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ヒョウとトラ ~その2~
僕はとても驚いた。まさか言葉が分かる仲間が、こんな近くにいたなんて思ってもいなかったからだ。
それからステラは、毎日のように僕に言葉を教えてくれた。
ステラは、彼らの言葉を話すことはできないが、何を話しているかは分かると言っていた。
たとえば、青服の男が「トベ」と言えば、それはジャンプすることを意味し、「マテ」と言えば、それはじっと動かないことを意味すると言っていた。「ヨシ」は、それで合っていることを意味し、「ダメ」は、それが間違っていることを意味する。また、食事のことを「ウマイカ」と言うことや、排泄物のことを「クッセエ」と言うことも特別に教えてくれた。
ステラは、知らないものはないと自分で言うだけのことはあって、何でも知っていた。彼女によると、僕らを取り囲む世界には、すべての物に名前が付いているらしかった。しかもそれは物だけではなく、「腹が減った」とか「眠い」とか、そういう状態にも名前があるし、「木に登る」や「壁を叩く」といった動きにも名前があるようだった。そして、そういう物の名前を一つずつ覚えていけば、いずれ青服たちの言葉が分かるようになるとも話していた。
僕はステラからたくさんの言葉を学んだ。そして青服たちが話している時に僕の知っている言葉が聞こえてくると、僕は嬉しくなった。お前たちが何をしようとしているか、僕には分かっているんだぞ、そういう満足感だった。でもそうやって青服たちの言葉に耳を傾けていると、段々と、物事にはそれがどうしてそこにあるのかとか、どうしてそうなっているのかという「理由」があることも分かってくる。
なぜ地面には土が敷いてあるのか? それは足を滑らせて怪我をしないため。
なぜ部屋の中に丸太木やタイヤがあるのか? それは運動不足にならないため。
なぜ僕たちの部屋には鉄格子が付いているのか? それは、私たちが部屋の外に出ないようにするため――ステラは、扉横の少し窪んだ地面にいつものように横になってそう言った。
「なぜ、僕たちは外に出てはいけないの?」
僕が尋ねると、ステラは少し寂しそうに答えた。
「外は危険が一杯だからよ」
「危険?」
「長く生きられないってこと」
「君は長く生きたいの?」
「当たり前じゃない」
「ここで長く生きてどうするの?」
ステラは答えなかった。何でも知っていると得意気に話していた彼女はどこかへ消え、寂しそうに目を瞑る彼女がそこにいた。
◇
そんな日々がしばらく続いたある日のことだった。
「もう桜の季節ね」
向かいでユラが呟いた。いや正確には、彼女がそう呟いたのが聞こえ、それが何を指しているのかを理解することができた、と言った方がいいか。僕の部屋の左手には、大きな桜の木が幾つも並んでいた。その五分咲きの蕾を眺めながら、ユラは誰にともなくそう呟いたのだ。もちろん彼女からすれば、僕がそれを聞いていたとは思いもしなかったのだろう。薄桃色の花弁を見つめながら、僕が「なぜ桜はあんな色をしているの?」と口にすると、ユラはおもむろに立ち上がり、硝子の前までやってきた。
「あなた、話せたの?」
ユラはその大きくて青い目を見開いて僕を見つめていた。
「教えてもらったんだ、彼女に」
僕はそう言って、いつもの場所ですやすやと眠りにつくステラに振り返った。
するとユラは少し安心した様子で目元を緩ませ、それからぷいっと背を向けて部屋の中をぐるぐると歩き始めた。
僕も丸太台の上から飛び降り、部屋の中をぐるぐると歩いた。なぜだか少し胸が高鳴っていた。ユラとはずっと話したいと思っていたから、嬉しかったのかもしれない。部屋の中を何週したか覚えていなかったし、いつもは近づきもしない平行棒やタイヤを蛇行している自分に気付いた時は、少し恥ずかしささえ覚えた。
「君はどうして言葉を話せるの?」
僕はそう言って平行棒の上に立ち、ユラを眺めた。すると彼女も硝子の前の水場までやってきて、立ち止まった。
「私はここで生まれて、ここで育ったの。三年もいれば、言葉なんてすぐに覚えるわ」
ユラは素っ気無くそう答えると、すぐにこう付け足した。
「それよりも、これはきっと神様のイタズラね。時間がないから一回しか言わない。よく聞いて」
そしてもう一度その場でくるりと一周して、周りに誰もいないことを確かめると、僕を見つめてこう言った。
「一緒に逃げて」
僕は思わず息を呑んだ。まさか彼女がそんなことを言うとは思ってもいなかったからだ。
「逃げるって、どこへ?」
「もちろん、オーチよ」
ユラは、はっきりとそう言った。
オーチに逃げるだって? 僕は心の中で呟いた。
もちろん僕にだってオーチに帰りたい気持ちはある。ママやネネに会いたいし、広大な大地を思いっきり駆け回りたい。でも残念なことに、僕らの間には決して縮まることのない距離がある。それは物理的に僕と彼女の部屋が離れているということもあるけれど、それ以前に、僕と彼女が違っているという生まれながらの距離だ。
「でも僕は豹で、君は虎だ」
僕は言った。
「逃げると言っても、ずっと一緒には暮らせない。だって君は腹が減れば、僕を食べるだろうから」
するとユラは少し悲しそうな表情を浮かべた。
「それはないわ」
「どうして?」
「今は言えない。でも約束するわ。私はあなたを絶対に食べない」
僕は困ってしまった。ユラは僕を食べないと言ったが、途中で気が変わることだってあるだろう。たとえ今は理性で誓っていても、いざ腹が減り、全身が血肉を欲すれば、彼女の本能が目の前の獲物を見逃すはずがない。この場所で生まれ育ち、心底から空腹になったことのない彼女なら尚更、いざという時に自分を抑えられるとは思えないのだ。
僕はその場を何度もぐるぐると歩き回った。守れない約束はして欲しくないし、したくない。
すると、硝子の向こうで寂しそうに僕を見ていたユラが言った。
「次はあなたの番よ」
僕は足を止めた。
「あの人がそう言ってた、次はあなたの番だって。だからその時がチャンスなの。あの人が扉を開けて入ってくるその瞬間がチャンスなのよ。あなたのその足なら、誰も追いつけやしないわ」
「どうかな。もうそんなに速く走れる自信はないよ。それに僕だけ逃げて、どうして僕が戻ってくるって言い切れるんだい? もしかしたら、そのまま逃げてしまうかも知れないよ」
僕が試すように言うと、
「本当に逃げるつもりだったら、そんなこと言わないわ」
ユラはそう言って、僕に笑いかけた。
「いい、このことは私とあなた、二人だけの秘密よ。秘密、分かる?」
◇
その日以来、僕はユラのことばかり考えていた。
僕は彼女の何を知っているのだろうか?
彼女は僕よりも大きいし、力もある。彼女が本気になれば、人を食い殺すことだって可能だろう。でもその動きはしなやかで品があるし、その笑顔は信じられないほどに純粋だ。人の言葉を上手に話すし、何より彼女は美しい歌声を持っている。
彼女と一緒にいたら、僕も彼女みたいになれるだろうか?
彼女のように堂々と格好よくて、皆の人気者で、そして美しい唄を歌えるようになるだろうか……。
僕はいつもの丸太台から向かいにあるユラの部屋に目をやった。
今日は一度も彼女の姿を見ていない。草むらに隠れているのか、部屋の奥に身を潜めているのか、彼女は僕から見えないところに休んでいるようだった。
丸太台から眼下の平行棒にひょいと飛び下りる。
二本の丸太棒には橙色の陽光が当たり、きれいな縞模様の影ができていた。部屋の中に風はなく、天井から吊り下げられた三つのタイヤも止まっている。タイヤの奥、日陰になった三角形の傾斜台の下ではステラがすやすやと眠っていた。
僕はまた丸太台に飛び上がると、台の上に横になってぼんやりと考えた。
一緒に逃げて――あの時、彼女はたしかにそう言った。
(逃げるって、どこへ?)
(もちろん、オーチよ)
水色に透き通ったガラス玉のような彼女の瞳が僕を引きとめる。
それにしても、逃げるとは一体どういうことだろうか?
彼女は外の世界が危険だということを知らないのだろうか。いや、彼女はここで三年暮らしていると言った。知らないはずがない。じゃあなぜ外が危険だと分かっていながら、ここを出なければならないのか――とそこまで考えて、僕はユラの部屋に入ってきた青服の男を思い出した。彼女はあの男に何かをされ、ぐったりとしたまま、どこかへ運ばれていった。もしかしたら、彼女はそのことを言っているのかもしれない。何をされたかは分からないが、彼女はきっと、僕が想像もつかないような恐ろしいことをされたに違いない。彼女にとって、ここは外以上に危険な場所なんだ。
(次はあなたの番よ)
覚悟を宿したユラの青い目を思い出す。
(あの人が扉を開けて入ってくるその瞬間がチャンスなの)
チャンス……。
◇
しとしとと雨が降っていた。
鉄格子の外は灰色にくすんで、地面に広がった桜の花びらさえもしっとりと冷たそうだった。
屋根があるおかげで部屋の中までは濡れていなかったが、鉄格子に近いところは雨が入り込んで土が黒く濡れている。
僕は丸太台の上に横になって、コンクリートの壁の向こうをこちらに向かって近づいてくる幾つかの足音に耳を傾けていた。
来たぞ。あいつだ……。
青服の足音を聞き分けた僕の心臓は早鐘を打ち出した。
逃げるか、戦うか――。
ユラは戦った。だから僕も戦う。この瞬間を逃したら、もうチャンスはないんだ。
僕は丸太台から音を立てずに飛び降りると、扉のすぐ横に伏せてじっと身構えた。それを待っている間は、まるでオーチに戻った気分だった。草の茂みに隠れて、じっと獲物を待ち伏せしていたあの時の緊張と高揚だ。
やがて足音は扉の前で止まり、カチャカチャと鍵が開く音がした。
僕は全身の神経を研ぎ澄ませてじっと待つ。扉が開くと同時に外に逃げ出そうと、そう思っていた。
鋼鉄の扉がきいと軋みながら開いていく。
よし、今だ! 僕は足に力を込めた。
ところがそこに、眠っていたはずのステラが不思議そうに声を上げた。
「あなた、何をしているの?」
「シッ!」
僕の声に、青服の男が気付いて僕を見る。
しまった!
男は扉の後ろに隠れていた僕を見つけると、両手を伸ばして僕を強く押さえつけた。
とてつもなく強い力だった。腕がもげるんじゃないかとさえ思った。
僕は身動きが取れなくなって、叫び声を上げた。
「いやだ! やめて!」
するとその時だった。男がぎゃあと叫び声を上げたかと思うと、男は地面の上を転がった。
ステラだ! ステラが男に嚙みついたんだ!
「ステラ!」
「今よ! 行って! はやく!」
ステラは男の上に乗って男を地面に押さえつけていた。
「ステラ! 一緒に行こう! 君もオーチを見たいんだろう?」
「無理よ……。私は行けない」
ステラが寂しそうに首を下げた時、下になっていた男がステラの首に注射器を打った。
みるみるうちにステラの全身から力が抜けて、その場にどしんと横たわる。
僕は驚いて飛び跳ねた。そして男が立ち上がるのを見ると、目の前に少しだけ開いた扉から、その奥の暗闇に向かって飛び込んでいった。
僕は光を探して暗闇の中を走り回った。するとどこからか桜の香りが漂ってきて、それを辿っていったら外に出た。
外は雨が降っていた。
しとしとと寂しい雨だった。
「ステラ……」
僕の頭の中には、ユラと同じように気を失って地面に倒れたステラの姿があった。
ステラの寝顔を思えば思うほど、不安が込み上げてくる。
なぜ僕たちは外に出てはいけないの? なぜなら外は危険が一杯だからよ。
僕は今、部屋の外にいる。
行こうと思えば、どこまでも行ける。
知ろうと思えば、なんだって知れる。
何かをしようと思えば、なんだってできるんだ。
でもそこには危険が付いて回る。僕一人じゃできないことだってある。
「ウキ」
その時、誰かが僕の名前を呼んだ。
振り返ると、そこには雨にびっしょりと濡れたユラがいた。
「ユラ」
どうやって外に出たのか分からない。でも僕のすぐ目の前にユラがいた。彼女の吐く息さえも聞こえる距離で、彼女の瞬きさえも見える距離で、彼女は襲ってくるわけでもなく、ただじっと僕を見つめていた。
怖くはなかった。
美しく見えさえした。
なんだか妙に落ち着いていて、妙にわくわくしていた。
するとユラは、ゆっくりと僕の方に近付いてきて、僕の耳元でこう言った。
「お願い、私をオーチに連れていって」