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ヒョウとトラ ~その3~

 そうして僕らはオーチへの旅を始めた。

 雨が一層勢いを増す中、僕らはオーチの匂いを追って山の中へ入っていった。僕はオーチの匂いを覚えていた。甘くて温かい匂いだ。それは雨でほとんど流されてしまっていたけれど、それでも山の向こうから雨の合間を縫って流れ出ているようだった。

 僕らはしっとりと湿った木々の間をうねるように歩いた。

 道端には若葉が生い茂り、山吹色の花が咲いていた。茂みには雫が付いて、その中を通り抜けるたびに冷たかった。木々は幹をまだらに変色させて空を覆い隠し、風が吹くたびに大粒の雨がぽたぽたと落ちてきた。

「そういえば聞いてなかったけど――」

 僕は後ろを付いて来るユラに言った。

「どうやって抜け出したの?」

 するとユラは悠々と歩きながら言った。

「私はいつでも抜け出せた。あなたが出るのを待っていたのよ」

「オーチに行きたいから?」

「そうよ」

「どうしてそんなにオーチに行きたいの?」

 僕が言うと、ユラは急に立ち止まった。そして鼻をくんくんと動かしながら言った。

「外がこんなだったなんて知らなかった……」

 ユラはそう言うと、うっとりと目を細めて唄を歌い始めた。

 ユラの澄み声がしんと静まり返った森の中に広がっていく。まるで雨に濡れた木々を乾かすように、その声は木々の間を通り抜け、森の奥深くまでいって消えていった。そうしてまた森に静けさが戻ってくると、澄んだ空気がどこまでも広がって、雨音が僕らを包み込んだ。

「私ね、ずっとこうしたかったの。外がどうなっているのか、ずっと自分の目で見てみたかった」

 ユラはそう言うと、僕の隣に並び立った。

「オーチがどういうところかは聞いていたわ。オーチには草が生えて、花が咲き、木々は枝葉の先に芽を育む。そこにあるすべてのものがあるがままに存在し、あるがままに死んでいく。すべてのものが平等に大地を分け合い、平等に時が流れていく」

 ユラはおもむろに横にある大木に近付くと、体当たりをして木を揺らした。雨の塊がぼたぼたっと地面を叩き、ユラは嬉しそうに笑った。

「でもあそこには一つも自然がなかった。生きるものもなければ、死ぬものもなかった。心を奮わせて闘うものもいなければ、自分を信じて逃げるものもいなかった」

 ユラは僕を見た。彼女の美しい青い目がまっすぐに僕を捉えていた。でも僕は少しも怖くなかった。昔、彼女が言ったように、彼女が僕を食べることはきっとない、そう思えるくらい、それは透き通って見えた。

「だからオーチに行くのよ。私は自分を試したいから。誰かに言われた生き方じゃなくて、自分の心に従った生き方がしたいから」

 ユラは笑っていた。それは大袈裟かもしれないが、とても自然で偽りのない笑顔に見えた。

「オーチに行けば、それが分かるの?」

「ええ、分かるわ」

「僕には分からない」

 僕が言うと、

「あなたは忘れているだけ。そこに行けば、あなたもきっと思い出すわ」

 ユラは僕を見て、にこりと微笑んだ。

 するとその時、目の前にある草むらがガサゴソと動いた。

 僕もユラもすぐに身構え、草むらをじっと見つめた。すると、背丈ほどある草むらが二つに割れて、中から大きな熊が顔を出した。

「さっきの美しい歌声は、あなたたち?」

 

 

 その熊は自らをバーバと名乗った。

 彼女は年老いた老熊で、右足を引きずって歩いていた。体はもちろん大きいが、熊にしては痩せていて、年のせいか、毛並みも少し色褪せて見えた。

 バーバは寝ていたところをユラの歌声で起こされたと言っていた。別段、腹を立てている風には見えなかったが、じろじろとこちらを窺っているところを見ると、僕らに興味を抱いていることは何となく分かった。

「あなたたち、こんなところで何をしているの?」

 バーバは草むらにどしんと腰を下ろして言った。それからリラックスした様子で手元に生えていた草を口にくわえて、むしゃむしゃと噛み潰していた。ただ、その手には鋭く伸びた大きな爪が見える。

「僕たち、オーチを探しているんだ」

 僕が恐る恐る言うと、バーバは僕の隣にいるユラに目をやった。

「彼女も?」

 僕が頷くと、バーバはむしゃむしゃと動かしていた口をぴたりと止めて、じっとユラを見つめた。

「彼女はやめた方がいいね」

「どうして?」

「オーチが心を試す場だってことは知ってる?」

「心を試す場?」

「あなたが悲しければオーチも悲しいし、あなたが嬉しければオーチも嬉しい。あなたの心が穏やかであればオーチも落ち着いているし、そうでなければオーチも荒れる。あなたの心の持ち様でオーチはいくらでも変化するの」

「だから何だっていうの?」

「オーチが荒れた時、その反動を受け止めるのは自分だってことよ。私が見た限り、彼女はオーチにまだ早い。彼女の心がまだ追いついていないの。このまま行ったら、二人とも大変なことになるわよ」

 バーバはそう言うと、ユラを見て優しく笑いかけた。

 すると、それまで僕の背後に隠れていたユラが、すっと僕の前に出た。

 それを見たバーバは立ち上がって身構え、僕は二人の間に流れ始めた緊迫した空気を鼻先で感じていた。

「どうして私が行ってはいけないの?」

 ユラは困惑した様子でバーバに話しかけた。するとバーバが言った。

「ここは初めて?」

「ええ」

「自然の生き物に囲まれる気分はどう?」

「ええ、とても心地良いわ」

 ユラがそう言った直後だった。バーバはその巨体からは想像もつかない速さでユラに近寄ると、その鋭利な爪先をユラの首元に当てた。

「こういうことよ」

 それは本当に一瞬の出来事で、僕はとっさに後方に飛び跳ねたが、ユラは何もできずに突っ立ったままだった。

 バーバがユラの首に当てていた爪をゆっくりと下ろす。

「あなたは本当の生き物を知らない。それは言い換えれば、自分を知らないということ。自分を知らないあなたに、オーチは何と答えるかしら? 自分がなぜそう感じるのか、なぜそう考えるのか、それを知らないあなたに、オーチはどうすると思う?」

 そしてバーバは、また草むらにどしんと腰を下ろすと、周りに生えていた草を口元に手繰り寄せながら、むしゃむしゃとやり始めた。

「オーチってのは、そういうところよ」

 僕らはあまりに驚いて何もできずにいた。バーバの全身から漂う野生の気配は、僕らがそれまで体験したことのないものだったし、恐怖すら感じた。そして僕らはオーチに大らかな安らぎのようなものを期待していたけれど、そこは生と死が一瞬で入れ替わる厳しい世界でもあるんだと思った。でもだからこそ、僕たちはオーチに行かなければならない。バーバは、ユラはまだ心の準備ができていないと言っていたけれど、厳しい環境の中にこそ、僕らが探している本当の答えがあると思うからだ。

「分かってるよ」

 僕は勇気を振り絞って言った。

「だから僕たちは行かなきゃいけないんだ。ユラはそれを望んでいる。自分が誰で、何のために生きているのか、その答えを探してるんだ。だから僕たちはオーチに行かなきゃならない」

 するとバーバは驚いたように僕の目を見つめ、それからゆっくりと僕に顔を近付けると、やがて大きな両手を広げてそのふかふかの胸に優しく僕を包み込んだ。

「良い相棒がいて良かったね」

 そう言って、バーバがユラに振り返る。

「オーチはあっちよ。さあ、行きなさい」

 そして僕らは、バーバに別れを告げて、山の向こうへと歩いていった。

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