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【第12回】超常現象

「アヤンクマルも物を消せるのか?」

 ケンはそう言うと、まな板の上に切り分けた林檎にかぶり付いた。

 甘酸っぱい林檎の芳香が霧のように部屋の中に漂い出す。

 ここは都内にあるビジネスホテルの一室。カミナリの息がかかったホテルのため、警察に密告される心配はない。

 地上九階建ての最上階にあるデラックスルーム。床はフローリング、天井にはファンが回り、奥にはミニキッチンと洗濯機、それからワインセラーもあった。シャワーブースは硝子張りで、中のバスタブが見える。部屋の中央にはキングサイズのベッドが一つだけ置いてあり、頭側の壁一面に、九分割された一枚の巨大なモダンアート絵画が飾られていた。

「たぶんな」

 サムは窓際のソファに座って手のひらをじっと眺めていた。

 手のひらには餅のように膨らんだ小さな瘤がある。それは、皮膚が盛り上がり、痛々しいほどに腫れ上がったピンポン玉ほどの瘤だったが、しばらくすると、すっと手の中に消えた。しかし奇妙な現象はこれで終わらない。サムはまたぷくりと手のひらの上に瘤を出すと、それを手のひらの上で移動させた。すうと、まるで意思を持った生き物のように、それは手のひらから手の甲、そして手首、それからまた手のひらへと動き回る。

「物を出すこともできるのか?」

 林檎をむしゃむしゃとやりながら近づいてきたケンは、薄切りの林檎が並んだ小皿を窓際のテーブルに置いて、自分はベッドの端にどしんと座った。そしてじっとサムを見つめる。

「できるさ」

 サムはそう言うと、今度は手のひらをケンに向かって差し出した。すると、まるで空気から物が作られたかのように、何もない空間から突如として緑色のミニカーが現れる。サムの手の中には、何度も使い古して所々塗装の剥げたおもちゃの車が握られていた。

「どうやってんだか……。何回見ても、さっぱり分からん」

「夢みたいなものだ。ここが夢の中だと思えばいい」

「夢の中ねえ……」

「意識するんだ。そこに林檎があるって信じろ」

 ケンは言われた通りに自分の手のひらに集中した。しかしどれだけ手のひらの上に林檎を想像してみても、やはり林檎は現れてくれない。

「なんであんたにはできて、俺にはできないんだよ」

 悔しそうに林檎をかじるケンを横目に、サムは手の中にミニカーを握り込む。するとそれはサムの手の中で煙のように消えた。

「お前にはできない。お前は俺だから」

 そう言って、サムは硝子窓に目をやった。

 真っ暗な窓には、右手にある壁の絵と白いベッドと、それから美しい女性のような顔つきの自分が映っていた。

 これは俺じゃない――心の中でつぶやく。

 俺が選んだ顔でもない。誰の顔なのか。実在する顔なのか、想像上の顔なのかも分からない……。

「それ、前も言ったよな。どういう意味?」

 ケンの声に、サムはケンに振り返る。そしてじっと見つめ、消えろと念じた。

 すると、ベッドに腰掛けていたケンの姿がその手に持っていた林檎とともに一瞬で消えた。ケンの息遣いも、気配も、まるで初めからそこにいなかったかのようにさっぱりと消えてしまった。

「こういう意味」

 数秒ほど経って、今度はまるでホログラム映像のようにケンの姿が再び現れる。

 ケンはベッドの端できょとんとしていた。

「前から聞こうと思ってたんだ。消えている間ってどんな感じなんだ?」

「知るか!」

 ケンが大声を出す。サムは両目を手で覆って笑うと、また硝子窓に目をやった。

「ずるいだろ、そんなの。チートだ、チート!」

 文句を言い続けるケンを意識の外に追い出して、目の前の硝子窓に集中する。それから手のひらをそっと硝子に近づけると、曲がれと念じた。しかしいくら待っても、硝子は曲がらない。どれだけ強く念じても、どれだけ長く続けても、硝子は硬くて冷たい硝子のままだった。

 この世界では、できることと、できないことがある――。

 前髪をそっと持ち上げると、窓に映る自分の額に瘤のような小さな膨らみがあった。

 思い通りに動かせない人や物もある――。

 サムは額の瘤に指先でそっと触れると、諦念まじりの息を吐いた。

 なぜかは分からない。けどたぶん、この世界に他人が作り出したものは自由に動かせない。他人が作ったというか、他人の思いが入り込んだというか、そういうものは俺一人ではどうにもならない。それは俺が作ったものでもそうだ。俺がこの世界に作り出したものに少しでも他人の思考というか、意識というか、そういうものが入り込んだ瞬間、それはもう俺一人のものではなくなる。きっとこの目もそう。この目は俺以外の誰かの意識が入り込んでいる。だから自由に動かせない。この目を消すには、おそらくそいつの合意が必要なんだ。

 するとその時、ケンの丸眼鏡が緑色に点滅した。

 ケンは眼鏡のテンプル部分に指を当てて誰かと話していた。

「うん。ああ、分かった」

 顔を上げたケンの目に熱と力が漲っている。

 久しぶりに見た狩りの顔だった。以前はケンの中に、冷静で無慈悲なケンと、生意気で無邪気なケンの両方がいた。しかしケンが老いた今、生意気で無邪気だったケンの面影はどこにもない。

「どうした?」

「カズトモから。覇王のファンルームに最初にあの動画上げたヤツ、分かったって」

「誰?」

「マサトってヤツらしい」

 ケンは親友の仇でも見つけたような真剣な表情で丸眼鏡に表示された情報を読み取っていた。

「住所は……、板橋だ。どうする?」

「まずはそいつに会って、話を聞いてみよう」

「でもこの前ジェイズで会ったヤツ、死んだって言ってなかった?」

「そのマサトってヤツが、あいつの知り合いとは限らない。行くだけ行ってみよう」

「たしかに……。でもあいつ、間違いなくカミナリの人間だったよな? 問題は、クマさんと俺ら、どっち側か……」

 ケンはニット帽を手に考え込んでいた。

「どっちでもいい。行くぞ」

 サムはゆっくりと椅子から立ち上がると、頭にパーカーのフードを被った。

 マサトの家は古びた集合住宅の一角にあった。

 そこは環状八号線に近い大型のアパート群で、道路を跨いだ広大な敷地にAからEまで五棟のアパートが建ち並んでいた。それぞれの建物は四階建てになっており、建物の壁はカビが生えたように薄黒く汚れている。マサトの部屋はC棟の四階にあった。

「低所得者用か?」

 ケンが前を歩き、そこから二十メートルほど離れてサムが歩く。こうすることで、不意に誰かに襲われたとしても、どちらかは逃げることができる。

「みたいだな」

 二人はブルートゥースで会話していた。ケンはMRグラス、サムは耳にSEPを嵌めている。

 敷地内の植え込みは茂みと化して、歩道を侵食していた。以前は園庭であったであろう住民の憩いの場も、蔓が絡まり、細い木の根が地面を覆い尽くしている。

「何人住んでんだ?」

 ケンは目の前に見えてきたC棟の明かりを数えていた。

 ざっと見て、各階およそ四十部屋、一棟約百六十部屋ほどの大規模マンションのようだが、部屋の明かりは十個も点いていない。

「猫の方が多そうだな」

 歩道の両側からは、数十匹はいそうなくらいたくさんの猫の鳴き声が聞こえていた。その猫たちの声に混じって、時折、どこか遠くから、何語か分からない男女の罵り声が聞こえてくる。

「だいぶ荒れてんな」

 階段付近の壁にはスプレーで落書きがされていた。駐輪場には、車輪のない自転車が何台も倒れたまま放置されており、屋外灯は消えていた。随分と長い間、管理されていないのが分かる。敷地全体が暗く、荒廃していた。

「気を付けろ」

「分かってる」

 コンクリートでできた狭い階段。そこをケンがゆっくりと上っていく。サムはケンが四階に上がるまで下で待っていた。

「どうだ?」

「落ち人が一人いる。薬中かも」

「他には?」

「いない。上がってきていいぞ」

 サムが階段を上がろうとした時だった。耳に嵌めたSEPから猛烈な衝撃音が聞こえてきた。バットで背中を殴られたような重い音だ。

「どうした?」

 何が起きたのか分からずにいると、今度は四階からケンの叫び声が聞こえてきた。

「おい! やめろ!」

 ケンは誰かと揉み合っているようだった。SEPからは地面を激しく擦る音が絶え間なく聞こえてくる。

 サムは階段を一気に四階まで駆け上がった。

 四階の通路に立ち、突き当たりの扉の前にケンを見つける。ケンは知らない男と地面に倒れた状態で揉み合っていた。SEPからはケンの力み声がひっきりなしに聞こえてくる。

「何してる?」

 サムはゆっくりと二人に近づいていった。しかし近づけば近づくほど、その男に見覚えがあると分かる。

 金色の短髪。白いダウンジャケット。赤いスニーカーに盛り上がった大腿筋、そして腿裏に穴の開いたデニム――。

「あいつ、この前の……」

 するとその時、金髪の男がケンを地面に押さえ付けた。

「お前、モアイの手下か?」

 ケンに馬乗りになった男の荒い息遣いがSEPから聞こえてくる。

「はあ? なんだ、モアイって?」

「モアイの手下かどうか聞いてんだぜ、爺さん」

 男は腰から十本筒を取り出すと、慣れた手つきでケンの首に十本筒の先をそっと当てた。

「待て!」

「モアイはどこだ?」

「だからモアイって何だよ!」

「富岡源」

「はあ? 誰だよ、富岡って」

「じゃ死ね」

「おい! 待て! 待てって!」

 サムからケンまで十メートル以上はあった。ここから走ったところで間に合わない。十本筒は底にあるボタンを押すだけで終わる。一瞬だ。じゃあどうするか。サムが取った選択は、ケンを消すことだった。

 サムは頭の中にケンの体が一瞬で消えるイメージを思い浮かべた。最初からそこにケンはいなかったと強く信じ、まるでディリートボタンを押すように、ケンの存在をこの世から消した。

 それに驚いたのが金髪の男だった。男は咄嗟に立ち上がり、慌てた様子で周囲の地面をきょろきょろと見つめていた。

「小人だ……。どこ行った? あの爺さん、どこ行った?」

 男は口をぽっかりと開けたまま、忙しなく足元に目をやっていた。

「お前、この前、ジェイズで会ったタケポンだな?」

 ここで男もようやくサムに気付く。男はサムに振り返ると、手に持っていた十本筒を強く握り込んだ。

「お前こそ、誰だよ?」

「誰でもいい。そんなことより、お前が言ってた『死んだ知り合い』ってのは、マサトのことか?」

 男は黙っていた。答える気はないようでじっとサムを睨んでいた。

「分かった。別に言わなくていい。その代わり、そこをどいてくれ」

 それでも男は黙ったまま、通路の真ん中に立っていた。

 そうなると、力づくで通るしかない。しかし問題は男の手にある十本筒で、あれをどうにかしない限り、無事に通れそうにはなかった。十本筒をGMCに打つと、狂暴化することがある。サムは一度十本筒を経験しているが、次に打たれた時にどうなるかはサムにも分からない。

「そこをどくか、どかされたいか」

 サムはゆっくりと男に近づいていった。しかし男はよほど自信があるのか、怯む様子もなくサムが来るのを待ち構えている。

 とそこへ、突如として、男の背後にケンが現れた。

「ジュッポンを取れ」

 サムの声に、ケンが男の手から十本筒を奪い取る。そしてすぐさま、男の首元に十本筒を突き当てた。

「お前、どこのクアリだ?」

「はぁ? カジマ?」

 その瞬間、サムとケンは思わず目を合わせた。

 カジマという言葉は、特徴的な言葉である。本当かという意味の「マジか」を逆から言うと、「カジマ」になる。驚いた時や、落胆した時など使う場面は人それぞれだが、これを実際に口にする人間はまずいない。なぜなら限られたグループ内で、限られた人物しか口にしない、謂わば合言葉のようなものだからだ。そしてサムとケンは、この言葉を最初に使い始めた人物をよく知っていた。サムのクアリで狩り頭だった『マギ』という人物だ。つまり、この男が咄嗟に口にした「カジマ」という言葉は、それだけでこの男をマギの知り合い、すなわち二人の味方にした。

 

「マギ? マジかよ」

 男に通された部屋の中で、ケンは驚いて大声を出した。

 ミニキッチン付きの縦型ワンルーム。居室には、アルミ製ラックに積み上げられた大量のタワーパソコンが置いてあった。手前の壁には普通のテレビの二倍はあるワイドモニタ、壁沿いの棚の上には複数個のMRグラスもあり、この部屋の住人が電子機器に詳しかったことが良く分かる。部屋の隅や通路には古いケーブル類が絡まったまま無造作に置いてあり、VR機器やSN機、タブレット端末の空き箱が積み重なって放置されていた。そのごちゃごちゃと物の溢れた部屋の中央、一人用の小さなローテーブルを囲んで三人は座る。

「ケンさんのことも聞いてます」

 男はタケと名乗った。タケはマギの下で働いていたらしい。マギの仕入れたザクロを売って、売上金の一部を上納するザクロの捌き屋だ。ここはそのための拠点としてマギが借りた部屋だった。そしてここに住んでいたマサトという若者は、タケの弟分のような存在で、二人で小遣い稼ぎに老人狩りもこなしていたようだ。つまり彼が持っていた十本筒はマギが彼に与えたもので、サムたちのクアリに割り当てられた十本筒の一つだったというわけだ。

「なんて?」

 マットレスのないフレームだけのシングルベッドに寄り掛かってケンが聞く。

「めちゃくちゃ頭良いけど、ヘタレだって」

「おい! 頭良いで止めとけ!」

 ケンが言うと、タケはにたにたと笑っていた。このタケという男、粗暴なチンピラのようだが、どこか愛嬌もある。

 天井には円盤状のライトが点いていた。電気は通っているようだ。角のエアコンも稼働していて涼しいが、雨戸が閉まっているせいか、湿った嫌な臭いが籠もっていた。なんと言うか、薄らと血生臭い。

「マギが捕まったのは知ってるか?」

 サムが言った。

「はい。二月にラキさんから連絡があって」

「ラキオ?」とケン。

「はい。知ってんすか?」

「いやいや、ラキオの口、ホッチキスで止めたの、この人だから」

 ケンがサムを指さすと、タケはえっと驚いてサムを見た。

 タケはちらちらと気まずそうにサムの顔を確認している。

「なんだ?」

「いや、本当にサムなんかなって……」

 ケンとサムは顔を見合わせた。タケは信じていないのだ。

「いやだって、誰も見たことないって言うし、サムは顔変えられるって聞くし……」

 するとケンは「見せてやれよ」と、サムにこの場で顔を変えるように促した。

 サムが顔を変えられるのは事実である。多少の痛みは伴うが、数十秒もあれば別人になることはできる。しかしそれを見せたところで何の意味もない。サムは驚いて欲しいわけではないし、畏れ敬って欲しいわけでもない。サムにとって、相手が信じていようがいまいが、どっちでもいいのだ。

 サムはじっと胡坐をかいたまま、タケが真っ直ぐに床に投げ出した足を眺めていた。

「その足はどうした?」

 サムがタケを見る。タケは両手で抱え込むように足を引くと、ゆっくりと膝を立てて痛そうに目を瞑った。

「これっすか? 健楼会に撃たれました」

「健楼会?」

「はい。さっき言った『富岡』ってヤツです。そいつがマー君のこと、滅多刺しにしました」

「滅多刺し? お前ら、なんかしたのか?」

 ケンが口を挟む。

「俺ら、その前にクキセイシロウって爺さんを狩ったんですけど――」

 その名前に、サムもケンもぴんと来る。

「待て。九鬼を狩ったのはお前らか?」

「はい。だから、たぶん、それで恨み買って……」

「マジか……」

 言葉がない。九鬼清志郎は狩りのリストの上位に載る『上物』だった。上物は『ウシ』から指名されたクアリが責任を持って狩る決まりになっている。下位クアリの人間が勝手に狩っていい対象ではない。

「そう言えば九鬼って、レア持ちじゃなかった?」

 ケンが言った。

「なんすかそれ?」

 タケが珍しそうにケンの顔をじっと見つめる。

 レア持ちというのは、レアメモリ――希少記憶――を持った人間のことである。裕福な高齢者に多いと言われている。ただレアメモリは、その名の通り、非常に希少な記憶で、そう簡単に見つかるものではない。そのため、記憶の移植が可能となった現代では、数千万から数億円の値で取引される高価な代物だった。カミナリは十本筒を使ってこのレアメモリを探してきたが、何千人と高齢者を狩ってきた中で、これまで一人も見つけられていなかった。

「警告マークが付いてたろ?」

 ケンが言う。

「ああ、たしかに、付いてたかも……」

「報酬は? いくら貰った?」

「いやそれが、マギさんが捕まったからか、カネが振り込まれてなくて……」

「マジか……」

「リストが更新されないから、次も狩れないし」

「リストが更新されない? 嘘だろ?」

「ホントっすよ。っていうか『神床』自体、もうかなり過疎ってますから」

「マジ?」

 ケンは驚いて目を見開いた。

 神床は仮想空間内にあるカミナリ専用の非公開部屋だ。非公開部屋なので、承認されたカミナリのメンバーのみが出入りできる。狩りのリストはここで随時更新されていたのだが、それが更新されていないということは、更新者が捕まったか、あるいは逃げた可能性がある。

「今、九鬼が失踪してニュースになってるのは知ってるか?」

 サムが言った。

「いや……。そうなんすか?」

「九鬼を狩った後、九鬼はどうなった?」

「いやそれが、マー君が刺しちゃって……」

「刺した? それで?」

「火葬場持ってって燃やそうとしたんですけど――、消えました……」

 ほんの数秒、部屋の空気が張り詰める。時が止まったような静けさが部屋に広がり、戸惑いが口を塞いだ。

 タケはじろじろとケンの顔を見つめていた。

「消えた?」

「はい。さっきケンさんが消えたみたいに」

 ケンとサムは互いに顔を見合わせた。九鬼の体が消えたということは、それを消した人間が近くにいたということだ。

「消えるところを見たのか?」

「いや俺は見てないす。『シバ』ってヤツが見てました」

「シバ……。そいつに連絡できるか?」

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