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【第13回】自棄
いつもの早見との面談後、柴崎は陰性証明書をもらうために西田に電話をかけた。
オキトコスを飲むようになってから体の調子は良かった。あと数日もすれば、四月になる。そうなれば、緊急事態宣言も明けて、成田空港の閉鎖も解除される。そうしたら、シンガポールに行ける日は近い。柴崎は仮想空間内でシンガポールの街を歩いたり、買い物をしたり、シンガポールの歴史を調べたりしながら、日々、期待に胸を膨らませていた。
西田の診療所に電話をすると、西田は診察中だった。受付が対応してくれている間、しばらく待っていると、電話口に西田の温厚な声が聞こえてきた。
「はいはい、西田です」
ゆったりと落ち着いた低い声だった。ずっと聞いているとなぜだか安心する、優しい祖父みたいな声だ。
「西田先生、柴崎です」
柴崎が言うと、西田は、
「ああ、柴崎君か、しばらくだね。体の調子はどうかな?」
と、すぐに気が付いた。何千人と診てきた患者の一人を覚えているのだから、さすがだと言うよりほかない。柴崎は声を弾ませた。
「はい。おかげさまですっかり良くなりました」
「そう。それは良かった」
「もうお風呂にも浸かれるし、一人でトイレもできます」
「そうか。完全回復だね」
西田はそう言って、はっはっはと大声で笑った。西田と話していると、心が軽くなっていくように感じるのは気のせいではないだろう。頭の中で、ずんちゃんずんちゃんと、ラテン調の陽気な音楽が流れ出した気さえした。
「先生、あの、陰性証明書を書いて欲しいんですけど」
ところが柴崎が陰性証明書の話をすると、西田は急に押し黙った。
顔は見えないし、声だけなのに、柴崎には電話の向こう側で西田が驚いているように感じられるのだから不思議である。
「リリーから聞いてない? 早見くん」
そう言うと、西田は少し間を置いてから柴崎を気遣うように言った。
「君は陽性だよ」
その瞬間、柴崎の頭に流れていた陽気な音楽がぱたりと鳴り止む。
陽性?
「陽性ってどういうことですか?」
柴崎が言うと、西田はまた少し考えてから言った。
「残念だけど、君はエスウイルスに感染している」
エスウイルスに感染……。僕がエスウイルスに感染しているだって?
それってつまり、シンガポールには行けないってこと?
考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになって、柴崎は言葉を失った。
「今のところ、一度陽性になったら、陰性になることはないって言われてる。でももちろん、偽陽性の可能性はある。だからもう一度受けるのは自由だよ。でも受けるなら、今度は大きな病院に行って診てもらった方が良いね」
まるで暗い霧の中にいるような気分だった。何も見えないし、何も触れない。どこに向かって進んでいけばいいか分からないし、何を話せばいいかも分からなかった。辛うじて「分かりました」と言えたのは、西田に対するせめてもの誠意からだろう。柴崎は、通話を切ったあとも、しばらくベッドに座ったまま頭を抱えていた。頭の中心にもやもやと込み上げてくる、怒りとも絶望ともつかない感情の渦を、それが何かも分からぬままただただ呆然と眺めるしかできないでいたのである。
◇
居室の窓から目が眩むほど白い光が差し込んでいた。
外のベランダには洗濯物が干してある。
今朝は天気が一気に春めいて、窓を開けると、冷たい空気がすうっと部屋の中に入ってきて清々しかった。
窓の外からは鳥のさえずりと車の走行音が聞こえてくる。
花柄のカーテンは端に一つにまとめられ、隣のビルではVRヘッドセットを頭に付けたスーツたちが会議机を囲んでいた。
ベランダの洗濯物は春風に揺れる。
クローゼットの扉は閉まり、ローテーブルの上には、斜めに立てたタブレット端末と緑色に明滅するスマートウォッチが置いてあった。洗濯物を外に干してある点を除いては、いつもの面談である。
「うん。オキトコスが効いているみたいだね。顔つきが随分とよくなったよ」
タブレットの中の早見は嬉しそうに微笑んでいた。
「どうする? もう一週間、追加してみるかい?」
早見の声は明るい。しかし柴崎は、その声を聞いていると、どんどんと気分が落ちていくようで嫌だった。正直に言うと、今は話したくないし、目線も合わせたくない。
「どうしたの? 何かあった?」
柴崎が答えずにいると、早見は何かを察したように言った。しかし早見が気遣うように話せば話すほど、どうしようもない苛立ちが込み上げる。そのあたかも心配したような顔も、寄り添った風の態度も、今は吐き気がするほど白々しかった。
「先週……、西田先生と話したんです」
柴崎が口を開く。すると早見はにこにこと頷いた。
「へえ、何か良いアドバイス、貰えた?」
「はい」
「それは良かった」
「僕は陽性だって」
すると早見から笑顔が消えた。それから、何か言おうとして口を閉ざした。その様子からは、早見がエスウイルス陽性について知っていたことが伝わってくる。
「リリーから聞いてないかって言われました」
早見はしばらく黙っていたが、やがておもむろに眼鏡を外すと、
「そうかい。それはすまなかったね……」
と、目頭を押さえて下を向いた。
早見はまるで高齢の万引き犯のようだった。これで目の前に盗んだ商品でも置いてあれば、店長に詰問されて、申し訳ありませんでしたと反省している犯人だと紹介されても何の違和感もない。でも同情はしない。たとえそこにどんなに過酷な背景があったとしても、嘘をついていたことに変わりはない。僕の中の裏切られた悲しみと絶望はなくならない。
「いえ、大丈夫です」
柴崎はそう呟くと、通話を切った。
背中からベッドに倒れ、天井を見上げる。
これからどうすればいいか分からない。どんどんと視界を覆うこの薄霧のような苛立ちや不安を、どうすればいいか、まるで分からなかった。
先生は僕のことを心配しているようでしていない。きっと外に出るなって言ったのだって、先生が心配していたのは僕ではなく、周りだ。だって本当に心配していたなら、僕に言うだろう? 僕に陽性を伝えて、一緒に解決方法を考えてくれるだろう?
どうして教えてくれなかったんだ?
どうして……、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?
エスウイルス陽性で、どうやってシンガポールに行けって言うんだよ!
柴崎はキャビネットの上にあったポストカードを手に取った。
くしゃくしゃに折れ曲がったカードを綺麗に伸ばしてじっと覗き込む。
消印は『SINGAPORE(5 MAR 2062)』。裏面には透き通った水色の海が印刷され、表面にはふっくらと丸みを帯びた女の人の文字が連なっていた。
『成人おめでとう。
就職も決まったようでなによりです。
親としてあなたには何もしてやれなかったけれど、無事健康に育ってくれて嬉しく思っています。
いつかまた会える日を夢見て。母より』
僕もそう思っていた。そうでなきゃ、燃え盛る炎の中にわざわざ取りに戻ったりしないよ。
柴崎はポストカードを手の中に丸め込むと、力の限り、強く握り込んだ。
でももういい。もういいんだ……。
苛立ち、悲しみ、恨み、すべて握り込んだ。
悔しくて、悔しくて、どうしようもなくなって、柴崎は手に握っていたものをクローゼットに投げ付けた。すると勢いよくクローゼットに当たったそれは、扉に当たった瞬間、一瞬だけ扉の表面に吸い込まれ、音もなく床に落ちた。
水を打ったような静寂が居室に広がっていく。
もういい。もう、なんでもいい……。
柴崎は、自分の投げたポストカードが扉に吸い込まれたことも知らずに、ベッドの上で頭を抱え、小さくなっていた。
◇
空に雲はなく、水色の空がどこまでも続いていた。
風は暖かく、ほんのりと下水の臭いがする。道の両側に並び建つ廃ビル群は、窓が割れ、緑の蔦が絡まり、まるで滅亡した未来都市でも見ているかのように幻想的だった。
四月に入って、先日の雪なんて嘘のような暖かい日が続いていた。春というには暑すぎる、夏というには乾燥している、ちょうど春と夏の間のような季節に名前はない。もっとも、人々は季節になんて興味はないといった様子で駅前広場を歩いていた。広場のベンチで猫にパンをやる老人。その猫たちを避けるように過ぎていくスーツ姿の老女。穏やかで静かな時間が流れていく。駅ビルから出てきた小太りの男性は、独り言のように誰かと会話しながら交差点の前で信号待ちをし、タクシーを降りた長身の女性は、大きな荷物を背中に背負って駅ビル内へと入っていった。緊急事態宣言は明けたというのに、駅への人の出入りはまばらで通りを歩く人も少ない。
渋谷の駅前を駐車場に向かって歩いていた柴崎は、久しぶりの外出を満喫していた。中村からは部屋を出るなと言われていたが、もうこうなってしまっては、健楼会に襲われようが、サムに見つかって消されようが、別にどうなってもいいと思っていた。そんなことよりも、車で海に行って、浜辺で美味しい蛤でも食べた方がよっぽどマシだった。蝉の缶詰は食べ飽きた。今の時期ならシラス丼も美味しいだろう。とは言え、約一カ月ぶりに吸った外の空気が生温かい下水の臭いというのは、残念な出だしではある。
柴崎はマスクでしっかりと鼻を覆うと、傷の具合を確かめるように歩を進めていった。
傷は完全に塞がっている。下腹部の痛みもない。あとは傷を意識せずに歩ければ完璧だった。
視界の端を、営業しているのかしていないのかよく分からない店舗が過ぎていく。四階建ての雑居ビルには空きテナントが目立ち、閉じたシャッターには何かの紋章のような落書きがされていた。通りに人の姿はほとんどなく、廃れた建物だけがやたらと目に付く。足元を見れば、道端には落ち葉が溜まり、ゴミが捨てられていた。視線を上げれば、かつては華やかな広告を流していたビルの巨大スクリーンも真っ黒に消灯している。その隣、ビルボード広告の取り外された屋上のパラペットでは、烏の群れが並んで街を見下ろしていた。半世紀前は若者の街なんて呼ばれていた渋谷も、今では猫と鼠、そして老人が徘徊するだけの街となっていた。鳩でさえ寄り付かない。
柴崎は通りを小走りで横断すると、やがて見えてきた地下駐車場へと薄暗い階段を下りていった。
◇
「レックス、開けて」
その声に運転席にあるコンソール画面が反応する。
画面右下の緑色のボタンが点滅すると、車の天井が真ん中で二つに割れて、ゆっくりと、まるで竜が羽を開くように左右に上がっていった。
レクサスSS4000――それは二十年以上前に生産を終了したトヨタ社の高級車だった。半自動運転、運転手認証、マルチセンサリングAIシステム、今では当たり前となった装備を当時からオプションとして搭載し、いち早く時代を先取りしていた先鋭的な車両だ。中でも、竜が背中の羽を広げるようにドアが持ち上がる『ドラゴンウィング』仕様は、中古車市場において未だに高い人気を誇っていた。
「レックス、久しぶりだね、元気だった?」
光沢のある黒いドア。
銀色に輝く特大ホイール。
地面すれすれまでローダウンされた流線形のボディ――。まるで天から舞い降りた黒龍を見ているように気高く美しい。
ただ、厳密に言うと、この車は柴崎の物ではない。西田の診療所からここまで、この車で移動してきたが、これは訳あって知人から預かっている車だった。
柴崎が腕時計に目を落とす。
もっと言えば、柴崎はこの知人の連絡先を知らない。連絡先どころか、どこ産のGMCか、何年生まれか、どこに住んでいて何をしている人なのか、『タケ』という名前以外、その知人の素性をまったく知らなかった。そんな相手を知人と呼べるかはさておいて、柴崎自身はこの『タケ』という若者に、知人以上の不思議な縁を感じていた。だからゆくゆくはこの車を返すつもりでいたのである。
九時五十九分――。
柴崎が時刻を確認したちょうどその時だった。
「その車はあなたの?」
遠くから声が掛かった。
白や紺色の車が数台止まっているだけのがらんとした駐車場だ。人がいれば物音で気付く。ところが柴崎は、声を掛けられるまで駐車場に人がいたことに気付いていなかった。
びっくりして振り返ると、スーツを着た男が一人、何やら不審そうにこちらを眺めて立っていた。距離にして約二十メートル。見た目は五十代後半といったところか。
「誰ですか?」
柴崎が言うと、男は「警視庁の者です」と答えた。
警察?
嫌な予感が込み上げる。すると四角いコンクリート柱の陰から、ぞろぞろと人が出てきた。
三十代から四十代くらいの中年の男が二人、若い男と女が一人ずつ。私服の警察官たちが、五十代の男を先頭に、ゆっくりと近づいてくる。
「その車の持ち主はあなた?」
「えっと……」
柴崎は何が起きているのか分からなくて、周囲にきょろきょろと首を振った。あまりに突然のことに驚いたせいか、腹部の傷がちくちくと疼き出す。
「いえ……、友達のです」
すると警察は柴崎の周囲を取り囲んだ。動かしがたい権力の圧がじりじりと押し迫る。
「友達というのは?」
「いや……、タケって」
「タケ?」
五十代の男が柴崎の目をじっと覗き込んだ。その目は怖いくらいに落ち着いていて、凄腕の刑事に自白を迫られているようだった。もちろんその男が凄腕の刑事だという確証はないが、思い当たる節がある分、平静でなんかいられない。柴崎の心臓は縮みあがり、今にも潰れてしまいそうだった。
「今どこにいるか、分かります?」
「いえ……」
「連絡とってないの?」
「連作先、知らないです」
ここで狼狽えたら余計に怪しまれるのは分かっていても、直視ができない。他の警察官に目をやると、若い警察官がMRグラスで録画していた。彼は録画をしながら、顔画像で犯罪データベースと照合している様子だった。
「知らない……。本当に友達?」
「はい」
男の話し方は優しかったが、怪しんでいるのは明らかだった。この車を追ってきたってことは、おそらく廃PAでのことだろう。廃PAで僕らは健楼会に襲われた。僕は腹を撃たれ、タケは足を撃たれた。僕らは誰も殺していないが、あいつらの車を奪って逃げた。でもそのことを話すなら、なぜ健楼会に襲われたかも話さなきゃならない。そうしたら、マサトのこと、そして九鬼老人のことも話さなきゃならない。それは駄目だ。いくらマサトがやったこととは言え、僕もその場にいたし、遺体を燃やそうとしている。いやそもそも遺体がもうないんだ。
ぐるぐると思考が回り出して、柴崎は焦り始めた。
「今日はここで何を?」
「今日ですか? 今日は……、友達の家に遊びに来ました」
「友達の名前は?」
友達の名前?
(お前ら、やっちゃったんだろ? まずいよぉ、九鬼さん、健楼会のナンバースリーだぞ)
頭の中で、笑いを堪えているような中村の声がする。
(お前、ヤバいって……、マジで消されるぞ)
胸を滅多刺しにされても薄らと笑っていたマサトの死に顔が頭に浮かんだ。
ああ、クソ! これはマズいぞ!
ふと、熱くて、硬くて、かびたチーズのような臭いを思い出す。ごつごつとした人工筋肉の感触が頬に蘇り、迷彩服が焼けるように熱かったことを思い出した。あの時、僕は男の顎に頭を突き当てて、銃を取らせないように必死に戦った。もう少しだったんだ。本当にもう少し……。でもその後すぐに、背後で銃声が鳴ったんだ――。
(絶対に部屋から出るなよ、そこがバレたら俺も巻き込まれるんだから)
中村の言葉が警報のように何度も頭に流れていた。
ああ、本当にどうしよう……。こんなことになるのなら、中村が言った通り、部屋から出なければよかった……。
五十代の男が恐ろしいほどに厳しい目で見つめてくる。
「あの、いや……」
柴崎が答えに詰まっていると、別の警察官が言った。
「免許証、見せてもらえますか?」
その言葉に柴崎は救われたと思った。ここは免許証でも何でも提示してこの場から離れなければならない。とにかく一刻も早くここを出るのが先決だった。
柴崎はGMCコードを腕時計に表示させた。警察はそれを特殊な機械で読み取って情報を眺めていた。
「現住所はここにある練馬区の住所から変わってない?」
「はい」
すると警察は、「分かりました」とだけ言って、礼も言わずに去っていった。
柴崎はほっと息を吐いた。まるでゾンビが徘徊する巨大な迷路から無事に抜け出したような気分だった。
ただ、警察はいなくなったが、警察が僕らが起こした事件を捜査している状況に変わりはない。
どうしよう……。
タケに知らせなきゃいけないが、連絡先を知らない。
するとその時、手首に巻いた腕時計が鳴動した。そしてその表示を見た柴崎は驚いた。
これが奇跡というものなんだろう。日常に散らばる小さな奇跡。ただ普通に生きているだけじゃ気が付かない純粋な奇跡――。この世には、僕よりも上の世界に生きている僕以外の誰かの意思が働いていて、時折、こうやって僕を弄ぶ。そして僕は、その僕以外の誰かを『神様』と呼んでいた。
ああ、神様……。
腕時計に表示された名前は『マサト』――。それは、死んだはずのマサトからのメッセージだった。