top of page

Photo by StockSnap

【第3回】論理屋

 スマートジェネティクスジャパン第三試験棟、水産課試験室。そこは元々、クロマグロの発育調査を担当する部署だった。

 DNAを組み換えたマグロを育てて、世代ごとの変化を観察するのが主な目的である。クロマグロの遺伝子組み換えは何十年と研究されてきた分野ではあるが、天然のクロマグロと比べると、遺伝子組み換えマグロはどうしても味が落ちてしまう。すでに市場に流通しているとは言え、国内でのシェアは二割を切っており、更なる改良を求めて、エスジーでは五年ほど前から遺伝子組み換えマグロの研究に注力していた。

 しかし、ここ半年はどうも様子が変わってきている。昨年九月に、長崎県福江島で新種のウイルスが発見されて以来、ここ水産試験課では治療薬の評価が主な業務となっていたのである。

 九月の時点では、ウイルスの存在自体が機密情報として慎重に議論されていた。エスジー上層部および一部の軍関係者、政府関係者間のみで協議され、一般世間には非公開の情報であった。このウイルスは、後に世界中でパンデミックを引き起こす『エスウイルス』と判明するが、当時はまだ確証を得ていなかったのである。「何だかよく分からないが、新種のウイルスが韓国から持ち込まれたらしい」。慌てた上層部は、ウイルスの特定よりも先に、治療薬とワクチンの開発を急いだ。

 さて、福江島で採取したウイルスのサンプルは、小倉にあるスマートジェネティクスジャパン生態遺伝研究所福岡センターに持ち込まれた。そして厳密な調査の結果、小倉研は「サンプルはエスウイルスの変異体である」と結論付ける。東京にある地下研が初代超人「カイ」を殺処分するために作り出した細胞老化ウイルス『エスウイルス』と、遺伝子の配列が九九・七パーセント一致したのだ。

 この件はすぐに極秘案件となった。エスジージャパンでは、最高レベルの情報流出案件として内部調査が行われ、犯行人物の特定が進んだ。アメリカにあるエスジー本社は、地下研に眠っていたエスウイルスのデータを要求し、日本側もこれに応じた。ワクチンおよび治療薬の開発は、アメリカ本社に委ねられたのである。

 ところが、これに反発した者がいた――藤崎幸大――エスジージャパン取締役の一人であり、超人プロジェクトの初期からそれに関与する実質的な指揮者である。

 藤崎とその右腕である九鬼清志郎は、アメリカよりも先に治療薬を開発しようと模索した。ワクチンの開発はアメリカ側に任せ、日本側だけで独自の治療薬を開発しよう、そしてその利益と権利を独占しようと考えたのである。

 二人は薬剤部に治療薬の開発を、試験部にその評価を命じた。薬剤部、試験部ともに、二人の息のかかった人間は何人かおり、彼らは薬剤部と試験部が持つありとあらゆるリソースを活用して、優先的かつ極秘に治療薬の開発を進めた。そこで白羽の矢が立ったのが、水産課のマグロだったというわけだ。

 第三試験棟には、ラットやマウスなど様々な検体が飼育されている。しかしラットやマウスはどういうわけか、エスウイルスに対する感受性が低かった。感受性が低いということは、そのウイルスに感染しにくいということであり、検体として適していない。そこで調査を進めると、新しいエスウイルスは、どうやらヒトの筋細胞から侵入するらしいことが分かってきた。近年のGMCには、筋組織におけるエネルギー生産量向上のため、クロマグロ特有の遺伝子構造が組み込まれている。エスウイルスは、このクロマグロの遺伝子が作り出すたんぱく質に反応しているようで、クロマグロを検体に試してみたところ、クロマグロの方がラットやマウスよりも検体として優秀だったのである。上層部から「マグロを検体として、治療薬の開発を進めるように」との指示が出たのは、それから間もなくのことだった。

 

 ぴしゃりと水が跳ねた。

 薄暗い体育館のようなだだっ広い試験室。辺りには薄らと魚臭が漂う。

 天井には剥き出しの配水管が通り、室内には長方形の生簀が十数個並んでいた。

 白い蛍光灯が照らす生簀の水は黒く透き通り、水面がぽこぽこと白い泡を立てている。水中には、三〇センチから五〇センチくらいのクロマグロたちが悠々と尾びれを振り、鯉のようにじっと浮かんでいた。

 その手前奥にある生簀の周りが何やら騒がしい。

 青い作業服に白い長靴を履いた数人の若者たちが集まって、生簀の周りできゃっきゃっと騒いでいた。若者の一人は手にたも網を持ち、それを水中に何度も突っ込んでいる。どうやら若者は、マグロを網で掬おうとして出来ないでいるようで、それを見ていた周りは笑いながら野次を飛ばしていた。

「おい! お前ら、何やってんだ?」

 そこに声を張り上げたのは、ここの主任研究員、萩谷真である。

 頭は綺麗に禿げ上がり、頬はこけている。口元には立派な白髭を蓄え、落ち窪んだ両目は眼光鋭く生簀の方を見つめていた。骸骨に皮が張り付いたような不気味な顔をしているが、彼はここのベテラン研究員である。

「ナニって、サンプル採ってんすよ!」

 若者は不服そうに声を張り上げる。萩谷は試験台から立ち上がると、ゆっくりと生簀の方へ近づいていった。

「そんなの分かってる。やり方が違うって言ってんだ」

 萩谷はそう言うと、恐ろしい顔で若者を睨みつけた。

「柴崎からやり方聞いてねえのか?」

「聞いてないす。あの人、フィルターの掃除しか教えてくれなかったし、ねえ?」

 若者たちが笑い合う。

「フィルターも網も原理は一緒だ。水の抵抗が最小になるように動かすんだ。じゃないとマグロが逃げちまう。貸してみろ」

 そう言うと、萩谷は網を水中に入れた。

 じっと息を潜め、水面のうねりを睨みつける。と、近づいてきたマグロ目掛けて、ふんと気張って網を持ち上げた。

「おお!」

 拍手と歓声が湧き起こる。萩谷は舌を鳴らした。

 

 萩谷は生物物理学の博士号を取得後、三四年にエスジーに入社している。

 萩谷は入社当時から不器用な性格で有名で、対人関係に難を抱えていた。研究者特有の、と言ったら語弊があるかもしれないが、萩谷は自身の研究以外にまるで無頓着な人間で、先輩に対する敬語や忖度といった、いわゆる『場の空気を読む』ことが苦手であった。「率直である」と言えば聞こえはいいが、周囲からすれば「面倒な相手」である。

 一方で、萩谷の何かを突き詰めて考える思考や、何度も試行錯誤する胆力、そして豊富な知識に基づいた偶発的な閃きは他を圧倒しており、研究者としての萩谷は、生物物理学会において細胞骨格の専門委員に名を連ねるなど、他の研究者から一目置かれる存在であった。付き合いにくいが頭脳は一流、単純明快に表現するならばそうなる。

 その萩谷が自身の言動を改めるきっかけとなった出来事がある。

 萩谷は、そのストレートにものを言う性格から、研究棟の様々な部署を毎年のように異動していたが、同時に数多くのプロジェクトに参加して研鑽を積んできた。その中の一つに、超人プロジェクトがある。

 超人プロジェクトは、当時、地下研にある極秘の研究グループ『ツァラトゥストラ』が主導していた。グループには錚々たる顔ぶれが名を連ねる。大久保和樹、竹中真由美、早見凛太朗――皆、当時の人工胎生研究の分野において国内外で有名な研究者たちである。そのような選りすぐりの研究者たちが十数人と集まる中、萩谷は多能性幹細胞からつくった人工胚に、ウイルスの遺伝子の一部を移植する研究を行っていた。目的は不老能力の再現である。

 不老不死の実現は、人類史における永遠のテーマと言ってもいいだろう。誰もが憧れ、誰もが羨む、それが不老不死だ。しかし実際にそれを実現しようとなると、それは途端に最も難しい研究テーマに変わる。それは過去の超人に不老能力を持つ者が一人しかいないことからもよく分かるだろう。しかもその一人は、超人プロジェクト史上最大の失敗作として、今もエスジージャパン本社ビルの地下に幽閉されている。初代超人「カイ」のことだ。

 カイは『不老遺伝子』と『自己修復遺伝子』を同時に付与した結果、死ねない人間となった超人である。

 カイの不老能力は細胞の寿命を延ばすことで実現している。具体的には、染色体の末端部にあるテロメアの伸長である。テロメアはDNAの分解や修復から染色体を守る役割を持っているが、細胞が分裂するたびに短くなっていき、テロメアがなくなると、細胞はそれ以上分裂できなくなる。そこで当時の研究者たちは、このテロメアを長くしてやれば、細胞の寿命が延び、不老とはいかないまでも、若々しい身体を維持できるのではないかと考えた。

 しかし実際はそうならなかった。たしかに細胞の寿命は伸びた。しかし同時に、異常細胞の増殖も確認されたのである。通常であれば、異常細胞は増えないように体内で制御されている。しかしカイの場合、自己修復に関係する遺伝子群が異常細胞を異常と認識しなくなっていた。異常細胞が増えれば、そこは癌化し、何かしらの疾患を発症する。しかしこれも、カイの免疫系がことごとく攻撃し、排除した。死なない人間の誕生である。

 それならば、不老不死を実現したじゃないかと思う人もいるだろう。その通りである。不老不死は実現した。しかしカイには別の致命的な問題があった。心がなかったのだ。生物としての基本的な感情はある。怒り、怯え、不安、喜び。しかし思慮や思いやりといった人としての知性がない。つまり、道徳や倫理、情といった社会的な概念が理解できない。それに加え、カイは言語を獲得しなかった。コミュニケーションが取れないのである。

 上層部は心と不老能力の両方を兼ね備えた超人を切望した。もちろん萩谷もそれに応えようとした。しかし不老能力のための最適な遺伝子の組み合わせはそう簡単には見つからない。研究は困難を極めた。

 そうした状況の中で、萩谷に転機が訪れる。

 大久保と竹中のチームが、テロメアを短縮するウイルスを偶然発見したのだ。彼らは自然界に存在するウイルスの遺伝子を調査し、その中から超人に応用できそうなたんぱく質を探し出すチームだったが、ウイルスの遺伝子を切り貼りしていると、稀に新種のウイルスが作り出されることがある。そうしたウイルスは当然、安全に廃棄されるわけだが、このウイルスは残された。細胞を老化させるウイルスを発見したかもしれない――報告を受けた上層部が、これを使ってカイを殺処分することを決定したのである。

 さて、二〇五六年八月、ツァラトゥストラはカイに細胞老化ウイルスを投与した。

 午前中にはケージの中を活発に動き回っていたカイも、午後には床に座り、動きを止めた。

 午後四時過ぎ。カイ、失神。床に倒れる。

 同日午後五時。カイ、蘇生。興奮状態で地下研給水システムを破壊する。これにより地下二階部分は浸水。カイは暴走状態のまま実験室内に閉じ込められた。

 カイの暴走はツァラトゥストラ内で衝撃をもって受け止められた。この事故での負傷者は七名、うち一名が重傷、二名の死者も出た。また浸水による被害は甚大で、地下二階にあった実験機器はその大半が故障、ローカル実験データは損壊した。

 その後、グループ内で意見が交わされた。

 負傷した仲間を気遣う者、研究環境を嘆く者、消えてしまった過去データを憂う者、様々だった。この状況を公表できないもどかしさを訴える者もいたし、カイは死なないと匙を投げる者もいた。そんな中、萩谷は「カイが暴走したのには理由がある、その理由を解明すべきだ」と主張した。しかし、これに猛反発をした人物がいた。当時、生態遺伝研究室の主任研究員だった早見凛太朗である。

 早見は、細胞老化ウイルスは危険なウイルスであり、今すぐに廃棄すべきだと主張した。ウイルスの扱いを巡って意見が対立したのである。それでも萩谷は一歩も譲らなかった。カイの暴走の理由が判明すれば、不老能力の解明につながると考えていたからだ。

 萩谷は理路整然と早見を追い込んだ。時にはきつい言葉で罵倒することもあった。そしてこの萩谷と早見の対立は長く尾を引いた。

 それから数ヶ月が経ったある日、早見がグループを抜けることが皆に知らされた。上層部は、早見がプロジェクトを去る形で、グループ内の鬱屈した空気を変えようとしたのである。しかし原因はむしろ萩谷にあると考える者も少なくなかった。新参者が残って、グループの功労者がプロジェクトを去るなんてことはあり得ない。事態を重くみた大久保は、後日、萩谷を呼び出した。そして深く言い諭した――意見を言うのは良い。だけどそこには礼節がなければならない――と。

 それ以来、萩谷は自分の言動に注意するようになった。目上の人間には拙いながらも敬語を使い、その場の状況に応じて礼儀を尽くすように変わっていった。萩谷が試験棟にやってきたのも、そういう理由からである。萩谷は昨年まで、研究棟内で人工細胞の研究に関わってきたが、第一研究センター長の大久保から「君の手でエスを終わりにしてくれないか」と直に説得され、昨年十一月に試験棟へ移ってきた。

 

「俺が偉くなっても、お前らは絶対に引き抜かんからな」

 たも網を持つ若者がとぼけ顔で言い返す。

「何言ってんすか。ハゲタニさんが偉くなるわけないじゃないすか、ねえ?」

 また、若者たちは笑い合った。

「ここに来たってことはそういうことすよ。僕らも、ハゲタニさんも」

「おまえら、その呼び方やめろ。谷さんでいい、谷さんで」

 萩谷はぽりぽりと頭をかいた。

 萩谷は今年六十二歳になる。年を重ねるほどに、若者の無礼は目に付くものであるが、自分が昔そうであった者は時にそっと目を逸らす。自分は周りと比べて何者でもない、まだ何も成し遂げていない、そういう謙虚さと向上心を身に着けた者は、目下の態度を気に留めない。

「とにかく早く検体を上げろ」

 萩谷はそう言うと、試験台へと戻っていった。

 三月も二週目に入り、いよいよ臨床試験の結果報告の時期が迫っていた。

 今回で合格しなければ、もう後はない。

 ただ、それを指示した九鬼清志郎は、先月の頭からもう一カ月以上、欠勤している。警察は、毎日のように本社ビルにやって来ているし、皆は、九鬼が何かの事件に巻き込まれたんだろうと噂していた。

「九鬼さんといい、柴崎といい、一体どうなってんだ……」

 本来であれば、萩谷が今している検体の記録は、柴崎の担当業務である。しかしその柴崎も、先週の水曜日から無断欠勤を続けている。

「懲戒だな」

 その時、萩谷は試験台の隅で明るく光るスマートフォンに気が付いた。会社から支給された試験記録用のスマートフォンである。

 画面を覗くと、新規チャットが立ち上がり、メッセージが届いていた。普通は名前とアイコンが表示されるものだが、そこには初期設定のアイコンがあるだけで名前はない。

 不思議に思いつつ、メッセージを開封する。

『お元気ですか? 今夜、久しぶりに二人で飲みませんか? 早見』

 その名前を見た途端、萩谷の口から小さな困惑がぽんと飛び出した。

 様々な疑問が頭を巡り、忘れたはずの過去が脈を打って動き出した。

 萩谷は口を手で覆うと、声も出せないまま、ゆっくりと髭を撫で下ろした。

bottom of page