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Photo by Copilot

【第8回】青い目のゴリラ

 JR品川線地下通路。3番出口付近。

 目の前には、正方形のトンネルが真っ直ぐに続いていた。

 トンネル内は暖かく、日中の湿気が籠もる。半乾きの雑巾のような臭いが漂い、歩いているだけで汗を掻いた。

 天井の蛍光灯は頼りなく、時折、チカチカと点滅を繰り返していた。タイルの敷き詰められた白壁は薄黒く汚れ、所々穴が開いたように壁のタイルが抜け落ちる。改札付近では賑やかに流れていたデジタルサイネージも出口に近づくにつれてその数を減らし、前を歩く人の姿も徐々に減っていった。時刻は夜の十時前。この時間帯になると、駅の利用者はぐっと減る。

 がらんとした地下通路に、コツン、コツンと革靴の足音が響きわたる。

 ゆっくりとした足取り。一歩ずつ足元を確かめるように慎重に歩を進めている。

 コツン、コツン、コツン――。

 黒いニット帽に黒いマスク。灰色のコートは襟が立っていた。

 薄紫色の丸眼鏡。口元には野武士のような逞しい白髭が垂れ下がる。特別に背が高いわけでも、低いわけでもない。太っているわけでも、痩せているわけでもない。ごく普通のどこにでもいる老人だが、背筋は伸び、目つきは異様に鋭かった。

 コツン、コツン――。

 その老人が今、足を止める。それから数歩遅れて、背後の足音もぴたりと止まった。

「俺になにか用か?」

 老人が振り返ると、十メートルほど離れた位置に、柄の悪そうな若者が二人立っていた。帽子とマスクで顔を隠しているが、その耳にはSEP――スマートイヤーポッド――が嵌めてあり、ぼそぼそと小声で話している。すると何秒もしないうちに、奥の階段の方から複数人の足音が聞こえてきた。挟み撃ちだ。しかし老人は落ち着いている。老人は周囲に目をやると、逃げるわけでも、助けを呼ぶわけでもなく、掛けていた丸眼鏡のテンプル部分にそっと指を当てた。

「こんな時間に一人で歩いてたら危ないよ、お爺ちゃん」

 若者たちはにたにたと薄ら笑いを浮かべている。前に二人、後ろに二人。腕っぷしの強そうな若者たちはゆっくりと近づいて、老人の前後を取り囲んだ。彼らは武器こそ持っていないが、言うことを聞かなければ暴行するぞ、まさにそういう危険な雰囲気である。

「誰だ、お前ら」

「カミナリだよ。老人狩り専門部隊。ニュースで俺らのこと、ちょっとくらい知ってんだろ?」

 カミナリというのは、社会に居場所をなくした若いGMCの集団である。高齢者を襲って金を巻き上げたり、違法薬物を密売したり、遺伝子詐欺から強盗事件まで手広く犯罪に関わっているため、世間一般からは反社会的犯罪者集団として認知されている。

「カミナリ? ジュッポンは?」

「は?」

 ジュッポンというのは、カミナリ内で『十本筒』と呼ばれる狩りの道具だ。陸上競技のバトンのような形をしていて、対象を狩る際には必ずジュッポンでとどめを刺さなければならない決まりになっている。カミナリなら知らない人間はいない基本の道具だ。

「どこのクアリだ?」

「クアリ? 何言っちゃってんのこいつ。カミナリだっつってんだろ! 早くカネ出せ、ボケ老害!」

 若者の一人が老人のコートの襟をぐっと掴んだ。それでも老人はやはり慌てる様子もなく、コートのポケットにすっと手を入れる。とそこへ、遠くから声が掛かった。

「どうした?」

 見ると、後方から小柄な男がゆっくりと近づいていた。

 男は黒いパーカーのフードを頭から被り、ポケットに手を入れたまま悠々と歩いていた。背は低く、体の線は細い。頭からフードを被っているために顔の上半分は見えないが、綺麗な鼻筋に血色の悪い青紫色の唇は、美しい女性を見ているような中性的な顔を思わせた。その華奢な体つきからは、この男が一人来たところで状況が改善するとは到底思えないが、老人は男を見ると、何やら安心した様子で男に向かって声を張り上げた。

「こいつら、カミナリだって」

 老人のわざとらしい大声が地下道に響き渡る。どうやら二人は知り合いのようだ。

「へえ、どこのクアリ?」

 男はつかつかと近づいてくるなり、老人の襟をつかむ者の手を取って無理やりに引き離した。

 直後、若者はまるでコートがハンガーから落ちるようにすとんとその場にしゃがみ込む。若者はよほど痛いのか声も出せずに悶えていた。するとそれを見た周りの仲間たちは、この男の異様な雰囲気を感じ取って少しずつ距離を取り始めた。

「おい! お前、ジジイの味方すんのか!」

 しかし男はまるで気にする様子もなく、しゃがんでいた若者の体を易々と片手で持ち上げる。若者の体は一瞬で男の頭よりも上に持ち上がり、若者は空中で手足をばたばたと慌てふためいていた。異常な光景だった。若者の体重は少なくとも六〇キロはある。それを男は片手で悠々と持ち上げているのである。さすがに周りにいた若者たちもざわつき出した。と次の瞬間、男は持ち上げた若者を軽々と投げ飛ばす。

「俺たちに構うな」

 男の小さな体からは想像もつかない力だった。

 若者たちは声も出せずに立ち尽くし、しんと静まり返った地下道に、投げ飛ばされた若者のうめき声だけが響いた。

「行こう」

 男が老人の肩に手をやる。と、老人はようやくコートのポケットから手を出した。

「自業自得だ、バカ野郎」

 老人が吐き捨て、男と老人、二人は若者たちに背を向ける。

「おい、待て! 俺の連れ、怪我させといて逃げんのか? 慰謝料払え、慰謝料! 二十万だ!」

 二人は笑いながら3番出口へと並んで歩き出した。

 

 

 視界の隅をファストフードの青いネオン灯が過ぎていく。

 ラーメン屋の路上サイネージが過ぎ、紙袋に入ったポテトの匂いが鼻先を通り過ぎた。

 日曜の夜十時。繁華街の裏手を歩く人は少ない。

 コンビニの前に集まる若者たち。路地裏のゴミを漁る物乞いの姿。通りを走る車はなく、無人タクシーがたまに通り過ぎるくらいだった。レストラン、バー、深夜営業の店は開いているが、中を覗いても席はがらがらに空いている。

「一瞬、クマさんのところかと思ったよ」

 細く入り組んだ路地を歩きながら、老人はコートのポケットから薬剤ボトルを取り出した。

 黄緑色の小さなボトル。蓋を開けて中から白い錠剤を一つ取り出すと、老人はそれをぽいっと口の中に入れた。がりがりと歯で噛み潰す音がする。

 この老人は葉山健太郎――通称『ケン』――MG産のGMCである。得意分野は算術と論理。どちらもA判定の記憶系GMCだ。ケンがMGのラボで誕生したのは今から二十三年前のことで、実年齢で言えば二十三歳だが、現在は六十代の容姿と肉体をしている。エスウイルスに感染したためだ。そのためケンはこの薬剤ボトルを持ち歩き、毎日欠かさずに飲んでいた。ボトルの中身はブレインフード。数種類の脳細胞活性化物質から作られており、その主成分には老化の進行を抑えると言われている『テロミアン』が含まれていた。

「俺たちが生きてるのを知ってるのは、カズトモしかいない。あいつらには釘をさしてある。大丈夫だ」

 そう言ったのはサム。元カミナリのノード――喉、つまりグループをまとめるリーダーの一人――だ。先日、とある物を巡って、カミナリの別グループに樹海の山中に埋められた。運よく土中から抜け出すことはできたが、誰も二人が抜け出たことを知らない。二人はカミナリ内で死んだものとして扱われていた。

 ではそのカミナリから消された二人が何をしているかと言うと、二人は『アヤンクマル』なる人物を探している。

 アヤンクマルはVRネット上の架空の人物である。何か大きな事件が起きた時に、それが迷宮入りしたり、いつの間にかニュースにもならなくなったりすると必ず挙がる名前だ。「あれはアヤンクマルの仕業だ」、「犯人はアヤンクマル」、そういう使われ方をする。現在は面白がって使う人間が増えたせいで都市伝説の範疇を超えないが、サムは実在する人物だと考えていた。

 それを証明する一本の動画がある。

『ついにとらえた! アヤンクマルの正体!』――そう題された動画は、ビルの一階にあるショーウィンドウから始まる。時刻はおそらく深夜。周囲を歩く人はない。ショーウィンドウは街灯の明かりを反射しており、そのショーウィンドウの前に人が一人立っていた。距離が遠すぎて男か女かは分からない。おそらく離れたビル陰から隠し撮りしたものであろう。画面は揺れ、何度も暗転していた。最初の十数秒は何も起きない。ただ十数秒後、その人物が目の前の硝子にすっと手を伸ばすと、差し出した手を中心に、硝子がまるで柔らかい膜か何かのように円形に凹んでいく、そういう動画だ。

 この動画を有名にしたオキドッカー『カズトモチャンネル』のカズトモらによると、この動画はフェイクではないらしい。動画ファイルにAIを使った痕跡がないのはもちろん、編集された跡もない。SN機やMRグラスと同様のコンパクトデジカメで撮った映像のようだった。ただカズトモらもこの動画の詳細は知らされていない。彼らは知人からこの動画を紹介されてオキドキに上げただけで、動画の入手経路や撮影者などの詳細は把握していなかったのである。

 もしこれがフェイクでないとすると、この動画に映っている人物は、本当に硬い硝子を割らずに綺麗な円形に凹ませたことになる。そしてその事実こそが、この人物をアヤンクマルたらしめた。なぜなら、アヤンクマルには不思議な力があると考えられるからだ。物を消したり、物を変形させたり、この世界に存在する物理法則を無視して物事を変える力をアヤンクマルは持っている、サムはそう信じていた。こういうことを言うと、大抵の人は「そんなことはあり得ない」、「馬鹿馬鹿しい」と取り合わない。しかしサムはそう信じるに足る根拠を持っている。

「カズトモは何か言ってたか?」

「いやまだ連絡はないな。元々は覇王のファンルームで公開されてた動画らしいけど」

「覇王?」

「プロのゲーマーだよ。企業案件いっぱい抱えてる人気のゲーマー。俺もよく知らんかったけど、ファンルームまであるらしい」

「へえ」

「プライベートルームで違法動画交換してんだろ、たぶん。鍵かけちゃえば警察も入れないし」

「覇王が撮影したのか?」

「まだ分からん。今、最初に公開した人物を特定作業中だって。バハムートのランカーらしいことは分かってるって」

「バハムートって?」

「バハムート聖戦記。知らない?」

「知らない」

「VRゲームだよ。ま、とにかく、その辺は今から会うヤツ次第だ。そいつが撮影者を知ってる可能性もある」

「そうだな」

 二人は裏通りを突き当たりまで行くと、やがて見えてきたファミレスの階段を上っていった。

 

 

「ご来店ありがとうございます」

 店に入ると、聞き慣れたAI音声が流れた。

 ここはファミレス『ジェイズ』、都心部を中心に全国展開するレストランチェーンだ。ファミリーレストランという形態を取ってはいるが、今や顧客の大半は個人客である。二〇五〇年代に〇・二を割った合計特殊出生率は、その後も低下の一途を辿り、現在は〇・一近くまで下がっている。そもそも若者が結婚をしなくなったこの国では、家族の概念さえ薄らいでいる。そうなると、飲食店側も顧客層を個人に変更せざるを得ず、AIシステムの導入や調理・配膳の自動化が進んでいた。そういう意味では、もはや『ファミレス』ではないのだが、半世紀前の言葉だけが今も残っている。

 店内には小型のベルトコンベアーが四つ流れており、その両脇に四人掛けのソファテーブルが並んでいた。

 ざっと見渡してみても客の姿は少ない。所々に老人が一人で座っているくらいで、店内に小さな音で流れる流行りのヒットソングが耳に残るほど静かだった。そんな中、一番手前の窓際のソファ席に座る男の姿が目に留まる。男は白いダウンジャケットを着て、黒いキャップを被っていた。

「まさか東共会の罠じゃないよな」

「あり得る。ネイもそれで引っ掛かった」

「でもあんたがいれば問題なし。だろ?」

 ケンとサムは男に近づいていった。すると男は二人に気付いて顔を上げた。

 目深に被ったキャップの下から、青い目が覗く。眉間が前に張り出していて、青い目のゴリラのようだった。キャップの下からは金色の短髪が無造作に飛び出している。年にして三十代くらいか。男は二人よりも年上に見える。

「タケポーンいちななユーナユーナ?」

 ケンが言うと、男はチッと舌打ちをした。

「伸ばすな」

 一言だけ告げて手元のパンケーキを口に運ぶ。右手はテーブルの下に下ろしたまま、左手だけで手づかみで食べていた。

 二人は顔を見合わせた。

 パンケーキを持つ男の左手が震えている。よく見ると、白いダウンの右肩や袖など、所々が赤黒く汚れていた。

「タケポン?」

「タケでいい」

 男はそう言うと、くちゃくちゃと音を立ててパンケーキを口にしていた。

 カズトモが撮影者の特定作業を行っている間、サムとケンも動画のコメント欄をチェックしていた。何千とあるコメントの中に何か手がかりになるものはないかと思ってのことだったが、その中に一つ気になるコメントがあった。

『マークンブレブレカスデジマ』

 音声入力したと思われる短いコメント。ほとんどのコメントが動画の内容に言及していたのに対し、このコメントは撮影の仕方に言及していた。『ブレブレ』というのがそれだ。実際、動画は小刻みに揺れていたし、一定の間隔で暗くなっていた。『カスデジマ』は反対から読むと分かりやすい。そうなると最初の『マークン』と言うのは撮影者の名前と思われた。つまりこれを書き込んだ人物は撮影者を知っていることになる。

「このコメント書いたのはあんた?」

 男と向き合うように、窓際にサム、通路側にケンが並んで座る。

 男はケンの差し出したSN機を覗き込むと、険しい表情でケンを見た。

「俺だね」

 そう言ってから大きく咳き込む。口の中のパンケーキがテーブルの上に飛び散った。

 食べ方が汚い。まるで腹をすかした物乞いのようだ。

「この動画撮った奴、知ってんの?」

「俺の知り合いが撮った動画だよ」

「知り合い? 今ここに呼べる?」

「無理」

「なんで?」

「死んだ」

 二人は顔を見合わせた。撮影者が死んだというのなら、動画に映っている人物について聞くことは叶わない。

 どうする?

 二人が思い迷っていると、男がいきなり手のひらを突き出した。

 パンケーキに塗れた薄汚れた手。それが乱暴に情報料を要求する。

「五万。早く出せ」

「今、現金持ってないんだ」

「五万だ。爺さん、約束は守るもんだって、親に教わらなかったのか?」

 その瞬間、男の目つきが変わった。ケンをじっと睨み付けたまま、差し出した左手をすっと腰の裏に持っていく。

「一万ならある」

 サムが言った。いや止めたと言うべきか。

「もしこの動画に映っている奴の居場所を教えるなら、あとで十万出す」

 すると男は腰裏に回した手をゆっくりと戻し、今度はサムをじっと見つめた。

 恐ろしいほどに据った青い目がサムの両目を捉える。

 もちろんその程度で尻込みすることはないが、ファミレスで面倒は起こしたくない。サムは男に金を渡した。

「映ってる奴は知らね」

 男は金を受け取ると、テーブルに左手をついて、体を支えるようにゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がった男は背が高かった。首が太く、肩幅も大きかったから、話していた時からある程度の想像はついていたが、そこまで大きいとは二人とも思っていなかった。そして筋肉の盛り上がった腿にぴたりと張り付いたデニムが汚れている。腿の裏側には穴が開き、その穴を中心に黒い染みが広がっていた。

「おい、あいつ……」

 警戒し始めた二人を残して、男は赤いスニーカーを引きずって店を出ていく。

「ああ、撃たれてるな」

「それもだけど、あいつの腰、見ろ」

 ケンの視線の先には、白いダウンの外側にはみ出して、腰の後ろに十本筒が刺さっていた。

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