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ヒョウとトラ
その部屋の中央には、二本の丸太木が平行棒のように並んでいた。
平行棒の隣には、古びたタイヤが三つ、天井から吊り下げられている。
タイヤの左奥には三角形の傾斜台、右奥には丸太を並べて作った二段の櫓(やぐら)があった。
その上階、すべすべの丸太台の上から下を見下ろす。
風はなく、タイヤは止まっていた。
太陽の日差しは柔らかく、ぽかぽかと暖かい。平行棒にはきれいな縞模様の影ができていた。
時が止まったように静かで穏やかな朝だ。もちろん今朝も誰も来ていない。
ああ、退屈だ、退屈で嫌になる――と、ウキは思った。
ここは温かいし、食べ物もある。雨風をしのぐ屋根だってあるし、身の危険を感じることもない。それでも、毎日こうして櫓の上で横になっていれば、ほとんど代わり映えのない景色に誰だってうんざりするだろう。
以前いた場所は違った。
そこでは白黒の縞模様の生き物が草を食べ、土色の小さな生き物たちが空を飛ぶ。遠方には緑の低木が点在し、足元には硬く冷たい岩石があぶくのように顔を出す。岩山に登れば、地平線の遥か彼方まで見渡すことができ、耳を澄ませば、大地の息づかいが聞こえてきた。
そこは暖かくて、草木の匂いがする。
どこまでも空が続いていて、柔らかい風が吹く。
そこには僕の見たことのないものがたくさんあって、僕が声を出したり、触れたりすると、それも声を出したり、動いたりする。驚きと期待に満ちあふれた、とっても素敵な場所だ。
それに比べて、ここは……。
ウキは丸太台にあごをついて遠くを眺めた。
もっとこう、なにかわくわくすることはないものか?
全身を血が極限まで駆け巡る追いかけっこだったり、土の中に隠れている宝石探しだったり、もっとなにか、心がどきっと跳ねるような、自然と胸が高鳴り出すようなことはないものか――。
向かいには、今日も大勢の人だかりができていた。
群衆の奥には、硝子という一枚の透明な壁を挟んで、いつものようにあくびをするユラがいる。
彼女はたしかに品がある。きめの細かな白い肌に、真ん丸と大きな硝子玉のような瞳、そしてはっきりとした鼻筋にきりりと引き締まった口元は、時を忘れて眺めていられるほどに美しく、頭の毛先から足の爪先まで、その全身から漂う威風は総毛立つほどに神々しかった。だからこそ、ああして沢山の人が彼女を取り囲むわけだが、ユラは彼らに背を向けて、退屈そうにあくびを繰り返すばかりだった。
ユラ――彼女と初めて会ったのは、半年以上前になる。
実際に言葉を交わしたわけではないが、初めての場所に戸惑う僕に、最初によろしくと笑いかけてくれたのが彼女だった。僕よりも体の大きな彼女に恐怖を感じなかったと言えば嘘になるが、その時は僕もよろしくと頷いた。なぜなら、僕と彼女の間には十分な距離があったし、何よりも本能的に彼女は敵ではないと思ったからだ。
彼女の部屋は僕の向かいにあった。前面が硝子張りになっていて、中の様子がよく見える部屋だったが、造りは僕の部屋よりも立派で、緑もたくさんあった。
彼女はいつも、そこで唄を歌っていた。その歌声は、まるで彼女の頭の天辺からするすると流れ出て、そよ風と共鳴しながら螺旋状に昇っていくようだった。そして白い雲の切れ間まで達すると、太陽の光を受けて虹色に輝き、やがて水色の空の彼方に消えていくのだ。僕は彼女みたいに歌えたらどんなに心地が良いだろうと思った。もちろん、僕に彼女の歌声を真似ることはできない。声量もなければ、音程も上手に取ることはできない。それでも彼女のように歌いたいと、心の底から願ったものだ。
そういうこともあって、僕は彼女をよく観察するようになった。彼女の歩き方、休んでいる時の姿勢、そして唄を歌っている時の表情など、細かく観察した。見惚れていたと言ってもいいかもしれない。それくらい、彼女には僕の心を惹き付ける何かがあった。だから、この僕でさえそうなのだから、皆が彼女に夢中になるのも無理はない。
ユラに目を戻すと、彼女の前にはさらに人が増えて、小さな子どもたちが彼女の名前を呼んでいた。
人気者はいいなあ――と、そんな風に思っていると、ふいに彼女と目が合った。
その瞬間、どきんと心臓が跳ねる。
硝子玉のように透き通ったまんまるの瞳。その青い瞳が、今、僕の心の中まで覗き込む。
美しくて、気高くて、唄が上手で、皆の人気者で、その彼女がなぜ僕を見ているんだろうと、そんなことを考えていたら、彼女は僕を真っすぐに見つめたまま、何かを口にした。
でも、僕には彼女が何て言っているのか分からなかった。何かとても大切なことを言っているような気はしたが、彼女と僕の話す言葉は違っていた。
彼女が何と言っていたかが分かったのは、それから数日経ってからのことだ。
◇
その日は朝から雨が降っていた。
土の匂いは雨にかき消され、しとしとと細い雨音だけが辺りを包み込んでいた。
ユラは雨を避けるように軒下の壁に寄り掛かって眠っていたが、そこへ、ガシャンという重厚な金属音とともに、青い作業服を着た大柄な男が入ってきた。
ユラは大きな物音にすぐに立ち上がった。そして男を見とめると、低い唸り声を出しながらゆっくりと部屋の隅まで後退した。彼女は落ち着かない様子で何度も壁の前を行ったり来たりしていたから、男を警戒していたんだろうと思う。でも男はにこにこと微笑んでいた。まるでハイエナのようにヒヒヒと笑いながら、ユラを宥めるように何度も同じ言葉を繰り返している様子だった。
ユラはしばらく姿勢を低くしたまま男を見つめていた。そんな彼女を見ながら、僕は、彼女はおそらく逃げるか、戦うか、どちらか決めかねているのだろうと、そんな風に思っていた。僕なら逃げる。あんなに大きな男に勝てるわけがない。
でもユラは、男が背を向けた瞬間、男に飛びかかっていった。そして男と抱き合ったまま地面に倒れ込み、ユラが男の上にまたがる形で見つめ合った。ユラは戦うことを選んだのだ。
すごい! すごいぞ! ユラは男を地面に押さえつけている!
でもどういうわけか、ユラの様子がおかしかった。男を押さえつけているはずのユラがうっとりと目を細めたかと思うと、やがてごろんと、まるで力が抜けたように地面に倒れ込んだのだ。
僕は訳が分からずに見つめていた。そうしたら男がゆっくりと起き上がった。そして死んだように横になるユラの肩から何かを抜き取ると、扉の向こうに声を張り上げた。すると男の仲間たちが数人、担架を担いで部屋の中に入ってきた。そして地面にぐったりと横たわるユラを担架に乗せると、重そうに部屋の外へと運び出していった。
僕はそれまで感じたことのない不安に襲われた。
ユラがどこに連れていかれたかは分からない。でもそれが好ましい状況でないことは何となく分かった。
青服の男は一人、その場に残っていた。そして周囲の壁や天井を見て回り、部屋の中央まで戻ってくると、無言で僕に振り返った。
男はどこか近付き難いオーラを全身にまとい、その手に太い注射器を握っていた。そしてそれを見た時、僕はユラが言っていたことはこのことだったのかと思った。彼女はあの時、「次はあなたの番よ」と、そう言っていたに違いなかった。
◇
その一件以来、彼女が僕に話しかけてくることはなくなった。彼女は相変わらず皆に囲まれて、まるで何もなかったかのように呑気な日々を送っていた。そんな彼女を見ていると、どうして平気でいられるのかと、僕は釈然としない気持ちで胸が一杯になった。同時に、彼女に起こったことがいつ自分に起こるのかと、考えれば考えるほどに不安は募り、悠然とあくびをしていられる彼女の神経の太さが羨ましくも思えた。
でもそうやって悶々とした日々を過ごしていたある日、僕にとって嬉しい出来事が起きた。この部屋に新しい仲間がやってきたのだ。
「あなた、意外と鈍感なのね」
扉わきのコンクリートの壁に寄りかかって僕を見上げる彼女は、ステラと名乗った。
僕よりも年上の彼女は、最初こそ、おどおどと部屋の中を歩き回っていたが、今はとても落ち着いている。彼女が言うには、何度も部屋を転々としてきて、ここが五番目らしい。だからか知らないが、彼女からは物知りで頼れる先輩の匂いがした。僕が長い間待ち望んだ、念願の話し相手だ。
「あの娘が、あなたに気があるわけないじゃない」
すらりと伸びた長い足を折り畳んで日陰に座るステラは、そう言って笑っていた。
「べつに振り向いて欲しくて見ているわけじゃないよ」
僕が言うと、ステラは、
「じゃあなんで見てるの?」と言った。
「わからない。けど、なんか見入っちゃうんだ」
僕はそう言って、丸太台の上に寝転んだ。
丸太台には柔らかい陽光が差し込んで、ぽかぽかと暖かかった。まるで母親のお腹の上に乗っているように安らいで、目を瞑ると、心地良いまどろみの中に落ちていくようだった。
するとステラが言った。
「そんなことより、私、青服が話しているのを聞いたんだけど……。あなた、オーチにいたことあるんだって?」
オーチ?
ああ、オーチって言うのか……。
ステラを見ると、ステラは目を輝かせながら僕を見つめていた。
「どんなところなの?」
どんなところかって?
それは聞き耳を立てながら食事をしていた。
口をむしゃむしゃと動かしながら、時折、耳だけをぴくぴくと動かしていた。
そこには黄金色の草が一面に生い茂り、ほんのりと甘い石鹸のような匂いが広がっていた。
膝丈ほどの低い枯れ草は、そよ風が吹く度に、一斉にカサカサと波打ち、草むらの中に身を潜めて、遠くからそれを見つめる僕の鼻先をくすぐった。
僕の隣には鉛のような岩が転がっていた。周りをびっしりと雑草で覆われた岩肌には、一匹のトカゲが止まり、まるで僕をあざ笑うかのようにするすると岩の後ろに消えていった。
僕は慎重に一歩を踏み出した。
視界の中心にしっかりとそれを捉えたまま、さらに二歩、忍び足で距離を縮める。
心音が辺りに漏れていた。
脳からはアドレナリンが溢れ出し、全身の血がもの凄い勢いで巡っていた。
僕は息を殺して草むらの中を進んでいった。
草の隙間からそれが食事に夢中になっているのを確認しながら、一歩、また一歩と距離を縮めていく。
その時だった。それは僕の出した僅かな物音に顔を上げて辺りに耳を澄ました。
しまった……。
僕は慌てて草むらから飛び出した。するとそれは僕を見た途端に背を向け、矢のように走り出した。
でも僕にはそれに追い付く自信があった。
僕は地面を強く蹴り上げ、足を引き上げるスピードを一段階上げた。すると見る見るうちに目の前を走るそれとの距離が縮まっていった。
あと十歩。あと九歩。あと八歩……。
そして次の一歩、いや二歩で手を伸ばせば確実に届くという時、それは僕が手を伸ばすことを分かっていたかのように、身体を倒して百八十度走る向きを変えた。そして間一髪で僕が広げた両手をすり抜けると、すぐにスピードを上げ、あっという間に元の差を開いてしまった。僕はあと一歩の所でそれを逃してしまったのだ。
荒れた息を整えながら、遠くでまた食事を始めるそれを眺める。するとそれは、僕ににやりと笑いかけ、そして丘の向こうへと消えていった。
本当にあと一歩だった。あの時、あと一歩を気付かれずに踏み出せていたら、きっと僕が勝っていた。
悔しくて仰向けに寝転がる僕に、岩山の上から見ていた母が言う。
「惜しかったわね、ボウヤ」
するとその背後で、木登りをして遊んでいた女の子が、母の隣に並び立って言った。
「惜しかったわね、ボウヤ――」
ボウヤ――。
ボウヤ、聞いてるの?
僕は丸太台の上からステラを見下ろすと、「何もないところさ」と言って、太陽に熱せられた前足を舐めた。
大分長いこと足を使っていなかったから、もう以前のようには走れない、そう思った。
「何も?」
「そう、何もない」
「おかしいわね、私が聞いた話と違うわ。オーチには草が生えて、花が咲いて、木々は実を結び、枝葉の先に芽を育む。空と大地は延々と続き、大河は悠々と流れる。生き物は軽やかに羽ばたき、のびのびと走り回る」
ステラはそう言うと、おもむろに立ち上がり、平行棒の上にひょいと飛び乗った。
「たしかにね。でもお腹が空いていても食事にありつけない時もあるし、敵もいる」
「敵?」
「うん、暗くなると、僕ら家族を食べにやってくる敵がいるって、ママが話していた。だから僕は良い子でいないといけないんだ。敵は悪い子を探してやってくる」
「嘘でしょ?」
ステラは笑った。
「嘘じゃないよ。その点、ここでは食事に困らないし、敵に襲われる心配もない。毎日ここにやってくる色んな人を観察できるしね。彼らの話す言葉が分かれば、もっと刺激的なんだろうけど……」
するとステラは、不思議そうに僕を見上げたまま言った。
「あなた、彼らの言葉が分からないの?」
「君は分かるの?」
「もちろんよ」