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ヒョウとトラ ~その4

 バーバに教わった道を通って山を抜けると、海に出た。

 目の前には、見渡すかぎりに真っ青な海が広がり、遠くに見える水平線が空と海を綺麗に分けていた。

 左右を山々に囲まれたこの入り江は三日月状に窪み、幾つもの小さな白波が黄土色の砂浜に何度も打ち上げている。

 絶え間なく響く波の音を聞きながら、僕らは初めて見る大海原を前に立ち竦まっていた。

「どうしよう……」

 この海を泳いで渡るなんて、とてもじゃないができそうにない。

 するとユラは波打ち際まで下りていって、遠くを眺めた。

「ねえ、見て」

 ユラの視線の先には、一艘の空舟があった。

 船頭を大綱のような荒縄で桟橋に繋がれ、それは桟橋の隅にゆらゆらと揺れている。

「あれは?」

 桟橋の先には、椅子に座って煙草を吹かす亀の姿が見えた。

「行ってみよう」

 ユラはそう言うと、桟橋に向かっていった。

 亀は僕らが近づいていくと、注意深く僕らを観察していた。

 亀がかけている黒いサングラスが陽光を反射して眩しい

 亀は背中に重そうな甲羅を背負っていて、笑顔がなく、むっつりと押し黙っていた。どことなく怒っているような、話しかけにくい印象だ。

「あの……」

 僕が言うと、亀は持っていた煙草を口に当て、それから溜息をつくように白い煙を吐き出した。

「なに?」

「舟を貸して欲しいんだけど……」

「いやだね」

 亀はそう言うと、背中の甲羅を重そうに横にずらし、明後日の方向を見て座り直した。

 僕はユラと顔を見合わせた。舟がなければ海は渡れない。海を渡れなければオーチには辿り着けない。

「じゃあ、どうしたら貸してくれる?」

「お前らには貸さない」

「私たち、どうしてもオーチに行かないといけないの。だからお願い。貸してちょうだい」

 ユラが言っても、亀は知らぬ顔で煙草を吹かしていた。

 さてどうしようか。このまま交渉を続けても、舟を貸してもらえなさそうだ。

 僕らは舟を諦めて、桟橋を引き返そうとした。そうしたら、亀が言った。

「待て。お前ら、オーチに行きたいのか?」

「そうよ」

​「オーチがどんなところか知らないのか?」

「もちろん知ってるわ。オーチには草が生えて、花が咲き、木々は枝葉の先に芽を育む――。そこでは、すべての生き物があるがままに暮らし、虎は虎らしく、亀は亀らしく暮らす」

 ユラが言うと、亀は甲高い笑い声を上げた。

「それは嘘だ」

「本当よ」

「​あのな、俺はお前らよりもずっと長く生きているが、オーチがそんなところだなんて聞いたことがない。みんなが口をそろえて言うのは、オーチが何もないところだってことだけさ。そんなところに行っても意味はない」

 亀は得意気に腕を組んで、煙草をぷかぷかとやった。

 するとそれを見たユラが言った。

​「あなた、何でも知ってるのね」

「当たり前だ、俺に知らないことはないね」

​​「それならいいことを教えてあげる」

 ユラはそう言うと、亀にゆっくりと近付いて煙草を取り上げた。

「煙草は体に悪いのよ」

 そして大きく息を吸い込んで、ゆっくりと歌い出す。

 僕はその歌声に目を瞑り身を任せた。ユラの歌声はすべてを包み込む。それは虎だろうが、亀だろうが関係ない。それを耳にするすべての者の心に働きかけ、それを柔らかく解きほぐす。何度も揉まれて、段々と内から温かくなるように、聞く者の心はその場に段々と溶け出していく。

 

 ”オーチは あなたがあなたらしくいれる 唯一の場所

 お願いだから 私たちを連れていって”

 すると亀は、急に何かを思い立ったようにサングラスを外した。そして小皺のたくさん寄った小さな目をぱちくりさせると、珍しそうにユラを見た。

「オイ、お前。どうしてオーチへ行きたいんだ?」

「あなたはどうして、ここにいるの?」

「どうしてだったかなあ……」

「ほらね、どうしてかなんて考えることに意味はない。行きたいから行くのよ」

 ユラはそう言って桟橋の横に浮いていた空舟に目をやった。すると亀はにっこりと笑って椅子から立ち上がり、嬉しそうに舟に飛び乗った。

「さぁ乗れ。オーチはあっちだ」

 亀は自らをアッシと名乗った。

 アッシは自分で何でも知っていると言ったのに、オーチの場所は分かっていない様子だった。

 最初のうちはそれでも良かった。アッシは船尾に立ってべらべらと話しながら舵を取り、僕らは生まれて初めて見る海に感動していた。美しい水面、翡翠色に透き通った海の中、海鳥たちの声。それらを物知り顔で説明するアッシの話は面白かったし、僕らは舟上の旅を満喫していたのだ。でも時間が経つにつれて陸が遠ざかり、周りに海しか見えなくなると、僕らは急に不安になった。アッシの口数はみるみる減って、僕らはぴちゃぴちゃと舟に当たる波の音だけを聞いていた。そして僕らがいるところがどこなのか見当もつかなくなった頃には、入り江に戻る方向さえ見失っていた。

 三日と三晩、舟の上の生活が過ぎて、四日目に雨が降った。それから三日雨が続き、今朝、久しぶりに太陽が顔を出した。その間、僕らは偶然つかまえた魚や、それを食べにやってきた海鳥を食べて飢えをしのいでいた。でもここ数日は何も食べれない日が続き、僕らは皆、空腹だった。

「ねえ、本当にこっちで合ってるの?」

 ユラは焦点の定まらない目で海面を見つめながら舟を漕いでいた。

「ああ、合ってる」

 アッシは櫂(かい)を放り投げて舟の上で丸くなっていた。

「あとどれくらい?」

 僕は、容赦なく照り付ける日差しと絶え間ない揺れに、頭が朦朧としていた。

「もうすぐだ」

 その言葉に、ユラは一生懸命に舟を漕いでいたが、やがて持っていた櫂を海から引き上げると、僕にそれを差し出して言った。

「あなたの番よ」

 そして疲れた様子で舟の上に寝そべると、目を瞑って居眠りを始めた。

 僕は仕方なく舟を漕ぎ始めた。

 何度も櫂で水を掻いた。でもそうやって水を掻いていると、僕もだんだんと眠くなってきて、いつの間にか、僕も眠ってしまっていた。

 

 グルルルゥ。

 ふと、どこからか音が聞こえてきた。

 グルルルゥ――。

 それはすぐ耳元までゆっくりと近づいてきていた。

 目を開けると、目の前にユラの顔があった。でもそれは、いつもの穏やかなユラではなくて、獲物に飢えた野生の虎の顔だった。

「ユラ! 何をしてるの!」

 僕は慌てて跳ね起きた。

 ユラの目は赤く血走り、口からは涎が滴り落ちていた。

「ユラ、僕を食べないと言ったのは嘘だったの?」

 僕の呼びかけも虚しく、ユラは牙を剥き出しに低く身構えると、猛然と僕に襲いかかってきた。

「待って!」

 僕は必死になって抵抗した。でもこの狭い舟の上では僕に勝ち目はなかった。彼女の太い腕が僕を舟底に押さえ付け、鋭い牙が僕を襲った。僕は悲しくてたまらなかった。怖かったし、不安だった。だから僕はユラの名前を呼び続けた。僕を食べないと言ったユラに戻って欲しくて、何度も語りかけた。

「ユラ! ああ、ユラ! 君はこの世の誰よりも美しくて気高い。強くて、優しくて、人の言葉が話せて、そして何よりも、美しい唄を歌う。ユラ! 本当の自分を思い出して!」

 僕はそばに転がっていた櫂を手繰り寄せると、それでユラの口を塞いだ。

 でもユラは櫂に噛みつき、そのまま櫂を海へと放り投げてしまった。

 ああぁぁ――エメラルド色に透き通った海の底へと、櫂がゆっくりと旋回しながら落ちていく。

 ああ、ユラ……。

 僕は君のようになりたかった。

 君のように強く堂々と美しい唄を歌いたかったんだ――。

 僕は観念して目を瞑った。そして彼女に食べられるのなら、それも仕方ないと思った。

 でもその時、どこからか陽気な歌声が聞こえてきた。

「ケンカをやめてぇぇ、二人をとめてぇぇ、ってか?」

 不思議に思って顔を上げると、アッシが船尾に腰かけて煙草を吹かしていた。

「ケンカは意味ない。なぜならケンカは何も解決しないからだ」

 アッシはそう言うと、ぷかぷかと丸い煙を宙に漂わせた。

「俺たちは腹が減ってる。ケンカをして腹が満たされるか? 満たされない。むしろ減るくらいだ」

 そして背中の甲羅を重そうに横にずらすと、中から食べ物を取り出して船底に並べ始めた。そこには、サツマイモやバナナ、驚いたことに、おにぎりやチーズもある。

「食べ物だ!」

 僕が言うと、ユラが飛び跳ねた。

「どこ?」

 ユラの目は透き通った青色に戻っていた。

「ユラ! 良かった! 思い出したんだね!」

「ウキ。食べ物はどこ?」

 僕らはアッシが持っていた食べ物を夢中になって食べ続けた。まさかアッシが甲羅の中に食べ物を隠し持っていたなんて考えもしなかったけれど、そのおかげで僕らは助かった。もっともっとと僕らがせがむと、アッシはどんどんと甲羅から食べ物を出してくれた。そうしてお腹いっぱいになると、僕らは海の上にいることを思い出して途方に暮れた。

「櫂は海の底に沈んじゃったし、櫂がなけりゃ舟は進まない。さてこれからどうしようか……」

 するとアッシが言った。

「心配するな。知り合いにちょうどいい奴がいる」

 そして甲羅の中からスマートフォンを取り出すと、煙草をすぱすぱとやりながら誰かと話し始めた。

 間もなく、舟が大きく揺れた。

 僕もユラもとっさに身構えたが、アッシは呑気に煙草を吹かしていた。

「何が起きているの?」

 僕がそう言った時、舟の下に巨大な影が見えた。それは段々と濃く大きく水面に近づいてきて、やがて海面から大きな顔を出す。

「久しぶりだな、アッシ」

 それは潜水艦のように大きな鮫だった。藍色の背中に白い斑点が美しいその鮫は、大きくて丸い目を海面から覗かせて僕らを見つめていた。

「おう、元気だったか、マーサ」

「ああ、ちょうど退屈していたところだ。今日はどうした?」

「悪いが、俺たちをオーチまで連れて行ってくれないか?」

「オーチ?」

「ああ、知ってるだろう?」

「もちろん知ってる。けど、どうしてあんなところに行きたいんだ? あそこには何もないぜ」

 すると二人の会話を聞いていたユラが言った。

「オーチは心を試す場よ。あなたが優しければ、優しさが返ってくる。あなたが意地悪なら、意地悪が返ってくる。私はそこで自分の心を試したい。自分が誰で、何のために生きているのか、それが知りたいの」

 すると、アッシが言った。

「要は、行きたいから行くのさ」

「そう! 行きたいから行く!」

 ユラが舟から身を乗り出すと、マーサは「乗れ」と言って、その美しい藍色の背中を海面に覗かせた。

 僕らは舟を捨ててマーサの背中に飛び乗った。

 すると穏やかな波がやってきて、僕らは温かい波に飲み込まれた。それはまるで下半身が溶けていくように温かくて、なんだかとても気持ちの良い波だった。

「さあ! オーチへ行こう!」

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