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Photo by jplenio

【第2回】目覚めた超人

 早見が西田と最後に話したのは、十二年ほど前のことだ。

 当時の早見は、進むべき道が分からず、自身の将来に不安を抱えていた。所属していた研究グループ内で意見を対立させ、後味の悪い抜け方をしたためだ。今でこそ、あの時の選択はあれで間違っていなかったと思えるようになったが、当時は食事が喉を通らず、夜も眠れずにいた。あなたは日本人じゃない、日本の文化を分かっていない、研究とは関係のないところで心無い言葉を浴びせる者もいた。それまで仲間だと思っていた周囲が、急に冷たい態度を取るようになった。

 早見は動揺し、毎日祈りを捧げた。郷里を思い出し、辞職を考えた。そして家族と話し、学生時代の親友と話をすると、それから何日もしないうちに西田から連絡が来たのである。

 西田は早見を奥多摩散策へと誘った。

 二人は晩秋の奥多摩を歩き、互いの現状を語り合った。何があったとか、どうして落ち込んでいるのかとか、そういうことは一切聞かなかった。ただ、互いの鬱憤を笑い飛ばし、学生時代の昔話に花を咲かせたのである。これは後で分かった話だが、この時の西田は、早見が消沈しているのを仲間から聞いて、何も聞くまいと心に決めていたようだった。今回もそうだ。早見が「診て欲しい若者がいる」と話すと、西田は何も聞かずにそれを引き受けた。西田はそういう人間である。義理堅く、思慮深い。

「しばらくだね、元気だった?」

 西田はそう言うと、早見から離れたところでマスクを外した。

 綺麗に髭の剃られた口元が、にっと横一文字に結ばれる。

 早見は胸の前で合掌し、深々と頭を下げた。

「やめてよ、リリー。僕はなんとも思ってないから」

 恥ずかしそうに目を細めて、西田は松の木を見上げる。

 からっと晴れた青空に松の緑がよく映えていた。

「先日、退職したんだ」

「へえ」

「四十三年。色々あった」

「そう。お疲れ様。家族は元気?」

「たぶん」

「たぶんってなによ? まだお兄さんと仲直りしてないの?」

 早見が首を振ると、西田は目尻に皺をたくさん寄せて気まずそうに笑った。

「先月、弟から連絡があって、母が亡くなりました」

 そう言ってから、早見は俯く。

「そっか……」

 西田はまた松を見上げた。

「僕らもそういう歳だもんね」

「まだ会えてないんだ」

「この状況じゃ、当分、無理だよ」

「そう。難しい……」

 早見は押し黙った。色々と言いたいことはある。だけど言えない。

 その様子を見て、西田がゆっくりと振り返る。

「君が言ってた若者だけど――」

 そしてじっと早見を見つめた。

「左下腹部に射創痕があった」

「射創痕?」

「うん。穿透創と言ってね、弾は体を貫通している。かなりの至近距離から撃たれたものだと思う」

「撃たれた? 自分じゃなくて?」

「それは分からない。本人は建築資材が刺さったって言ってたけど、僕が見る限り、あれはおそらく、撃たれてから数時間しか経っていない傷だろうと思う。ただね――」

 西田は首を傾げる。

「不思議なのは、腹腔内の出血が止まっていたことなんだ。腸管と胃の一部に、あれだけの損傷の痕があるにもかかわらずだよ?」

「どういうこと?」

「普通に考えて、生きていることがあり得ない」

 西田の老いた両目が早見を射抜いた。

 その目はあまりに厳しく潔い。穏やかで落ち着いてはいるが、ずっと見ていると、頭の中を見透かされるような目つきだった。まるで、親友なら隠し事はなしだと言われているようだ。

「つまり修復が始まっていると?」

「修復?」

 西田の眉間に不満げな皺が寄る。それを見て、早見はしまったと口篭もった。

 もはやエスジーの人間ではないという気の緩みから、思わず口を滑らせた早見だったが、それに西田が気が付かないわけがない。

「リリーは、僕たちが自習室で朝まで話したことを覚えている?」

 西田はゆっくりと早見に近寄ると、また優しくも厳しい目で早見を見つめた。

「あの時の友人として言うけど、僕は君らのやってきたことに賛同はしていない。エスジーはたしかに世界有数の遺伝子組み換え企業かもしれないけど、この国がこうなったのは、君らの責任でもあるんだ。その辺、よく心に刻んでおいてくれよ」

「分かってるよ」

「ならいい」

「それで、彼は今どこに?」

 それには答えずに、西田は静かに背を向ける。そしてそのまま白衣のポケットに手を突っ込むと、ゆっくりと母屋の方へ向かっていった。

 

 

 二〇〇〇年代初頭、ヒトゲノムの解読が急速に進められると、どこにどんな遺伝子があるのか等のヒトの全ゲノム情報が明らかになっていった。

 二〇二〇年代に入ると、今度は個々の遺伝子についての機能解析が行われる。その結果、三〇年代の半ばまでには、どの遺伝子がどのような役割を持つか、ほぼすべての遺伝子についての機能解析が完了したと言われている。

 そうなると、次のステップは遺伝子の編集となる。個々の遺伝子の役割が分かった今、それらをどのように変更すれば、例えば癌になりにくいだとか、ストレスに強くなるだとか、そういう個人の性質を生前からある程度コントロールできることが分かってきたのである。

 もちろん世論はヒトゲノムの編集に否定的だった。倫理的にも、既存の法律的にも許されることではないと、日本学術会議、日本医師会など様々な権威団体が反発した。しかし、アメリカ、イギリス、インド、そして中国と、ヒトの受精卵に対する遺伝子操作を解禁すると、世論は少しずつ変わっていった。世界の潮流に乗り遅れてはならないと、この国の危機感を煽る論客が増えていったのである。そんな中、立法されたのがフジサキ法だった。

 二〇三八年、フジサキ法は、遺伝的疾病の回避に限定した遺伝子操作を可能とした。

 四二年には、フジサキ法に続いて、先天性疾患の治療を目的とした遺伝子操作を解禁している。

 そして翌四三年、政府はついに、遺伝的疾病の回避目的以外でも、生殖細胞系列の遺伝子操作を可能とする『改正フジサキ法』を施行する。デザイナーズチャイルドの実質的な解禁であった。

 企業はこぞって『ヒト』の製造に取り掛かった。

 スマートジェネティクス社、マックスジーン社、ヒューマンインテリジェンスアカデミー。次々と人工胎生企業が生まれていった。

 ジェネティカリーマニピュレイティドチャイルド――GMC――は、それら企業が生み出した、遺伝的に能力を設計・付与された人間である。運動が得意な人間、容姿の良い人間、頭の良い人間。どんな人間でも作ることができた。まさに遺伝子でその人の価値が決まる時代、人類がこれまでに体験したことのない新時代の幕開けである。

 しかし人の欲望というものは果てしない。ある程度、企業がヒトを作ることに慣れ、ヒトが作られることに国民が慣れてくると、今度はスーパーヒューマンを生み出そうと企業が動き出す。『超人』――怪力や毒耐性、痛み耐性、自己修復能力、不老能力など、自然に生まれてくる人間では獲得し得ない力を生前から遺伝的に付与されたGMC――は、そうした流れで人工胎生企業の大手が秘密裏に進めてきた機密プロジェクトの中で生まれた。

 柴崎望は、スマートジェネティクス社が産み出した超人である。ただし柴崎の場合、エスジーの超人プロジェクトにおいて、付与したはずの能力がまったく発現しなかった、いわゆる『不適合者』であった。

 

 縁側から見える庭に、先日降った雪がまだ少し残っていた。

 半分開いた障子の向こうから、鳥のさえずりが聞こえてくる。

 その障子をそっと閉めて、世話係の老女は去っていった。

 床の間には、木の枝に止まった尾長の掛け軸があった。有名な作家が描いたのであろう。先ほどから聞こえる鳥のさえずりは、この尾長が発しているのではないかと錯覚するほど写実的な絵だ。

 その手前には、まだ蕾のままの桃の花がいけてあった。桃の花は蕾からほんの少しだけ桃色を見せ、物静かな空間に色を添える。左手には付け書院、右手には違い棚、地袋の上には桃のいけられた花瓶と同じ種類の陶磁器が飾られていた。部屋は伝統的な書院造りで整然としている。

 奥の部屋への襖は閉まり、天井の電気は消えていた。

 薄暗い部屋の中央、畳の上には布団が敷いてあり、そこに柴崎が横になっていた。老女の話では、つい先ほど、ちょうど目を覚ましたところのようだった。

「柴崎君……」

 柴崎は天井をぼうっと見つめたまま、静かに息をしていた。

 髪はぼさぼさで顔はうっすらと青白い。目鼻立ちの整った端正な顔をしているが生気がなかった。

「とにかく無事でよかった」

 布団の傍にゆっくりと胡坐をかいて、早見はほっと息をついた。

 我が子の無事を喜ぶ父親の心境と言ってもいいだろう。なぜなら早見は、柴崎のことを彼が二歳の頃から知っている。

 先にも言った通り、柴崎は超人プロジェクトで生まれたGMCだ。異常細胞の増殖を抑えるTN5遺伝子を組み込んだ初の超人として、生まれる前からその能力に期待が高まっていた。

 通常、超人プロジェクトで生まれたGMCは、二歳までにその特異な能力の片鱗を示す。しかし柴崎の場合、それがまったく観察されなかった。これに危機感を抱いたプロジェクトの上層部は、原因解明のためにあらゆる分野から人を集め出す。これに早見も呼ばれ、生態遺伝学的観点から超人能力の発現を抑えている原因遺伝子を特定することを課題として、柴崎の成長と発達を観察した。早見凛太朗、四十五歳の時である。

 遺伝的に設計された能力が正常に発現しなかったGMCはたくさんいる。発現しても、期待値より低いこともある。しかし大抵は、付与された複数の能力のうち、どれか一つは発現するものである。柴崎のように、付与した能力のどれも発現しないなんてことは皆無であった。何かが彼の能力を抑えている――早見はそう考えていた。そしてその何かを取り除いてやれば、彼は超人としての能力を取り戻す、そう信じていた。

 ところがプロジェクトは唐突に終わりを迎える。上層部が柴崎を諦めたのだ。一向に超人としての能力を示さない柴崎は、超人部門から一般部門へと移され、汎用GMCと一緒に教育された。その間、早見は柴崎を定期的に継続調査することを上層部から依頼される。非常に稀なことだが、成長の途中で発現しなかったものが、何かのきっかけで突然発現することもあり得るからだ。そうして早見は先日の退職に至るまで、月に一度、血液検査とGMC能力診断を柴崎に行っていた。

 もう二十年以上になる。手の掛かる息子と言っても差し支えないだろう。

 柴崎は、聞こえているのかいないのか、ぼうっと天井を見上げたままだった。時折、まばたきを繰り返し、またぼうっと虚ろな目を天井に向ける。

 その様子を見て、早見は、彼はきっと何らかのトラブルに巻き込まれたんだろうと思った。

 何があったかは分からないが、病院へ行かずに私に電話をしてきたということは、きっと人に言えないトラブルなんだろう。ただ、何があったにせよ、西田が言うことが本当ならば、彼の中の修復遺伝子が働いている可能性が高い。なぜ急に修復遺伝子が活性化したかについてはこれから調査が必要だが、今は長い間眠りについていた『超人』の目が覚めたことを喜ぶべきだろう。二十五年だ。二十五年経って、ようやくだ。

 するとその時、柴崎の唇が微かに動いた。

「先生……」

 喉に痰が絡まったような掠れ声が漏れる。

「僕、犬を散歩してたんです。そしたら、女の人が……」

 早見はすぐにぴんと来た。

 それは以前、柴崎が早見に話した『妙な記憶』だった。その内容は、河川敷を女性と一緒に犬を散歩していて、女性に話しかけようと振り返ると、その女性が消えていなくなっていたという嘘のような話だ。そして早見はこれを柴崎の過誤記憶だと思っていた。過誤記憶というのは、実際には起きなかった出来事を本当に起きた出来事のように思い出す現象のことだ。

「うん、大丈夫。分かっているから、喋らなくていい」

 すると柴崎は、ゆっくりと首を振った。

「成人、おめでとうって……」

 喉から声を絞り出すように言った後、柴崎の目に見る見るうちに涙が溜まっていく。

 やがて涙は、つうと頬を流れ落ちた。

 早見は胸が締め付けられる思いだった。

 通常、GMCは親を知らずに育つ。人工子宮から生まれた彼らは、そのまま保育器へと移され、研究施設の中で年齢に応じた教育プログラムを受けながら育つのだ。多くのGMCは、本当の親を知らずとも、施設の先生やスタッフを親の代わりとして成長していく。しかし中には、「親なんかいない」と強がりを吐きながら、心の奥底では親に会いたいと願う者もいる。親という存在に執着し、親に対する妄想や鬱屈した感情を無意識のうちに募らせていくのだ。

 柴崎がそうだった。そしてその話しぶりから、柴崎はきっと生死の境で、母親の妄想でも見たのだろうと早見は思った。

「分かってる。分かってるよ。だから今は安心して眠るんだ」

 すると柴崎はまた首を振った。

「会いに、行きたいんです……。母親に……。シンガポール……」

 その言葉に、早見は動揺した。

 シンガポール? まさか柴崎が母親を特定したとは考えられない。

 通常、配偶子の提供者は秘匿されている。GMCが誕生した際に発行される出生証明書には、父親と母親の情報が載っているが、それらはただの英数字であり、政府および関係者以外、何者であってもそれらを辿ることはできない。

 逆に、配偶子の提供者が自分の子を知ることもできない。仮に何らかの方法で自分の子を特定できたとしても、子どもに会うことはもちろんのこと、連絡を取ることも許されていない。これは配偶子を提供する際に、企業と提供者の間で結ぶ契約の一部であり、具体的な報酬額や守秘義務、扶養義務の放棄なども含め、この契約は生涯続く。配偶子の提供者を守るための措置でもあるのだ。

 ではどうして柴崎の口から『シンガポール』と具体的な国名が出てきたのか?

「そうかい……」

 ようやく出てきた言葉は、早見の胸に込み上げた動揺を消すにはいたらない。

「柴崎君……」

 早見は無理に話題を切り替えた。

「今はとにかく休むことが先決だ。西田君には僕から言っておくから、その傷口が閉じるまでしばらくここで休むといい」

 穏やかな調子で諭すように語り掛ける。

 柴崎はゆっくりと頷いた。そして早見の方に顔を向けると、一生懸命に言葉を絞り出した。

「言わないで……、誰にも……」

 まるで神に祈るような顔だった。その目の奥に何かとても強い意志を秘めたような決意の顔だ。

「言わないよ。安心して」

 早見が微笑むと、柴崎はようやく安心したように静かに目を瞑った。

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