

「はい」

「じゃ、また来週」

 早見が切ろうとすると、柴崎が言った。

「なんだかまた面談してるみたいですね」

 柴崎は少し嬉しそうに微笑んでいた。

「そうだね」

 早見はそう言うと、すっと目を逸らし、通話を切った。

 

 

 三月も中旬に差し掛かったある日、萩谷は試験員の一人から十四番の生簀のマグロが元気だとの報告を受けた。生簀を見に行くと、十四番のマグロだけが水しぶきを上げて生簀の中を泳ぎ回っていた。水面を波立たせて、まるで興奮しているかのように泳ぎ回るマグロは、他の生簀にいるマグロと比べてみても確かに活性が高かった。水温や大気圧、時間帯はどの生簀も同じ条件である。違いと言えば、生簀に注入した試験薬くらいしか思いつかない。

 萩谷たちは試しに一匹を掬いあげて試験台で観察した。すると筋肉は硬く引き締まっていた。身は鮮やかな赤色をしていて、鱗も立っていなかった。通常、エスウイルスに感染したマグロは一、二週間で鱗が立ってくる。

「どういうことだ?」

「さあ……」

「試験薬は何番だ?」

「D5のままです」

「D5? お前ら、生簀の中、入れ替えてないのか?」

「すいません、忘れてました」

 萩谷は舌を鳴らした。若者たちの出来の悪さにはいつまで経っても体が慣れない。

「ったく、誰が担当だ?」

「D5は……、柴崎さんすね」

「柴崎?」

 萩谷がそう言った時だった。試験室の奥にある壁沿いに並んだ用具棚、その戸を開けて中を見ていた若者が萩谷を呼んだ。

「谷さん! ちょっと来てください!」

 萩谷たちが見に行くと、若者の手には検体保存用のジャーが握られていた。ジャーの中にはホルマリン漬けされたマグロの検体が入っている。ところがその切り身が赤い。他のジャーに入った検体はどれもどす黒く濁っているのに、一つだけ鮮やかな赤色をしていた。

「いつのだ?」

「一月二十二日になってますね。担当者は――、柴崎さんです」

「なに?」

 萩谷は若者からジャーを受け取ると、底に沈んだ真っ赤な検体をまじまじと眺めた。

「あいつ、何をした?」

 効いている。どういうわけか、ザインD5がエスウイルスに効いていた。

「製薬部に連絡しろ」

「はい!」

 

 

 後の精密検査により、このマグロにおけるエスウイルス固有のたんぱく質の量は極端に低いことが確認された。鰓の上皮細胞、背部の筋細胞、どこを見てもそうだった。驚いたことに、生簀番号十四番にいた全てのマグロがエスウイルスに打ち勝っていたのである。

 萩谷は興奮を隠さなかった。ついにエスウイルスに効く治療薬を見つけたと大いに喜んだ。しかしその喜びも束の間、萩谷は小さくない疑問にぶつかった。ジャーに入った切り身にも効果が確認されていたからだ。ジャーには治療薬を入れていない。入っているのは、マグロ用の特殊なホルマリン溶液だけである。

 萩谷はホルマリン溶液を調べた。すると、効果のあったジャーのホルマリン溶液に、ヒト由来のエスウイルス抗体が微弱に含まれていることが分かった。

 あいつだ、柴崎しかいない――。

 萩谷が早見に連絡したのは、それから間もなくのことだった。

 

「もしもし、早見さん? 柴崎と連絡は取れますか?」

 萩谷は開口一番そう言った。

「どうしたの?」

「早見さん、あなたは正しかった」

「萩谷さん、落ち着いて。どうしたの?」

「柴崎はすでに超人かもしれない」

「萩谷さん、落ち着いて。僕に分かるように説明して」

 萩谷はスマートフォンを持ち直すと、自らを落ち着けるようにゆっくりと説明を始めた。

「先日、エスに感染させた淡水マグロが元気に泳ぎ回っていたんです。調べてみたら、TGISの量が百を切ってました。ほぼ陰性です。ただ、マグロたちに効果があったのはザインではなくて、ヒト由来のエス抗体でした」

 早見は黙って聞いていたが、受話口からは荒い鼻息が聞こえてきた。興奮は伝播する。

「ヒト由来のエス抗体?」

「おそらく柴崎です。あいつの唾液か血液か分かりませんが、それが混入してエスに作用したんだと思います」

「それはすごい……」

「ええ、あいつは超人としての能力をすでに発現しているのかもしれません」

「うん。そうか。そうなんだね……」

 早見は喜んでいたが、何か考えている様子だった。

「どうしました?」

「うん、GMC能力診断では、まだ超人としての能力を確認できていなんだ。毒耐性も、痛み耐性も、まだ完全に発現しているわけではないんだよ」

「そうですか……」

 萩谷は唸った。遺伝子レベルでの発現を確信していた萩谷にとっては期待外れの情報である。

「何かが彼本来の力を抑えていることは確かなんだけどね……」

 早見も残念そうだった。声に力がない。

「まだ血液サンプルは残っていますか? あればこちらに送って欲しいんですが」

 萩谷が言うと、早見は「あぁ……」と言ってから黙り込んだ。

「どうしました?」

「それがね、柴崎君の血液検査をしたんだけどね……。彼はエス陽性だった」

 萩谷の周りで一瞬、時が止まる。

 風が止み、木々のざわめきが消えた。

 エスウイルス陽性――それは暴走を意味する。

「陽性? それは本当ですか?」

「二回やって二回とも。でも今のところ無症状なんだ。本人の自覚もない。きっとあなたが言ったように抗体を持っているんでしょう」

「暴走は? 暴れたりしてないんですか?」

「安心して。彼はカイとは違う」

 萩谷はほっと息をついた。柴崎よりも周りを心配してのことだった。幸い、柴崎にカイのような肉体的、生物学的な怪力はない。暴れたとしても、建物を破壊するようなことはないだろう。そうなると、今必要なのは柴崎の血液だ。エス陽性で無症状なんて聞いたことがない。つまりそれだけ強力な抗体を持っていることになる。何としてでも手に入れたい。柴崎の血があれば、マカを助けることができる。萩谷は結論を急いだ。

「MASを試してみてもいいですよ」

 ほんの数秒、沈黙が割り込んだ。

「本当かい?」

「ええ。できる限りのことはします。その代わり、ヤツの血液サンプルを送っていただけますか?」

 また数秒、今度は戸惑いが紛れ込む。

「分かった。僕もできる限りやってみよう」

「ありがとうございます。サンプルは水産課の第三試験棟管理室宛てに送ってください。匿名で構いません。もちろん会社にも言いません」

 通話を切った萩谷は口元を手で覆うと、胸に込み上げる喜びを隠すようにゆっくりと髭を撫で下ろした。

 第三試験棟と第四試験棟の間にある休憩所からは、空に向かって大きく花を開く白木蓮の木が見えた。幾つかの花弁はいかにも咲き終わりといった感じで萎れ、花弁の先が茶色くなっている。それでも強風に飛ばされないよう必死に枝にしがみ付いている様は、書斎の水槽で必死に生きようと動き続けるマカの姿と重なった。

 大丈夫だ。血液サンプルがあれば、免疫製剤は二週間ほどでできる。

 萩谷は休憩所のベンチから立ち上がると、スマートフォンをポケットに滑り込ませて第三試験棟へと戻っていった。

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