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【第6回】既視感
三月十四日、九州北部と大阪、兵庫を中心とする関西地方に緊急事態宣言が発令されてから約一カ月後の木曜日、柴崎は西田の診療所を退所した。
診療所での生活も二週間が経って、柴崎はようやく一人で歩けるようになっていた。まだ排泄には苦痛が伴うが、それでも一人で歩けるようになったのは大きな一歩である。誰かの力を借りて生活するのはあまり良いものではないと考えていた柴崎にとって、診療所での生活は気苦労の連続であった。他人の家という場所柄もそうだが、相手がいるというのは、たとえ相手が何とも思っていなかったとしても、「有難い」よりも「申し訳ない」が先にきてしまう。誰かに迷惑を掛けるくらいなら、少しぐらい辛くても一人の方が気が楽だ、柴崎がそう考えたのも自然なことだった。
柴崎はすぐに友人の中村に連絡をした。中村というのは、柴崎と同じエスジー産のGMCで、同じ教育プログラム、同じ寮の同じ部屋で育った、言わば幼なじみのような存在である。
実は中村とは、早見に電話をするよりも前に話していた。中村は違法薬物や闇市などの裏社会に精通しているから、闇で営業している医者を知っているだろうと考えたためだ。ところが中村は「知らない」と答えた。それで途方に暮れて、すがる思いで早見に電話したわけだが、その時に中村は、傷が治るまでなら渋谷にある自宅を使っていいと言ってくれた。中村は今、長期出張で部屋を空けている。
「べつにいいけど、家賃と公共料金はお前が払えよ」
柴崎が再度宿泊の許可を確認した時、中村はそう言った。
「分かった」
どうせ長居はしない。傷が完治するまでのせいぜい数週間、寝るところさえあればいい。この時、柴崎はそう考えていたが、中村の考えは別のところにあるようだった。
「それより、お前、大丈夫なのか?」
「心配してくれるの?」
「一応な。自宅、燃やされちゃったんだろ?」
「うん」
「やっぱ、健楼会?」
「わかんない。けど、たぶんそう」
「傷はどうなの?」
「まだ痛いよ。でも良くはなってる」
「マジか……。アサルトライフルとか、ヤベえな。ガチじゃん」
「いや……。でも撃つ気はなかったっぽいけど……」
「でも撃たれてんじゃん」
「うん……。でもお互いに必死だったから」
「お前な、そんな悠長なこと言ってると、マジで消されるからな。なんか聞いた話じゃ、サムさんも九鬼さん狩った奴のこと探してるらしいし」
「それほんと?」
「マジだぞ。健楼会だけじゃない、サムさんに見つかっても終わり。だから絶対に部屋から出るなよ。そこがバレたら俺も巻き込まれるんだから」
◇
中村のマンションは渋谷駅から歩いて二十分くらいのところにあった。
エスニック料理店や焼き鳥店などの小さな飲食店が並ぶ飲み屋街を抜けていくと、古いビルの立ち並ぶオフィス街が見えてくる。そのオフィス街の一角に、場違いなほどに新しい十三階建てのマンションがあった。その外観はまるで氷の塔のように空高くまで伸びて、青みがかった大理石調の外壁は綺麗に磨かれて周囲の景色を反射していた。敷地の植え込みや外から見える内装も、その一つ一つが上品で美しく、気の利いたコンシェルジュが今にも出迎えてくれそうな、そういう高級ホテルにも似た雰囲気がある。
「あいつ、こんなところに住んでたのかよ……」
マンションの敷地には緑が植えられ、ドローン便専用のポートもあった。正面入り口には、指紋認証装置と監視カメラが設置されている。
柴崎は、中村に教えてもらった通りにパスコードを入力し、建物の中に入った。指紋認証が上手く動作しなかった時のために、入居者は専用のパスコードを貰っているらしい。
エレベーターに乗って三階へと移動する。
エレベーターを降りるとすぐに中村の部屋はあった。歩かなくていいのはとても助かる。
部屋の前まで行って、中村に教わった方法で自分の指紋を登録する。ピピピと音が鳴ってドアノブを握ると、見事に開錠した。これで部屋には自由に出入りできる。ひとまずは安心だ。
ドアを開けると、どこかで嗅いだことのある甘い芳香剤の匂いがした。どこで嗅いだかは覚えていない。たぶん安っぽい雑貨店かどこかだったような気がする。そう思った途端、ここが他人の家だというリアルな実感が全身を包み込んだ。今自分は他人の家に勝手に上がり込んでいる。友人から許可を貰っているから勝手にというのは変だが、それでもまるで盗みに入っているような背徳感を覚えずにはいられない。
「お邪魔しまーす」
小声でそう言って、柴崎は恐る恐る中へ進んだ。
玄関に靴はなく、綺麗に片付いていた。左手に靴箱、右手にウォークインタイプの物置があるようだ。
正面の扉を開けて進む。と、そこには十畳ほどの居室があった。
薄暗い部屋の電気をつける。
中村からは1Kと聞いていたが、想像以上に広く感じた。
左手にキッチン、右手奥にベッドが置いてあり、ベッドの右手にはベランダだろうか、カーテンが閉まっていた。キッチンにも小窓があり、そこから太陽の光が差し込んでいる。
いいじゃないか。ここならしばらくゆっくりできそうだ。
柴崎はコートを脱ぐと、傍にあったコート掛けに掛けた。するとその瞬間、どういうわけか、部屋に違和感を覚えて部屋の中にゆっくりと目をやった。
なんだろう? 何かは分からないが、何かが引っ掛かる。
壁沿いの棚には、シリーズ物の古い文庫本や英語の本がびっしりと並んでいた。文庫文は探偵ものや歴史ものが多い。
ベッド脇に目をやると、クマや犬などの可愛い動物の縫いぐるみが十数個、無造作に置いてあった。
「縫いぐるみ?」
さらに半分開いたままのクローゼットの中を覗くと、ハンガーに掛かった洋服に混じって、小型犬のケージが置いてあった。しかし部屋の中を見ても、当然、犬なんていない。
あいつ、犬、飼ってたのか?
極めつけは、ローテーブルの上に放置されたメイク道具だった。口紅、マスカラ、ファンデーション、どれも女性が使うようなメイク道具だ。ブラシやペン、ビューラーもある。
中村の秘密を知ってしまったような気まずさが頭の中の違和感を薄めていく。
いや、いいんだ。別にあいつがメイクをしていようがいまいがどっちでもいいんだ。あいつは親切心から僕に部屋を貸してくれた。もうそれだけで十分じゃないか。これ以上、あいつのプライバシーを侵害するのはよそう。
そう思って目を逸らしたカーテンには、薄いピンクの花柄模様がプリントされている。
いや、待てよ――。
そうか。あいつ、女と住んでいたのか。きっとメイク道具も犬のケージも女の物なんだ。
なるほどそうに違いない。それならこの女みたいな部屋も納得がいく。
安心した柴崎は洗面所へと向かった。
キッチンの奥にある引き戸を開けてバスルームに入る。それから洗面台の前に立って、自動水栓に手をかざした。
水が勢いよく流れ出す――と、また妙な違和感を覚えて、柴崎は顔を上げた。
いや、待て――。やっぱり何か変だ。
鏡にやつれた自分の顔が映っている。
青白い顔にぽつぽつと生えた薄いひげ。ぼざぼさに伸びた髪に長いまつ毛。
「ひどい顔……」
流動食ばかり食べていたから仕方ないとは言え、幸運が愛想を尽かして去っていってしまったような顔をしていた。
でもなんだろう……。顔じゃない。何かがおかしいんだ。
鏡をじっと見つめる。
鏡には背後のバスルームの戸が映っていた。バスルームの戸は閉まり、トイレの蓋も閉じている。
いやそうなんだ。そもそもの話なんだ。ここにあるもの、ここにいること、全部が当たり前すぎて、それが普通のことのように受け入れていたけれど、そもそもなんで僕はここに洗面所があることを知っていたんだろう? だって洗面所は引き戸を開けなければ見えないし、キッチンからも、そこが部屋なのか納戸なのかは見当がつかないはずだ。
不思議に思いながらも手を洗ってキッチンへ向かう。それから柴崎は自分の予想が当たっているかどうか、一つ一つ試していった。
たとえば、棚の中に使わなくなった珈琲メーカーがあるかもしれないと思って、棚の扉を開けてみる。するとそこに珈琲メーカーがある。
たとえば、冷蔵庫の中に炭酸のペットボトルがあるんじゃないかと思って、冷蔵庫を開けてみる。するとやっぱりある。
なんて言ったら良いのか分からない。初めて入った部屋なのに、まるでどこに何があるか、全部知っているような感覚とでも言おうか。そう、まるで「精巧に作り込まれた既視感」だ。街探検で何度も経験した、これから数秒後に何が起こるのかが分かる、ちょっとした予知能力みたいなものだ。
でも別に悪くない。ちっとも悪くないよ。
そんな風に思って、冷蔵庫からソーダ水のペットボトルを取り出す。それからまるで自分の家のように背後の棚からコップを取り出すと、それにソーダ水を注いでいった。
それからしばらくして、柴崎は部屋の中を物色して回った。他人の部屋を勝手に見て回るのもどうかと思ったが、これから数週間はここに住むことになる。さっきの既視感の確認じゃないが、どこに何があるかを知っておくのは別に悪いことじゃない。
キッチン、洗面所、玄関と見て回って、ベッドがある部屋に戻ってくる。それからベッドに腰を下ろして部屋の中全体を見回すと、ベッド脇にあった小さなキャビネットに目が留まった。
何が入っているんだろう?
ちょっとした好奇心で戸を開けてみる。すると中には、最新のVRヘッドセットが入っていた。
「すごっ!」
ヘルメットを浅く加工したような頭に被るタイプのヘッドセットだ。この手のヘッドセットは脳波を測定しながらリアルタイムで仮想空間内のキャラクターと連携できる。もちろん脳波データなんて必要としない仮想空間タイトルがほとんどだが、バトル系や恋愛系のシミュレーションゲームではよりリアルなやり取りを体験できる。かなり高価なものだ。出力系の信号端子も付いている。
「ちょっと借りてみようかな……」
柴崎もVRヘッドセットは持っていたが、ここまで高機能なものは使ったことがなかった。それも火事で燃えてしまって今はない。それに仮想空間に接続するのは数週間ぶりだ。毎日欠かさずに接続していた日々を思い返すと、柴崎の頭は純粋な興味と興奮で満ち溢れていった。
ソーダ水をローテーブルの上に置いて、ヘッドセットを手に取り上げる。すると戸棚の奥から、ボウリングのピンのようなものがごろんと転がり出した。
「あっ」と、思わず声が出る。
股間に装着して使う仮想セックス用のセンサリングカップだ。柴崎は以前からその存在を知っていたが、実際に見たのはこれが初めてだった。
興味津々で手に取り上げる。と、思っていたよりもずっしりと重かった。
どうやって使うんだろう?
そっと自分の股間に当ててみる。気まずさに興味が打ち勝つ瞬間だ。
柴崎はしばらくぼうっと想像して、それからそれが中村の物だったことを思い出すと、何事もなかったかのように戸棚の奥に戻した。
センサリングカップ自体は何も珍しいものではない。誰もが個人の快楽を自由に求めていい時代だ。合意が取れるならリアルにセックスすればいいし、無理ならお金を払って性風俗でも仮想空間でも勝手にすればいい。それに中村の場合、センサリングカップを持っていること自体、特別に驚くことでもない。
柴崎はそっと戸を閉めようとして、その奥に透明のビニル袋があることに気が付いた。
ビニル袋の中には大量のPTPシートが重なって、それらのシートに赤いピルが並んで見える。
ザクロだ――柴崎はすぐにそう思った。
ザクロというのは、重度のうつ病患者向けに医師が処方する麻酔系の向精神薬のことである。医師の管理下においてのみ使用が許可されていて、現在は厚生労働省によって違法薬物に指定されていた。その形状が赤いザクロの実のような形をしていることから『ザクロ』と呼ばれているが、少し前まで、柴崎も中村からザクロを買っていた。しかし今の柴崎にザクロに対する未練はない。
「いや、もう必要ない」
柴崎はそっと戸を閉めると、ヘッドセットを頭に装着した。
耳の上にある電源をオンにする。と、ぐんと頭を上に引っ張られる感覚がして、眼前に夜の繁華街が広がった。
赤、青、緑、様々なネオン灯が灯る。
道の両側には、まるで本物のお店のように新作の仮想空間タイトルが並び、その前を個性豊かなアバターたちが行き交っていた。
一気に意識を持っていかれる。激しいダンスミュージックが両耳の鼓膜を叩いていた。
「へえ、中村っぽい」
起動時の初期空間は自由に設定できる。柴崎は『白い空に何もない広場』、中村は『夜の繁華街』。初期設定にも個性が出る。
通りを進みながら、仮想空間のタイトルを眺めていく。おすすめのものと既に中村が購入したものと両方あったが、エロゲと格闘ゲーがほとんどだった。その中で、唯一、最近の時事ニュースが見られるタイトルを選択する。仮想空間の中でテレビを見られるいわゆる『お茶の間』系VRだ。仮想空間の中でテレビを見るなんてと思うかもしれないが、これが意外と人気がある。情報端末の個人利用が増えてお互いに干渉しないことが当たり前となった現代では、気軽に友人を招待して一緒に時空間を共有するニーズが増えている。そういうお茶の間的なVRでは、大抵の場合、設定で部屋を自由に変えられるから、実際は狭い部屋に住んでいる若者でも、例えば、海外ドラマに出てくるような広いリビングでくつろぎながらテレビを見れたりするわけだ。雰囲気は重要だ。クソみたいな仕事終わりに大富豪になった気分を味わえる。
さて中村は、柴崎の想像通り、広々とした部屋を設定していた。今いる部屋の三倍以上ある高い天井には豪華なシャンデリアが下がり、開け放たれた大きな硝子扉の向こうには照明に照らされたナイトプールも見えた。壁に掛けられた絵画はルネッサンス期のものだろうか。階段状になったフロア、ガラスケースに並んだ盾やトロフィー類。柴崎はまるで海外の有名映画プロデューサーの別荘にいるような気分で、白くて大きなソファの中央に座った。
正面の壁に埋め込まれた、見たこともないくらいに巨大なテレビに映像が流れ出す。
柴崎は番組をザッピングしていった。
「私は不要派です。仮想空間の土地をプレゼントされてもって感じですね。もう富裕層の行事でしかないんですよ。そもそもホワイトデーなんか――」
「――を拳銃で殺害したとして、強盗殺人の罪に問われている、二十三歳の企業産男性の初公判が東京地裁で開かれ、男は起訴内容を一部否認しました。目黒区綾瀬に住む職業不詳の甲斐俊彦被告は、去年十二月――」
「先週から順位を大きく下げて、今週は二十二位。藤本大介フューチャリング田舎道、エレクトリック――」
「今日は平和等民党代表の篠田正幸氏にお越しいただいております。篠田さん、先月末の時点で累計死者数が七千人を――」
一通りザッピングし終わって、耳の上にある電源部分に指先を当てる。柴崎はVRを切ってヘッドセットを外した。
ごろんとベッドに横になる。夜の海に一人ぷかぷかと浮いているような虚無感が全身を包み込んだ。
なんていうか――、どうしてこう、どうでも良いんだろう?
何もかもがどうでもいいというわけではないけれど、世の中には本当にどうでもいいことってある。でもそれを他の人が話題にしていると、僕も知っていた方がいいんじゃないかって思ってしまう。人間って不思議だ。本当は心の底からどうでもいいって思っているのに……。
昔はそれを隠して過ごしてきた。本当のことを言わない方がいいんじゃないかって、自分の気持ちに蓋をしてきた。でも九鬼老人を狩って、健楼会に追われて、家を燃やされて、腹を撃たれて、生まれて初めて目の前に死を認識した時、僕はそれじゃ駄目なことを知った。自分の気持ちを大切にして、それに正直に、全身全霊をかけて向き合わなければならないことを知った。周りと足並みを揃えて、普通を装っていたんじゃ駄目なんだ。
「バケツは捨てたんだろ?」
そう。奇跡は全力を出し切った後にやってくる。そして僕はこの世界で、奇跡を起こすと決めたんだ。
ズボンのポケットから、くしゃくしゃに折れ曲がったポストカードを取り出す。
それは七年前に、突然、自宅に送られてきたポストカードだった。
消印は『SINGAPORE(5 MAR 2062)』。裏面には透き通った水色の海が印刷され、表面にはふっくらと丸みを帯びた女の人の文字が連なっていた。
『成人おめでとう。就職も決まったようでなによりです。親としてあなたには何もしてやれなかったけれど、無事健康に育ってくれて嬉しく思っています。いつかまた会える日を夢見て。母より』
これが母親からの手紙だという確証はない。誰かのいたずらかもしれないし、間違えて配達されたのかもしれない。でも僕はこれが母親からの手紙だと信じている。そして僕はこれを送ってくれた母親に会いに行く。母親もきっと僕に会いたいと思っているはずだから。
「母親さん……」
その時、手首に巻いていた腕時計が音を立てて振動した。
その瞬間、精巧に作り込まれた既視感が薄いベールのように全身を包み込む。ほんの一瞬、仮想空間と現実のどちらかが分からなくなった柴崎は、緑色に明滅する画面を見て、すぐにそれが目の前で実際に起きていることだと認識した。画面には『早見凛太朗』の表示がある。早見先生だ。
「もしもし」
「良かった、繋がった。西田君から退院したって聞いたから」
早見の声は明るい。
「はい、今朝、退院しました」
「今はどこに?」
「友達の家にいます」
「友達と一緒に?」
「いえ、友達は出張で留守にしてるのでその間だけ」
腕時計のスピーカーフォンから早見の安堵したような溜息が聞こえてくる。その声を聞いて、柴崎も安心した。
「調子はどうだい?」
「調子ですか? まあ大丈夫です。走ったりとかはできませんけど」
「呼吸がしづらいとか、手が痺れるとか、ない?」
「別にないです」
そう答えてから、ふと、どうしたんだろうと柴崎は思う。わざわざ電話をしてくるということは、傷の具合を心配してのことだろうが、声の調子がどこか慌ただしい。
「どうしたんですか?」
「ああ、そうそう。西田君とも話したんだけど、君の経過観察を僕がやることになったんだ。君のことは僕の方がよく知っている。それは西田君も了承してくれた」
「経過観察ですか?」
「君の傷は重傷だ。いくら傷口が塞がったと言っても、この後、内臓とか消化系、もしかしたら免疫系にも何かしらの不具合が起こるかもしれない。ちゃんと回復するかどうかを見守るのも、医師の務めだからね」
なるほどそういうことか、と柴崎は思った。早見先生は心配性だ。
「それでね、これから定期的に面談をしていきたいんだけども、時間帯はいつ頃がいいかな?」
「え? また面談ですか?」
柴崎は去年の暮れまで早見の面談を受けていた。エスジーで生まれたGMCは皆、月一回の定期面談と身体検査が義務付けられている。付与された遺伝子が、発育後も安定して存在し得るかどうかを調査するためだ。ただ柴崎の場合、二月に早見が退職したため、もう面談は終わったものと思っていた。
「うん。そうだね、毎日じゃ大変だろうから、一週間に一回はどうだい? 検査キットはこちらから送るよ」
「検査キット? 自分でやるんですか?」
「そうなんだ。REMDがあれば早いんだけど、説明書通りにやれば大丈夫だから。悪いけど、自分で採血して送り返してくれるかい?」
「僕、できるか分からないですけど……」
「大丈夫。今の採血器は素人でも採血できるようになっているから」
「――分かりました」
柴崎は渋々承知した。
今はとにかく傷を治すことが先決だ。傷が治らなければ、母親にも会いに行けない。母親に銃で腹を撃たれたなんて言いたくない。
「時間帯はどうする? 午前十時とかはどうかな?」
「先生――」
柴崎は指先のポストカードをじっと見つめた。
「僕、この傷が治ったら、シンガポールに行こうと思っているんです」
柴崎が言うと、早見は急に黙り込んだ。
沈黙の隙間から困惑の息遣いが聞こえてくる。
しばらくして、早見はまるで別人のように憂えを帯びた声を絞り出した。
「シンガポール? 母親に会いにかい?」
「はい」
「柴崎君。あのね、この前は言わなかったけど、今は海外への渡航が禁止されているのを知っているかい?」
「はい。だから緊急事態宣言が明けたら」
「渡航には『陰性証明書」って特別な許可が必要だよ」
「陰性証明書……。どこで手に入るんですか?」
「それはね……」
途中まで言いかけて、早見は言葉を濁した。
「とにかく、今は外に出歩かないで。その状態でエスウイルスに感染したら大変なことになる」
「はい」
「また一週間後に連絡するから。それまでに何かあったら、いつでも連絡してきて」
「分かりました」
「うん。じゃまた」
「はい」
柴崎は通話を切ると、持っていたポストカードをベッド横のキャビネットの上にそっと立て掛けた。