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Photo by buikhoan24

【第7回】メシア

 通話を切った早見は、すうと鼻から溜息を吐き出した。

 書籍棚に囲まれた薄暗い部屋。窓際の机に座って窓の外をぼうっと眺める。

 堅い木机の表面に爪をこんこんと立てながら、早見はつい先ほど西田と話したことを思い出していた。柴崎に電話をかける前のことだ。

「腹部の傷は塞がったよ。あと二、三週間もすれば、普通に歩けるようになると思うよ。感染症の心配もない」

「ニシ、ありがとう」

「いいんだよ。年を取るとね、何も無くたって若者を助けたくなるもんだ。この国の将来を作っていく若者だって思うと、どうしてもね。体が勝手に動いちゃう」

「彼もきっと君に感謝しているよ」

「うん。ただね……」

 ほんの数秒、わずかな沈黙が入り込む。

「血液検査の結果、彼は陽性だった」

 早見はまた、鼻から勢いよく息を吐き出した。

 窓の外に崩壊した寺の土塀が見える。歩道には瓦や塀の一部が積み重なり、歩行者の通行を塞いでいた。寺を継ぐ者がいないのか、管理者が知らないだけか、土壁は境内にある木が倒れて真っ二つに割れたまま残っていた。

「まずいことになった……」

 早見はくるりと椅子を回すと、背後の壁に掛かった大きなモニタの電源を入れた。

 テレビ機能を選択し、チャンネルを切り替えていく。

「十四日現在の累計感染者数です。今週に入って二万人を超えたということですけれども、広尾さん、この数字、どうご覧になりますか?」

「これ、二万人を超えたことも怖いんですけど、二万人が感染して、その中で一人も回復した例がないというのが怖いですよね。一度感染したら終わりというか、そういう状況でやっぱり、いち早い治療薬の開発が待たれるところなのかなと思いますね」

 三月十四日時点での累計感染者数は二〇七六一人。累計死者数は七一〇一人。そのうちGMCの割合が九十七パーセント。エスウイルスは、一度陽性になれば老化が始まって、やがて息を引き取る。例外はない。

 早見は机の上にあった薄いぺらぺらの冊子を手に取った。西田から受け取った柴崎のGMC能力診断結果である。

 冊子をぱらぱらと捲っていく。

 トクシックテスト、B判定。

 ペイングラムプロ、C+判定。

 セルフリペアリング、B+判定。

 毒耐性、痛み耐性、自己修復機能、どれも通常の基準値よりは上という程度の中途半端な結果だった。この結果だけを見れば、とても超人とは呼べない。

 まだ発現前と考えるべきか――。

 それとも、彼の能力を抑えつけている何かがあると考えるべきか……。

 血液検査の結果だけを見れば、彼は腹部の傷以外に身体的な不具合を有していない。GMC能力診断の遺伝子項目でも同様に特に目立った数値はない。そうなると、彼の内的、精神的な何かが彼の超人能力を抑えていると考えるほかない。

(会いに、行きたいんです……。母親に……。シンガポール……)

 目を潤ませて願望とも覚悟ともとれる言葉を発した柴崎の憔悴した顔が頭に浮かぶ。

 早見はまた胸を締め付けられたように感じ、手に持っていた冊子を机の上に投げ置いた。

 深く息を吐き出して窓の外をぼんやりと眺める。

(俺が知る限り、幼少期に能力がまったく発現しなければ、それが途中から突然発現するなんてことはありえない)

 それともやはり、萩谷が言うように柴崎は失敗作なのだろうか……。

 ではなぜ、柴崎はあのような致命的な傷から回復できたのだろうか?

 もちろん偶然が重なった可能性はある。我々が付与した遺伝子とは別に、ベースとなる遺伝子にすでに修復機能を強化する遺伝子が存在していた、そう考えることもできる。

 あるいはTN5遺伝子の効果か。TN5遺伝子は我々が付与したものだが、異常細胞の増殖を抑制する。それが免疫系に効いて回復を助けたと言えなくもない。TN5遺伝子を持っているのは、超人の中でも柴崎だけだ。柴崎よりも前の超人の時には、TN5遺伝子を安全に組み込む技術がなかったし、柴崎よりも後に生まれた超人たちは、より免疫系を強化したD10遺伝子に置き換えられている。しかしその改良されたD10遺伝子を持つマカでさえ、エスウイルスに感染して突然死した。対して、さっき話した感じでは柴崎に自覚症状はない。この違いは何だろうか?

 今の時点でTN5遺伝子がエスに効いているとは言い切れない。様々な複合的な要因があるだろう。ただ事実として、柴崎はエスウイルスを抑えている。何らかの方法でエスウイルスに対抗している。

 非常に興味深い……。

 もしこれが事実だとすれば、TN5はエスウイルスへの特効薬となりうるかもしれない。

 早見の中の研究者としての血が騒ぎ出した。

 今後起こり得る最悪の事態は何か? それは、柴崎のエス発症だ。今の状態から免疫レベルが落ちれば、発症する可能性は十分にあるだろう。食事。睡眠。心的ストレス。免疫系に影響のある物事は避けるべきだ――。

 ふと気を緩ませると、背後のモニタから女の声が聞こえてきた。

「篠田さんはいかがですか?」

「私はね、ずっと申し上げてきました。今に見ててご覧なさい、この世紀末のような世界から我々を救ってくれるメシアが必ず現れますよと」

「メシア?」

 昼時の情報番組のようなスタジオで、進行役の女性は明らかに困惑した表情を浮かべていた。

「あの、ちょっと話がズレてしまって、今はエスウイルスの話を――」

「話を聞きなさい。ウイルスも同じなんです。メシアというのはね、皆さん、誤解している方が多いんですけれども、我々と同じ人間なんです。姿形は我々とまったく同じなんですが、中身は神の化身です。神の化身というのはどういうことかと申しますと――」

 高圧的な態度で話をしているのは、平和等民党代表の篠田正幸だ。

「お話の途中、すみません。長田さん、累計死者数、七一〇一人。そのうちGMCの割合が九十七%と、大変高い数値が――」

「あのね、まだ話は終わってないんです。あのね、いいですか? メシアは全てを知っているということなんです。過去も未来も知っています。これから我々がどう進んでいくべきかももちろん知っています。ですから、メシアが再臨された際には、このような議論も必要ありません。皆さんはメシアの言うことを聞くだけでいいんです」

 女性は絶句し、直後、番組はコマーシャルへと切り替わった。

 老害、老害と騒がれて半世紀。彼ら彼女らはいつの時代も一定数存在する。

 早見はふうと短い溜息を吐いた。

 平等党代表、篠田正幸――メシア待望論を掲げるとんでもない政治家だとは知っていたが、これで痴呆でないというのだから中々の曲者だ。

 早見は外の景色に目をやると、また爪をこんこんと机の表面に打ち付けた。

 柴崎君には、エス陽性のことは黙っておいた方が良いだろう。無用な不安を抱かせて、彼自身の免疫レベルを落とすようなことがあってはならない。それに、話し方や聞き方にも注意しないといけないだろう。彼にとっては私も老害の一人なのだから。

 窓の外に崩壊した寺の土塀が見える。

 ビエンチャンだったら、すぐに人が集まって修復しようとするだろう。誰かが倒木を持ち上げ、誰かが歩道の瓦を片付ける。そうしているうちに通行人たちがどんどんと集まって、自然と協力して、完璧とはいかないまでも元の姿に戻そうとするだろう。

 しかし私は今、それをどこか他人事のように自分の家の窓から眺めている。

 お前は日本人になってしまった――か。

 そうかもしれない。私はラオスを捨てて日本人になった。もうラオスには戻れない。

 母上、どうかお許しください。

 あなたの最後に立ち会えなかった私をどうか、どうか赦してください。

 早見は崩壊した土壁に向かって手を合わせると、目を瞑って仏に祈りを捧げた。

 

 

 エスジー本社ビルからそれほど離れていない場所にある平等党本部ビル。その四階にある代表執務室に篠田正幸はいた。

 下ろしたてのスーツ。七三で分けた黒髪は生え際が白い。目尻や眉間、口元に皺はあるものの、肌は若々しく清楚であった。その面長な顔と特徴的な垂れ目は一見すると優しそうだが、眉はきりっと上がり、口を閉じていると気難しそうな印象を与える。篠田は今年六十六歳、緑寿を迎えた。

「アグリテックジャパン」

 窓際の机に置かれた小さな会議用モニタ。そこにアグリテックジャパンの株式情報が表示される。

「エスジージャパン」

 次にエスジージャパンの株式情報が表示された。

 その下、関連ニュースに表示された共同記者会見の動画をタップする。すると、先月十八日に行われたエスジーとアグリテックの業務提携記者会見の映像が流れ出した。モニタにエスジージャパン代表取締役の池谷尚文の顔が映る。

「超能力遺伝子の研究開発、これは我々の使命でもあり、長年の願いでもありました――」

 長々と話し続ける池谷の声が意識の向こう側へ遠く掠れていく。

「エスジー一強の時代は終わった。これからは、我々とアランティアの時代だ」

 そう言った篠田の目には、燃えたぎる炎のような野心が宿っていた。

 

 その昔、唐沢と呼ばれる男がいた。

 外見はごく普通の会社員で、特段に目立った印象もなかった。強いて言うならば、よれよれでぶかぶかのスーツを着ていたことくらいか。撫で肩で、猫背で、彼と初めて会った時に幸が薄い印象を持ったことはいまだに覚えている。しかし彼は周りから『神』と呼ばれていた。

 彼は常人にはできない超能力を持っていると噂されていた。何もないところから紙幣を取り出したり、物を消したりできるようだった。彼が硝子を曲げる動画は有名で、今でもVRネット上で拡散され続けている。彼の能力を実際に見た人間の中には「手品だ」と言う者もいたが、私の興味を惹いたのは、彼が言ったとされている「別の世界から来た」という言葉だった。

 私は彼をここに呼んだ。神に会ってみたかったからだ。ところが彼がこの執務室に入ってきた時の印象は、先ほど言った通り、『神』という言葉からは程遠いものだった。

 私は、彼が本物かどうか試す意味も込めて、彼に噂されている超能力を見せて欲しいと頼んだ。すると彼は、応接机の上にあったペットボトルをおもむろに手に取って、それから我々の目の前で中に入っていた水を一瞬で砂金に変えた。

 もちろん我々は、中の砂金を取り出して本物かどうか確かめた。それは手のひらにのせるとずっしりと重たくて、テーブルに溢すとカラカラと転がった。信じられなかった。水が金に変わるなんて誰が想像するだろうか。その場にいた全員が彼は本物だと思った。私自身も彼は本物の神だと思った。ところが彼は、それを平然と否定した。

「神? 俺は神ではない。あなた達を作り出した神はここにはいない。こことは別の世界にいる」

「別の世界……。どうやったらその世界に行けるか、教えてくれませんか?」

「俺にも分からない。ただ、俺以外にもその世界を知っている人間はいる。二人だ。富田さんとその教え子。名前は忘れた。富田さんを探すのが手っ取り早い」

「富田さん?」

「そうだ。ナンヤンテックだ。シンガポールの西部に富田さんの大学がある。そこに行けば何か分かるかもしれない」

 彼はそう言ったが、シンガポールの西部にそんな大学は存在しない。そこは昔ナイリーズのデータセンターがあった場所で、今は軍の演習地区になっていた。しかもそこの地区は、ナイリーズのサーバー事故が起こって以来、誰も入っていない呪われた土地と噂されている。

「サーバー事故? そんなはずはない」

 彼は信じられないといった様子で驚いていた。

「事故はいつ起こったんですか?」

「二〇二三年十一月二十二日です」

「二十三年? コロナがあった年だ!」

「コロナ? コロナって何ですか?」

 この時初めて、私は彼が別の世界から来た人間だと信じる気になった。我々は新型コロナウイルスを知らなかったのだ。この国の政界に長く在籍し、政界だけでなく、経済界、軍部、芸能界、あらゆる分野に人脈を持つ我々の誰一人として、彼の説明することに思い当たる節もなければ、そういうことがあったという事実さえ知らなかった。そして後に、我々はその年にあった東京オリンピックさえも知らなかったことが判明する。

 彼は言った。

「もしかして、サーバー事故がきっかけでこの世界が生まれたんじゃないですか? そしてもしそれが本当なら、サーバー事故以前の出来事、たとえばコロナとかオリンピックとか、それを知っている人を見つけられれば……」

「見つけられれば?」

「それが富田さんだ。でもそんなこと無理だ。一人一人聞くわけにもいかないし、他人の頭の中を覗くことなんてできない……」

 しかし我々は幸運だった。

「要するに、その記憶を探せばいいんですね?」

 今の時代、記憶なら簡単に手に入る。

「君津さんに連絡して」

 

「――競い合う時代は終わりました。これからは手を取り合って助け合う時代です。「笑顔のあふれる社会」、「個性を認め合える社会」、この協業で、そのような社会が実現できると確信――」

 突然、池谷の顔が消え、会議用モニタが青くなった。

 青い画面に着信のマークが点滅し、『村中遼蔵』の名前が表示される。篠田は『応答』をタップした。

 モニタに白髪の老人が映る。老人は目が離れていて、アルパカのような愛嬌のある顔をしていた。顔中に深い皺があるものの、肌はテカテカと日に焼けて健康的に見える。

「どうされました?」

「ヒルバラ、見たよ」

「どうでした?」

「うん、良かったよ」

「あれくらい言っておかないと、アヤンクマルがどうとか、最近また世間が騒がしいですから」

「アヤンクマルね……。そうそう、その件なんだけど――。レアメモリ、見つかったみたい」

 村中は勿体ぶってそう言うと、画面の中でわずかに口元を緩ませた。

「そうですか」

「どうする?」

「解析を急いでください」

「分かった」

「それから、カミナリを片付けてください。もう彼らに用はありません。インジェクターもこれ以上は不要でしょう。サーバーの方を片付けてください」

「ALTECとの契約が、来年の九月まで残っているんじゃないかな」

「不要です。破棄してください」

「サーバーを停止すると、ナノボットの動きも停止するけど、大丈夫そう?」

「構いませんよ。その代わり、証拠は徹底的に消してください」

「徹底的にね」

「そうです。今ちょうど良いウイルスが蔓延しているそうじゃないですか。GMCにしか感染しないとかなんとか」

「そうだね。じゃまた」

 青かったモニタ画面が共同記者会見の映像に戻る。

 篠田は薄笑いを浮かべた。

 ようやくだ。ようやく、この私がメシアになる時が来た。

「メシア……」

 なんていい響きだ。

 あの男が言っていた神の世界とやらに、私も行くとしようか。

 そう心で呟いて目をやった窓の外には、厚い雲に覆われた灰色の空と、それを反射する高層ビル群が広がっていた。

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