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【第5回】囚われた老女
神保町で早見と会ってから約一週間後、萩谷はエスジー本社ビル二階にあるダイニングホールのカウンター席で珈琲を飲みながら外の景色を眺めていた。
萩谷が滅多に取らない休憩を取っているのには訳がある。マグロを使った臨床試験において、有意な効果が認められたからだ。
SYVIDー69陽性のクロマグロに対し、治験薬『ザインD7』を投与したグループAと、そうでないグループBでは、鰓の上皮細胞におけるエスウイルス固有のたんぱく質の量に明確な差があった。これは背部の筋細胞でも同様の結果となり、治験薬の評価はひとまず目当ての効果が確認されたと言えた。一方、安全性解析テストでは、治験薬に関連すると思われる有害事象がいくつか確認された――具体的には赤血球の減少と立鱗である――が、それらはこれまでの臨床試験でも認められていた事象であり、その発現率も全体の2・6パーセントと低いことから、新たな安全性の懸念はないものと思われた。
ほっとした気持ちで窓の外をぼんやりと眺める。
珈琲を口にし、ふうと息を吐き出すと、窓が白く曇った。
窓の曇りが徐々に晴れて、外の高層ビル群が姿を現す。ビル群の背後には、清々しい青空が広がっていた。
君の手でエスを終わりにしてくれないか――大久保の妙に畏まった真面目顔が頭に浮かぶ。
大久保さんも年を取った、昔はあんなことを言う人じゃなかった、と萩谷は思った。
いずれにせよ、これでボールは薬剤部に投げられた。この後、無事に治験薬審査委員会を通れば、次はいよいよヒトへの臨床を試す段階となる。
また、ふうと息を吐き出し、窓が曇る。
ふと、煙草が吸いたくなり、萩谷は周囲をきょろきょろと見渡した。
二階のダイニングホールには百席以上のテーブル席があるが、緑の植物で仕切られたテーブル席には、ぽつりぽつりと人が座っているだけだった。窓際のカウンター席にも知っている顔はない。
ホールの隅にある喫煙室に目をやる。
喫煙室に行けば、一本くらい貰えるだろうが、どうしようか……。萩谷は躊躇っていた。
萩谷は子どもが生まれた五年ほど前から禁煙している。この五年間、一度も吸っていない。しかしここまで休まずに仕事をしてきて、ようやく一区切り付いた今、無性に煙草が吸いたかった。五年間の禁煙生活に意味がなかったと言いたいわけではない。今日、一本吸って、また明日から禁煙すればいいだけのことだ。
一本くらい、と言うのは簡単である。しかし萩谷は義の男。貧乏揺すりを繰り返し、どうしようかと迷っていた。とそこへ、背後から声が掛かる。
「萩谷さん?」
振り返ると、そこには白衣を着た長身の若者が立っていた。
「有坂……」
ふと我に返る。
ひょろひょろと背が高いこの若者は有坂知世、地下研の主任研究員である。
色の抜けた明るい髪はくるくるとパーマがかかって色気がある。目はぱっちりと大きく、八の字に垂れた眉はどこか愛嬌があった。良い意味で不真面目というか、力が抜けているというか、人懐こく、ざっくばらんな性格は、萩谷の周りにはいないタイプである。
「何してんすか? 珍しいっすね」
有坂はそう言うと、萩谷の隣に座った。
ただ、この有坂という若者、時折、人を食ったような態度を見せるから注意が必要だった。裏で何を考えているか分からない、そういう軽薄さが白衣に染み付いている。
「お前こそ、何してんだ? ナイリーズの世話はしないでいいのか?」
萩谷が言うと、有坂は鼻で笑い飛ばした。
「ナイリーズなんかとっくに追い出しましたよ」
「環境は残ってんだろ?」
「残ってますけど、藤崎さんも九鬼さんもいなくなっちゃったし、もうあのプロジェクト自体どうなるか分かんないすからね」
「今、誰が指揮してんだ?」
「平松さんです」
「齋藤の手下か」
「そうす」
そう言った口元がにたにたと笑っている。
恐ろしい若者だ。彼にとっては上司が誰であろうと関係ないのであろう。恩だとか、義だとか、その人に世話になっただとか、この人に付いていこうだとか、そういう感覚はおそらくない。主任研究員にまで昇進した若者が、根無し草のように部署を渡っていくつもりなのは残念で仕方ないと、萩谷は珈琲を飲みながら思った。そして自分のしていることを思い出し、「俺も同じじゃないか」と心に呟く。萩谷もにたにたと口元を緩ませた。
「そんなことより、小倉研から来たエス患の話、聞きました?」
「どうした?」
「この前、上げてくれた『D7』あるじゃないすか」
「ああ、うちの奴か?」
「そう、三試の。あれ投与したんすよ」
「えぇ?」
萩谷は驚いた。ヒトへの臨床はまだ先だと聞いていたからだ。
「審査委員会は今週だろ?」
「先行投与ってヤツっすよ」
「もう臨床始まってんのか?」
「はい」
「おいおい……」
本来ならば、審査委員会で許可が下りてから、ヒトへの臨床試験は始まる。ただ、試験結果の報告は今月末が期限だ。先に投与しておかないと間に合わないとの判断だろう。地下研ではこういうことがよくある。表に出ないから地下研独特のルールと言ってもいい。
「そう、それで、最初微熱が続いてて、症状の進行は止まってる様子だったんですよ。血中のウイルス量も減っていたし、全部、分離陰性だったから」
分離陰性とは、血液からの感染はないということだ。
「本当か? じゃ効いてんじゃねえか」
「はい。でも、ここだけの話、小倉研から来たエス看だけ副作用が見つかって」
「副作用?」
「グレード3の」
「グレード3?」
「はい」
グレード3の副作用とは『危篤』な副作用のことを指す。
「薬剤性せん妄」
「せん妄?」
「可能性ですよ。でも個人的には、あれは本物だと思います。だって、夜中に起きて誰かと話してたり、壁に向かって話しかけて笑ってたり……」
そう言った後、有坂が乾いた笑みを口元に浮かべた。
「かなりヤベえっす。でももう周りはけっこう諦めてますね。やっぱ今年度中は無理かって」
萩谷はううむと唸った。そして口をへの字に結んだまま窓の外へ目をやると、書斎の水槽に沈んだマカを思い浮かべた。
今年度中は無理だと? それこそ無理だ。
萩谷はどうしようかと考えながら窓の外に目をやると、青く澄んだ空と、そこに注入器のように食い込むビル群を眺めていた。
◇
「何度もすみませんが、藤崎幸大さんとはどのようなご関係で?」
天井から若い男の声がする。
四角いパネルが整然と並んだ白い天井。
模様も汚れもない真新しいパネル。その中央に他と違った円形の窪みがあった。
その窪みから聞こえてくる張りのある若々しい声。自信に満ちた、聞いたことのない強い声。
怖くなって慌てて両耳を塞ぐ。老女は目を強く瞑り、下を向いた。
この老女は、巻はる子――公安警察官である。今は訳あって『鈴木愛理』と名乗っている。巻は本来であれば二十二歳の若者であるが、見た目は六十代の外見をしている。絹のように白い髪。張りを失った弛んだ皮膚。やせ細った手足は、水色の病衣の下でかたかたと震えていた。彼女はエスウイルスに感染している。
「質問を変えますね。藤崎幸大さんの執務室に行った時のことを思い出してください。あの日、どうして彼の執務室へ行ったのですか?」
そこは四畳ほどの閉じられた空間。窓はなく、全面をコンクリートで覆われていた。病室のような質素な部屋の隅には、ベッドと机が置いてあるだけで他には何もない。部屋の奥には、トイレとシャワーが完備されており、唯一の出入り口はベッドの対角線上にあるスライド式のメタルドアだけだった。そのドアも普段は鍵が掛かっていて、内側からは開かない。
「分かりました。大丈夫ですよ。答えられるものだけで構いませんので。では、執務室で藤崎さんと何を話したか、覚えていますか?」
そして先ほどから根気よく巻に話しかけているのは、赤坂署の刑事、秋山晴紀である。秋山は、同僚の村上とともに、藤崎事件の捜査を担当していた。
藤崎事件とは、俗にいう『エスジー取締役連続失踪事件』のことである。「連続」となっているのは、藤崎が二人目の失踪者だからだ。一人目の失踪者は、九鬼清志郎、彼もエスジージャパンの取締役だった。
藤崎は、先月十八日の午前十時頃、エスジージャパン本社ビルの五十四階にある自身の執務室から忽然と姿を消した。執務室に鍵は掛かっておらず、犯行は藤崎に恨みを持つ内部の人間のものと思われた。しかし防犯カメラの映像を解析したところ、奇妙な点が幾つか見つかった。一つは、防犯カメラに映っていた犯人と思われる人物が、執務室に入る前と後で違っている点。もう一つは、藤崎本人が執務室から出ていない点。当然、執務室の中で遺体はおろか、血痕さえ発見されていない。
では、藤崎は一体どこへ消えたのか――。
それを知るのは、藤崎ともう一人、おそらく唯一の目撃者であろうこの老女、巻はる子だけである。防犯カメラの映像から、事件発生当時、巻が藤崎の執務室の中にいたことは分かっている。
「どうですか? 何か覚えていませんか?」
秋山の潔癖そうな声がコンクリートの部屋に響く。
壁がぐわんぐわんと揺れ動き、巻は両耳をさらに強く押さえた。
「やめて……。やめて……。やめて……」
ぶつぶつと呟きながら瞼を固く閉じる。
頭を殴られたみたいに酷い眩暈がして、巻はベッドの隅で膝を立ててうずくまった。
「ゆっくりでいいです。あの日、あなたは藤崎さんの執務室へ行きましたよね?」
若い男の声が頭の中にぐわんぐわんと反響する。その声と重なって、別の誰かの声が聞こえた。
(君も選ばれた人間だ)
巻は、はっとして目を開けた。
お爺さんだ、あの時のお爺さんがいる――。
メタルドアの前、部屋に入ってすぐのところに、車椅子に座った老人がいた。
老人は何をするでもなく、じっとこちらを見つめている。その体は、まるで古い蛍光灯のように、ぼんやりと光ったり消えたりを繰り返しているようだった。しかし奇妙なのはそれだけではない。老人の顔がまるで水面に映っているかのように歪んで見えるのだ。
その顔は見えているのに見えていない。知っている感覚はあるのに、誰かは分からない。
その老人の口元が、今、もごもごと動き出す。
「え?」
上手く聞き取れず、耳を塞いでいた両手をそっと離す。
「――のあと、誰か入ってきませんでしたか?」
また強い声が聞こえてきて、咄嗟に耳を塞いだ。
何? 今、何て言ったの?
「聞こえない、聞こえないよ!」
耳を塞いだまま、大声を上げる。
すると老人は微かに微笑み、何秒もしないうちにすうと消えてしまった。
「待って! 誰!」
今度は老人とは別の誰かの気配が漂い出す。
それは部屋の中をゆっくりと歩き回り、やがてベッドの足元に立った。
「誰なの?」
足元から白い煙がもやもやと立ち上る。
それは蝋燭の煙のように宙を漂い、やがて男の姿へとゆっくりと形を変えていく。
目の前にいるのは白い煙のように透明な男。氷のように冷たい目をした男。
すぐにぴんと来る――あの男だ。あの男に違いない。
「あの男だ! あの男が刺した!」
わっと恐怖が押し寄せ、巻は両耳を塞いだまま下を向いた。
「男。何歳くらいの男ですか?」
ベッドの隅に小さく丸くなって、次々と頭の中に浮かんでくる男のイメージを振り払う。
ところが、振り払っても振り払っても、男は消えてくれなかった。それどころか、頭の中の男はますます鮮明になってこちらへと振り返る。
「いや! やめて!」
それはぱっちりと大きな目。
それは真っ直ぐに伸びた薄い眉。
高い鼻筋。角ばった唇。白い肌。小さな顔。
それは高飛車な女のような中性的な顔付きの男。その目が今、すっと細くなる。
「三十代、男性、白い帽子、白いマスク、防護服。冷たい目……」
言葉が勝手に溢れ出て、ぶつぶつと独り言のように呟いた。
「冷たい目。それは青い目でしたか?」
しかし男はそれ以上言うなという目で威圧してくる。
「いや! 怖い!」
何度も首を振った。銀髪が乱れ、その度に髪が頬を擦った。
すると突然、ベッドが消え、部屋が消えた。そして不思議なことに、辺りには見渡す限りに河川敷が広がり、野球かサッカーか分からない子どもたちの声が遠くから聞こえてきた。
「えっ……」
緩やかな土手の斜面。足を引っ張るように雑草が足首に絡みつく。
雑草に埋もれた両腕をこしょこしょと葉がくすぐり、首元で長い雑草が一本、かさかさと揺れた。
どこからともなく温かい風が川の匂いを運んでくる。
太陽に熱せられたコンクリートの匂いと遠くの川の匂い。それらがうちわでそっと扇がれたアロマ香のように顔の上を通り抜ける。そしてまた、頬を雑草がくすぐる。鉄橋を電車が走り去る音がゆっくりと遠ざかっていった。
(ほんとに行くの?)
どこからか若い男の声が聞こえてくる。
(逃げで行くんだったら、行かない方がいい)
周りを見渡しても、男の姿はどこにもない。
(僕のこと、試してる?)
その瞬間、誰かが腕を引く。
(ねえ、あそぼう)
見ると、小さな女の子が手を引っ張っていた。
何が起きているのか分からない。
「あなたはその時、何をしていたのですか?」
(ねえ、あそぼうよ)
「男の顔は覚えていますか?」
(僕のこと、試してる?)
「男が刺したものはナイフですか?」
(ねえ、はやく)
「それはどちらの手に持っていましたか? 右手ですか? 左手ですか?」
(つぎはおねえちゃんがおにね)
「男がお爺さんの胸に何かを刺した後、男はお爺さんを連れて部屋を出ましたか?」
色々な声が頭の中に鳴り響く。
頭の中がたくさんの絵の具を絞り出されたみたいにごちゃごちゃになって、巻は堪らず叫び声を上げた。
「いやあぁぁぁぁ!」
直後、天井の声がぴたりと止んだ。
辺りがしんと静まり返り、冷たい静寂が包み込んだ。さっきまでそこにいた白い煙も消えている。
いない……。
部屋の中をきょろきょろと見回し、白い煙が立っていた位置に恐る恐る手を伸ばす――と、中指の爪が硬く冷たい壁にとんと当たり、巻ははっとして手を引っ込めた。