
Photo by Whisk
サバ神さま
夜になって、ヨシミチはパソコンで鯖の画像を生成していた。
一階の居間に置いてある家族共有のデスクトップパソコン――それならば様々な有料サービスを利用できる。動画ストリーミングサービス、音楽配信サービス、ネットショッピングから生成AIまでなんでもあった。もちろんそれらは親が契約した有料サービスのため、今では追加で発生した料金は自分の小遣いから出すという家庭内ルールが作られている。兄のマサミチがあまりにもアマゾンで買い物をするようになったからだ。
するとその時、玄関のインターフォンが鳴った。おそらくは、マサミチが注文した荷物だろう。
「ちょっと、誰か出て!」
ヨシミチが声を張り上げると、二階からマサミチが降りてきた。
ぼさぼさの髪に上下灰色のスウェット。スウェットは腰からずり落ち、汚い尻が覗いていた。面倒くさそうに頭をかくマサミチの耳には、白いイヤフォンが付いたままだ。
「なに?」
「荷物」
「は?」
「お前のだろ? 早く取り行けよ」
マサミチは不機嫌そうに舌打ちをすると、玄関に向かっていった。
やがて小さな段ボール箱を手に戻ってきたマサミチは、滅多に共有パソコンを触らないヨシミチがそこに座っているのを不思議に思って声をかけた。
「お前、なにしてんの?」
「生成AI」
「は?」
マサミチはゆっくりとヨシミチの背後から近づくと、パソコンモニタを覗き込んで馬鹿にしたように笑った。
「サバ? なんでサバ?」
「お前、サバラッキって知ってる?」
「知らん。なにそれ?」
「サバラッキってハッシュタグに付けてSNSに投稿すると、ラッキーになれるってヤツ」
「そんなわけないだろ?」
「いやマジでラッキーになれんだって」
ヨシミチが言うと、マサミチは大袈裟に溜息をついてから話し始めた。
「あのな、ハッシュタグを付けて投稿することと、ラッキーな出来事が起こることに、なんの因果関係もないんだよ。分かる?」
「でもみんなラッキーになったって報告してるよ」
「それはたまたまラッキーになった人が投稿してるってだけだろ? ラッキーにならなかった人も合わせれば、いずれ統計的均衡に行き着くんよ。お前、確証バイアスも知らないのか?」
マサミチは進学校から有名大学に行った優秀な勉強家だ。知識量では敵わない。
「へえ、そうなの?」
「だからお前はいつまで経ってもお子ちゃまなんだよ。そんなクソみたいなうわさ信じてないで、真面目に勉強しろ」
「はいはい。分かったからあっち行って」
ヨシミチは兄を追い払うと、目の前のモニタに表示された鯖の画像をじっと眺めた。
画面一杯に広がる真っ白い雲海、その上にある水色の空に一匹の鯖が浮かんでいる。青みがかった背中に黒い縞模様が鮮やかなそれは、ダルマのような真ん丸の黒目でこちらを見つめていた。
それは見たこともないくらいに神秘的な鯖だった。鯖に空を飛ばせた自分を褒めてやりたい。この鯖だったら本当に奇跡を起こしてくれるかもしれない、そう思えるほど、鯖の目には吉兆が宿り、ヨシミチの胸には明日への期待が膨らんでいた。
◇
翌朝、ヨシミチが目を覚ますと、時刻は七時を回っていた。いつもならば、もう家を出ている時間だ。
ヨシミチは慌ててベッドから跳び起きると、すぐに学校へ行く支度をして家を飛び出した。
家の近くのバス停でバスを待っている間、ヨシミチはスマホの時刻を何度も確認していた。このままだと朝のホームルームに遅刻するのは確実だった。最悪、ホームルームに間に合わなかったとしても、一時間目の授業には遅刻できない。なぜなら今日の一時間目はサッカー部顧問の平岡の授業だからだ。しかし急いでいる時にかぎって、時刻表の時間になってもバスはなかなかやってこない。その上、昨夜充電がうまくされなかったのか、スマホのバッテリー残量が三〇パーセントを切っていた。
今朝はついてないなと、ヨシミチは思った。そしてふと、昨夜、鯖の画像を投稿したのがいけなかったのかと考えた。よりによって平岡の授業に遅刻なんて、真田さんの前で声が裏返るよりも最悪だ。
するとそこへ、ようやくバスが到着した。しかしバスは外から見て分かるほどに満員だった。通路にも中扉の前にも人が立っている。いつもより一本遅らせただけでこんなにも混んでいるのかとヨシミチは思ったが、これに乗るしか選択肢はない。ヨシミチはぎゅうぎゅう詰めの車内に無理やりに乗り込むと、降りる時に少しでも早く降りられるようにと、中扉の近くまで乗客をかき分けていった。
ところがバスが走り出してしばらくすると、隣から声が掛かった。
「おはよう」
そこには信じられないことに真田リリが立っていた。
「え、真田さん? このバス?」
「そうだよ」
そう言って目を見てくる彼女は、神々しいほどの金光に包まれて見えた。しかもほんのりとシャンプーの良い香りまで漂ってくる。ヨシミチは急に恥ずかしくなって目を逸らした。
これこそまさに青天の霹靂だ。たまたま寝坊した朝に、偶然、真田さんと同じバスになるなんてあるだろうか。しかもこの満員状態で隣同士に立つなんて、バスがちょっと揺れでもしたら、腕が真田さんの胸に当たってしまいそうだ。いいのか? こんな幸運、本当にもらっちゃっていいのか? これはもう神様が俺に確定演出をくれたってことでいいよな? いや待てよ。もしかして、昨夜の鯖画像が効いてんのか? とそんなことを考えていると、彼女が言った。
「あれ、なんだったの?」
「え?」
「急に鯖だったから、びっくりした」
彼女は昨夜の投稿について話しているようだった。
真田さんが自分の投稿を見てくれたんだ、と嬉しい一方で、びっくりしたという言葉が引っかかる。まあ言われてみれば、鯖の画像とハッシュタグの『サバラッキ』以外に何の文章もない、たしかに奇妙な投稿だ。
「いや、鯖の画像を投稿したらもっとラッキーになれるんじゃないって、近藤が言ってたから」
「ラッキーになれるって?」
「サバラッキって投稿したら、ラッキーになれるじゃん」
「そうなの?」
「えっ?」
「へえ、そういう意味だったんだ。私、知らずに使ってた」
ヨシミチは、手すりを掴む指先からふいに力が抜けていくのを感じた。
知らずに使っていたということは、彼女はあの動画に幸運を願って『サバラッキ』と付けたわけではなかったことになる。言い換えれば、山木との関係は、彼女にとってそれほど重要なものではなかったというわけだ。
「あれ、でも山木と食事してなかった?」
「ああ、あれ? あれね、もう消した」
「え、どうして?」
「なんかウザいから」
「へえ、そうなんだ……」
窓の外を、民家の寒つばきが過ぎていった。
枝だけになった街路樹が通り過ぎ、少しだけ開いた窓から、外の冷たい空気が入り込んだ。
深呼吸をすると、心が洗われていくように清々しくて、自分はとても大きな勘違いをしていたんだと、ヨシミチは思った。そしてそう思うとなんだかほっとして、自然と笑みがこぼれた。
「へぇ、ラッキーかぁ。私もやってみよっかな」
そう言って笑う彼女の横顔を見て、ヨシミチは窓から見える空がほんの少し明るく見えた気がした。
◇
「さすがに盛り過ぎ」
ヨシミチが今朝の出来事を話すと、誰もヨシミチの話を信じようとはしなかった。
「そんなことある?」
「でも逆にすごくない? 鯖の画像を投稿して、次の日に真田と一緒のバスに乗ってんだから」
「いやあ、たまたまだろ?」
ヨシミチは皆の言葉に一つ一つ頷きながら言った。
「まあね、俺もたまたまだと思う。こういうの、確証バイアスって言うらしい。兄貴が言ってた」
すると、タツオが言った。
「マサミチ?」
皆はマサミチのことをよく知っている。一年の文化祭の時だ。二階の渡り廊下に変な人がいると噂になり、皆で見に行くと、マサミチがいた。マサミチは当時、他校の生徒だったが、N95マスクにゴーグル、ラテックス手袋に消毒噴霧器を持参というフル装備で展示物を見て回っていた。その上、ぶつぶつと独り言を呟きながら、クラスの展示物を勝手に消毒して回っていたため、生徒たちは気味悪がって誰も声をかけられずにいた。最終的には教員がやってきて対応に当たったが、マサミチは「予防措置です」とまったく意に介さなかった。そんなマサミチを見て、タツオらは腹を抱えて笑っていた。ヨシミチはヨシミチで、その変な人は自分の兄だとは中々言い出せず、しばらく実の兄を「ヤバ男」と呼んでいたのは有名な話だ。
「マサミチ、言いそう。こうやって」
ハッスンが眼鏡を上げる素振りをした。
「もう眼鏡かけてないから」
「え、そうなの?」
「大学生になってコンタクトに変えたよ」
「へえ、マサミチも大学デビューしたか」
タツオとハッスンが笑っていると、そこにコンチが割って入った。
「でもさ、もしだよ、もしその鯖の写真がきっかけでラッキーになれたんだとしたらさ、たとえば、鯖を食べるとかしたら――」
楽しかった空気がぴたっと止まった。おそらくは皆の頭の中に、鯖を食べたらどんなラッキーが起こるのだろうという想像が膨らんでいた。そしておそらくはほぼ同時に、誰がそれをやるのかを考えていた。今までは、サバラッキ投稿も、鯖の画像投稿も、ヨシミチが最初にやってその恩恵を報告している。
「食べる?」
ハッスンの目が左右に動いた。
「お前、そんなわけ……」
タツオがへらへらと笑った。
「え、じゃ俺、今夜、食べてみるわ」
コンチが言った。
「じゃ俺も母ちゃんに言うわ、今日、鯖にしてって」
ハッスンも続いた。
するとタツオが突然二人を制止するように両手を広げた。
「待て、お前ら!」
タツオは、選手権予選のPK戦でも見せたことのない真剣な顔で皆と目を合わせていった。
「俺が食べる」
◇
皆はタツオが食べるならと、遠慮して鯖を食べることはしなかった。タツオが未だに幸運に巡り合えていないのは皆知っていたし、もし本当に鯖を食べて大きな幸運に恵まれるとしたら、それはタツオであるべきだと考えていた。タツオは新しくキャプテンになって、誰よりも練習を頑張っていたし、後輩たちに率先して戦う姿勢を示していたからだ。
皆はタツオからの幸運報告を楽しみに待っていた。それまでの何もなかった期間をちゃらにするほどのどでかい幸運報告だ。しかしいくら待っても、タツオが喜んでいる様子は見られなかった。そうこうしているうちに、目まぐるしく日々が過ぎていき、皆、タツオが鯖を食べる話なんてすっかり忘れていた。そんなある日、練習試合で訪れた区営のサッカー場で、試合が終わり、帰る支度をしていたコンチが思い出したように話し出した。
「そう言えば、タツオ、鯖食べたんかな?」
すると隣でスパイクを脱いでいたヨシミチが言った。
「言ってこないってことは、どうせ何もなかったんでしょ?」
それに合わせるようにハッスンが言う。
「あるわけねえじゃん、鯖食ったくらいで」
「たしかに。みんなは食べたの?」
「いや」
「食べてない」
「俺も」
そうやって皆で話していた時だった。トイレに行っていたタツオが神妙な顔をして戻ってきた。
「タツオ! そう言えばお前さ、鯖、食べたの?」
ハッスンが声を張り上げると、タツオは不思議そうに首を傾げながらやってきた。
「どうした?」
「いやさっきさ、便所で変なおじさんに話しかけられたんだけど……」
「おじさん? 豊高の関係者じゃないの?」
「いや、それがさ……」
タツオは浮かない顔をしている。
「なに?」
「君、鯖の神に選ばれたねって……」
「は?」
皆は顔を見合わせた。
「いや、ぼそぼそ言ってたから分かんないけど、そう聞こえたんだよね……」
「鯖の神って何? 面白すぎ!」
ハッスンが噴き出して笑う。皆もつられて笑っていると、コンチが言った。
「で、ラッキーなこと起きたの?」
「いや、ぜんっぜん……」
「嘘だろ? 鯖の神に選ばれたんだろ?」
ハッスンは笑いを堪えられないといった様子で、終始にたにたと薄笑いを浮かべていた。