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Photo by Copilot

【第4回】もう一人の超人

 早見に言われ、萩谷が向かった先は神保町だった。

 神保町は古くから大学や出版社が多く集まる歴史ある場所である。東京の中心にあり、かつては本の街とも呼ばれていた。現在は新宿や池袋のように、空き家や廃ビルが目立つようになったが、街が持つ知的で文化的な雰囲気は変わっていない。仮想空間全盛期の現代において、昔ながらの古書店や中古レコード店が今でも見られるのは神保町くらいだろう。

 表通りを一本裏に入った細い路地。

 両側には、蕎麦屋、喫茶店、古本屋と、個人商店が軒を連ねている。

 そこは、今では当たり前となったデジタルサイネージやホログラム広告、そういったものが一切なく、路上にゴミも落ちていない。裏道というのは大抵薄暗く、人通りが少ないものだが、そこは街灯が道を照らし、人もちらほらと歩いていた。その歩いている人にも、こちらが身の危険を感じるような危うさなんてものは当然なく、むしろ外出していることに引け目を感じているようにも見えた。路地裏で老人が暴行されるニュースが日常茶飯事の昨今、平時でさえ夜に出歩くのは危険を伴う。緊急事態宣言の最中とあれば尚更である。

 その細い路地の並びに、早見の知人が経営するという居酒屋があった。

 教えられた住所を頼りに、がらがらと音を立てて戸を引くと、中はカウンターだけのこじんまりとしたお店だった。

 暖色灯に照らされた店内には、パンデミックの影響か、客が二人しかいない。常連客だろうか。彼らはきびなごを摘まみに熱燗を飲んでいた。彼らの背後には煤けた板壁があり、そこに筆文字のメニューが所狭しと並んでいる。視線を上げると、天井の隅に古い液晶テレビがつけられて、小壁には額に入った水墨画やら誰かの格言やらがたくさん飾ってあった。古き良き人情味溢れる居酒屋だ。

「あっ、あの、萩谷です。早見さんと待ち合わせをしていて……」

 萩谷が名乗ると、二階へと通された。

 盗聴の心配はない――早見が言っていた理由がよく分かる。

 

 二階へと上がると、四畳ほどの和室に早見が待っていた。

 浅黒い皮膚、短く刈り上げられた髪、凛々しい眉に大きな口――。眼鏡のせいで印象は柔らかいが、決して曲げないであろう凝縮された信念がその目の奥にちらちらと見え隠れする。

「久しぶりだね。何年振りかな?」

 早見の穏やかな口調は、萩谷にかつての先輩後輩関係を思い出させた。

 随分と老けたが、目の前に居るのは間違いなく、エスジージャパン特別上級研究員、早見凛太朗だ。

「十年以上経ちますか……。もう会うことはないと思ってましたよ」

 萩谷の脳裏に毎日のように二人で言い争った日々が思い浮かぶ。

「変わってないね」

 早見はじっと萩谷を目で追っていた。

「さあ座って」

 早見に促され、萩谷はコートを脱いで和室に上がる。そしてコートをハンガーに掛けると、ゆっくりと部屋の中を歩き回ってから、座卓を挟んで早見の正面に座った。

 出汁の良い香りがする。

 部屋の中は暖房が効いてぽかぽかと温かいのに、空気はひりついていた。

 早見は萩谷を真っ直ぐに見つめ、萩谷は早見の顔を見れずに部屋の中に視線を泳がせる。何から話せばいいか分からず、萩谷はおしぼりを手に、何度も手を拭っていた。

「ご退職したそうで。俺のとこにはなかったから」

「悪かったね。時間があまりなくて。なにか食べる?」

「そうですね」

 萩谷がメニューを手に取って眺めている間、早見はやはり黙ってそれをじっと見ていた。

 何となく手持ち無沙汰になってしまうのは、お互いに気まずさを感じているからだろうと、萩谷は思っていた。萩谷はもともと人付き合いが苦手なタイプである。冗談を言ったり、雑談をすることがあまり得意ではなかったし、そうあるべきとも思っていなかった。

 それから二人は特に話すこともなく、料理を注文し、飲み物を待っていた。

 

 秀才は学び、天才は創る――誰が言ったか知らないが、そんな言葉がある。

 秀才は学びの中から物事に対する理解を深めていく、天才は物事の概念や枠組みを超えて新しい価値を創造する、そういう意味である。どちらが良いという話ではない。秀才と天才では見ている方向が違うと、そういう話だ。秀才を犬、天才を猿と言い換えてもいい。犬も猿もどちらも賢い動物であるが、同じものが見えていなければ、共感も起こり得ない。

 

 しばらくして、飲み物と料理が運ばれてきた。

 座卓の上に置かれた瓶ビールを先に取って、萩谷は二つのコップに均等に注いでいく。それから自身のコップを軽く持ち上げると、小さく「乾杯」と口にした。初めに断っておくが、萩谷は下戸である。見た目は厳つく、いかにも大酒を呑みそうな風貌をしているが、一滴も飲めない。それでも乾杯と口にしたのは、萩谷の早見に対する敬意の表れであった。もちろん早見も知っている。だからこの時、早見は少し不思議そうに萩谷を見つめていた。

 互いにビールを一口ずつ飲んで、また黙り込む。二人は無言のまま、運ばれてきた料理を口にしていた。

 しばらくして、早見が言った。

「藤崎さんは、出社した?」

 すると萩谷はちらりと早見を見て、無言で首を振った。

「カミナリ?」と早見。

 萩谷は、さあと首を傾げてから言った。

「でも俺には関係ない話です。そんなことより、今、本社に警察が来てて大変ですよ。皆、仕事にならないって」

「そうだろうね。『ツァラトゥストラ』の二人がいないんじゃ、超人プロジェクトも終わりかな……」

 萩谷はちらりと早見を見た後、何も言わずに料理を摘まんでいた。

 ツァラトゥストラの二人というのは、藤崎と九鬼のことである。九鬼が無断欠勤を続けているのは先に述べたとおりだが、実は九鬼に続いて藤崎も、先月の十八日から行方が分からなくなっていた。社内では、二人が超人プロジェクトに関与していたことから、プロジェクト絡みの怨恨じゃないかと噂になっており、以前から超人プロジェクトに懐疑的だった取締役の仕業ではないかと言い出す者も出ていた。藤崎は取締役会の嫌われ者で有名だったのである。

 実際、二人がいなくなった途端、来期から超人プロジェクトが廃止されるようだとの噂が流れた。プロジェクト最後の超人『マカ』は、エスウイルスに感染してほぼ全滅したらしい、生き残ったマカも近いうちに処分されるらしい、トワ、マカと二連続で失敗となれば、さすがに取締役たちが許すはずがない、そんな話があたかも事実であるかのように社員の間で話されていたのだ。早見でさえ耳にしていた。萩谷が知らないはずがない。それでも萩谷が沈黙を守ったのは、九鬼や大久保に対する義理を通したからである。

「ザインプロジェクトは順調かい?」

 萩谷の眉がぴくりと上がった。

「ええ、まあ……」

「ヒトへの臨床は?」

「まだです」

 そう言うと、萩谷は顔を上げた。

「気になりますか? エスジーを退社したあなたには、もう関係ないでしょう?」

 正論である。早見に返す言葉はない。

「たしかにそうだね。でもね、こんな僕にもまだやるべきことが残っているんだ」

 早見はそう言って笑うと、コップの中のビールをぐいと呷って、空になったコップをとんと置いた。

「柴崎望、覚えているかい?」

「覚えているもなにも、今、俺の下で働いてますよ。先週から無断欠勤が続いてるから、懲戒にするぞって脅してやろうかと思っていたとこ――」

「能力が発現し始めてる」

 瞬間、萩谷は箸を止めた。

 驚きが口から半分出たまま時が止まっている。

「まさか……」

「本当だよ。まだ本人は気付いていないみたいだけど、『修復』が機能している」

「修復? 具体的には?」

「腹部を撃たれて回復している。それも信じられないスピードで」

「撃たれた?」

 萩谷は笑った。

「ちょっと待ってください。情報量が多すぎる。撃たれたって……、それはいつです?」

「おそらく先週の火曜日か、それ以前」

「先週の火曜……」

 欠勤の理由はそれか、と萩谷は思った。

「医師の診察によると、傷は新しく、死んでいてもおかしくないほどの損傷だったらしい。通常、撃たれて一番怖いのは失血死だ。ところが彼の場合、出血が止まっていた」

「何かの間違いでしょう?」

「じゃあ撃たれてから数時間で傷が治りかけていた事実をどう説明する?」

「でも、あいつは汎用GMCですよ?」

「遺伝子は超人のものだ」

 早見が眉に力を込めて萩谷をじっと見つめる。萩谷は負けじと早見を睨みつけた。

「まさか、そんな話、信じろって言うんですか? 俺が知る限り、能力の発現しなかったGMCが、途中から発現したなんて聞いたことがない。一度、汎用GMCに区分されたら、そいつは一生、汎用なんですよ」

 萩谷の脳裏に色褪せた記憶が蘇る。

 早見の顔を見れば見るほどに、あの時の、ただただ道徳的な正しさを振りかざすだけの頑迷固陋な早見主任研究員に見えた。

「萩谷さん。もし柴崎くんの能力が発現したならば、それはまさに、我々が望んでいたことじゃないですか? 我々はこの世に全知全能な超人を生み出そうとした。そのために様々な研究を行ってきた。彼を見守ることは、我々の過去を肯定することにもなるんだよ」

 過去――。

 萩谷君。意見を言うのは良い。だけどそこには礼節がなければならない。

 萩谷はまた、喉元まで込み上げた苛立ちをぐっと飲み込んだ。

「十二年前――」と、早見が続ける。

「あなたは『暴走した理由を解明すべきだ』と言ったね。僕は『そんな危険なウイルスはすぐに廃棄すべきだ』と主張した。でも僕の主張は通らなかった。我々は研究を続け、あろうことか、その危険なウイルスの一部をトワに組み込もうとした」

 そう言って、早見はコップに新しいビールをとくとくと注いでいく。

「僕は限界だったんだ。あれ以上は続けられなかった。あれから十二年――。今のこの世界を見てごらん。僕らが作り出した『エス』は、そこかしこでGMCを攻撃している」

 ビールを注ぎ終えると、早見はそれを口元へと運んだ。

「あれはもう、俺らが作ったものなんかじゃないですよ。遥かに狂暴性を増している。変異のスピードも早い。今の『エス』なら、それこそカイを殺せたんじゃないかって思うくらいです」

「カイは犠牲者だ。可哀想な超人だよ。でも柴崎君は違う。彼には、カイさえも成し得なかった完全完璧な超人になれる可能性がある。君は彼の可能性に興味はないのかい?」

「完璧な超人ならカナタがいるでしょう?」

「彼女はダメだ。カイと同じで心がない」

「会話できますよ」

「平気で人を殺せるのなら、それは心がないのと同じでしょう?」

「それなら、まだ未成年ですが、ヒカルだってミライだって育ってる」

「萩谷さん、違うんだ」

 そう言うと、早見は持っていたコップをそっと置いた。

「柴崎くんには『共感』がある。他人の痛みが分かるんだ。これがどんなに凄いことか、あなたになら分かるでしょう?」

 GMCは共感性に乏しいという研究結果がある。遺伝的なものだと言う学者もいるし、育った環境による後天的なものだという学者もいる。近年はGMCによる犯罪が増えているが、この共感性の欠如を一因とする研究者もいるくらいだ。ただ、萩谷はこの研究結果に懐疑的だった。

「分からないですね。あいつこの前、同僚の文句言ってましたよ。俺にも酷いこと言ってきたし。他人の痛みが分かるなら、そんなことしないでしょう?」

「彼は母親に会いたいと言っている」

「母親?」

 その言葉を口にした途端、突如として萩谷の頭の中は真っ白になった。柴崎の深刻な顔と母親の顔と、その両方が頭に浮かんで、何とも言えない感情に包み込まれたのだ。それは予想外の反撃に「怯む」感覚に近い。困惑と言えば困惑、懐かしさと言えば懐かしさ。同時に、繋がってはいけない一本の線が今にも繋がってしまいそうな危機感がじわじわと込み上げた。

「僕はしばらく教育センターにいたからね、分かるんだ。何万人とGMCの子どもたちを見てきて、母親に会いたいなんて言ったのは彼が初めてだよ。普通は母親なんて気にもしない」

「だから何だって言うんです?」

「これは僕の意見だけど、彼はおそらく、母親に会うことで、心理的な空白を埋めようとしているんじゃないかって思うんだ。愛されたい、認識されたい、安心したい、自己同一性の探求だよ。そんなことをしようとするGMCはおそらく、彼だけだ」

「それはあなたの主観でしょう?」

「そうだね。でもだからこそ、客観的なデータが必要となる。どうだい? 彼にMASを試してくれないか?」

「MAS……」

 MASというのは、マイクロアレイシーケンサーの略で、遺伝子レベルでどの領域の遺伝子が発現しているかが分かる検査装置のことである。たしかにMASを使えば、柴崎の能力がどの程度発現しているかは分かるだろう。しかしMASは第一研究センターに置いてある。そして利用するには、申請が必要となる。

「無理ですよ。俺はもう研究棟の人間じゃない」

 萩谷は首を振った。

「我々には彼を見守る責任がある」

「もちろん俺だって責任は感じていますよ。俺たちは、この世にあいつらを生み出したことを、一生、背負って生きていかなければならない。そんなこと、分かってますよ」

 萩谷はふんと鼻から息を吐き出すと、箸を揃えて座卓の上にそっと置いた。

「でも俺たちはただの一研究者。上の指示に従ってやるだけです。GMCはしょせん、国の人口増し、金儲けの道具でしかないですよ。使えるもんは使う。使えないもんは捨てる」

 そしてゆっくりと席を立つ。

「共感性を持つ超人? すみません、俺はあいつをそんな風に見れないです。申し訳ない。他を当たってください」

 そう言うと、萩谷はハンガーからコートを取り、ちょこんと頭を下げてから部屋を出ていった。

 

 

 ピピっと音が鳴って、ドアが開錠した。

 ドアノブを回してドアを引く。中から缶詰の甘い匂いが漂い出して、萩谷はまたかとやる瀬なく思った。

 家の中は真っ暗だった。

 しんと静まり返り、人の気配はない。

 玄関で靴を脱ぎ、音を立てないように忍び足でリビングへ向かうと、電気をつけた。

 ぱっと明かりが灯り、六畳の狭い居室が姿を現す。

 壁には数枚の写真が飾られ、カレンダーが吊るされていた。本棚には本や書類、ウェットティッシュや殺虫剤が置いてある。部屋の隅にはテレビがあり、テレビ台の上にはアニメキャラクターのフィギュアたちが様々なポーズを決めて並んでいた。

 部屋の中央、ダイニングテーブルの上にメモが残されていた。

 手に持っていた郵便物をテーブルにそっと起き、コートを脱ぐ。それからテレビ台の上にあるフィギュアの向きを直すと、隣にあったMRグラスを手に取った。

 MRグラスをかけてメモを眺める。

 すると、MRグラスの画面上で、メモ用紙に綴られた英語がすらすらと日本語に変換されていった。

「新しいコオロギの缶詰を買いました」

 ナニーからの置きメモだ。夕食の内容、就寝時刻、トイレの回数も書いてある。

「カエデは今日も私に母はどこにいるのかと聞いてきました。自分に母親がいないことを気にしている様子です。就寝前は特に不安のようで、私が歌を歌うとようやく寝ました。サクラはシシオウに腕をつねられたようです。怪我はしていませんが、絆創膏を貼っておきました。様子を見てください」

 萩谷には三歳と五歳の子どもがいる。

 萩谷が五十六歳の時に一人目、五十八歳の時に二人目を授かった。相手はいない。卵子バンクにて二十代の一般女性から卵子の提供を受けたからだ。

 置きメモの隣には、ピンク色の折り紙で折られたお雛様が置いてある。

 それを見て、また獅子王かと、萩谷は舌を鳴らした。

 獅子王は、エムジーの遺伝子組み換えサービスを利用して生まれたGMCだ。両親がいる。一般家庭が自分たちの子どもに優れた能力を与える目的で、人工胎生企業の遺伝子組み換えサービスを利用することはよくあることだ。しかし一般的にこうしたサービスは高額なため、これらを利用するのは必然的に富裕層に限られてくる。ただ稀にそうでない家庭でも、我が子のためにと、高額な料金を支払って遺伝子操作を実施することもある。そしてそういった家庭の子は、富裕層の子が通う保育園ではなく、萩谷の子が通うような普通の保育園に通園したりもする。GMCの子は自然出生の子と比べ、発達が極端に早い子や、知能が飛び抜けて高い子もいるため、自然出生の子とトラブルを起こしやすい。そうしたこともあって、GMCの入園を断る園も少なくないが、獅子王の両親はこの園の関係者だった。

 桜は入園して以来、獅子王に気に入られているのか、虐めとも受け取れるちょっかいを出されていた。園には何度か相談したが、これまで事態が改善する様子は見られない。

 自然出生児を持つ親としては、GMCは厄介な存在である。GMCが悪いわけではないことはよく分かっていても、その対応に周りが苦慮するケースは多々ある。十年くらい前までは、自然出生児がGMCと出会うのは早くて小学校とされていたが、今は遺伝子組み換えサービスが一般にまで浸透し、幼児教育の段階で出会うことも多くなっていた。

 GMCは共感性に乏しい、か……。

 まったくなんでこんなことになっちまったんだ……。

 頭をぽりぽりとかきながらメモを最後まで読むと、メモの終わりには、「先月のナニー代を速やかに支払ってください」とあった。

 萩谷はMRグラスを外すと、小さな溜息を吐いた。

 テーブルに置いた郵便物は、すべてクレジットカード会社からのものだ。中は見ないでも分かる。水道、ガス、光熱費。携帯電話、VRネット、卵子バンクからの引き落とし……。とてもじゃないが、ナニーに支払うお金はない。

 萩谷は封筒のまま郵便物をゴミ箱に捨てると、子ども部屋へ向かった。

 

 薄暗い部屋にリビングの光が差し込む。

 足元には、尖ったおもちゃや小さな部品が撒菱のように転がっていた。

 それらを避けて、奥にある二段ベッドにそうっと近づいていく。

 二段ベッドの上に楓、下に桜がすやすやと寝息をたてて眠っていた。

 その素直で純粋な幼顔が、ぎゅっと抱きしめたくなるほどに愛おしい。

 萩谷は、桜の蹴とばした毛布を肩まで掛け直すと、静かに部屋を後にした。

 

 彼は母親に会いたいと言っている――ふと、早見の言葉を思い出す。

 柴崎くんには『共感』がある。他人の痛みが分かるんだ。

 何が共感だ――。

 

 萩谷は子ども部屋の扉を閉めて、書斎へと向かった。

 書斎の扉をそっと閉め、鍵をかける。

 壁沿いに並んだ本棚。窓際にある机。入ってすぐの壁には、たくさんの賞状が額に入って飾られていた。窓からは街灯の明かりが差し込み、机の辺りを薄らと照らしている。

 萩谷はゆっくりと机に向かっていった。

 机の脇では、高さ一メートルほどの制御装置が微かな音を出して動いていた。

 装置からは数十本のケーブルが飛び出し、それらが床を無数の蛇のように這って机の下まで伸びている。

 机の下には、青い透明の液体で満たされた一辺約一メートル四方の水槽があった。その隅に、バランスボールほどの大きさの黒ずんだ物体がごろんと沈んでいる。先ほどのケーブルはこの物体の頭らしき部分に繋がっていた。その黒ずんだ大きな物体は、まるで中に生き物がいるかのように、ぽこぽこと膨らんだり凹んだり形を変えている。

 萩谷は制御装置に異常がないか確かめると、机の上のカレンダーを捲った。

 カレンダーの『四月十二日』に赤い丸が付いている。

 あと一カ月……。

「あと一カ月の辛抱だ」

 それまでに何としてでも治療薬を用意しなければならない。

「マカよ。お前は、俺に共感してくれるか?」

 そう言うと、萩谷はリビングへと戻っていった。

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