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飛行機

 一学期も終わりに近づいて、頭上には爽やかな青空が広がっていた。

 綿を積み上げたような白雲がコンビニの屋根の向こうに迫り上がっている。風はなく、じっとしていると汗が噴き出てきて、体がそれ以上動くのを諦めてしまいそうなほどの暑さだった。

 今日は七月に入ってから三日連続となる猛暑日。

 歩道は信号待ちをする人々であふれ、皆、うんざりした様子で手うちわを繰り返していた。旗振りの小父さんは街路樹の木陰に立って汗を拭いている。小父さんは数人の子どもたちに囲まれ、にこにこと子どもたちの質問に答えていた。交差点の信号が青に変わるまでのたわいないおしゃべりだ。この近くには小学校がある。この交差点は、町の中心部へ向かう子どもたちと、曽良琴川方面へ向かう子どもたちの分岐点だった。

 赤や紺、茶色のランドセルが続々とやってくる。とその時、遠くから小学生男子の高い声が聞こえてきた。

「うそつきぃ!」

 街路樹の先に四人組の男子がいた。いかにも仲の良さそうな四人だが、そのうちの一人が他の三人からからかわれている。

「あそこはドローン飛ばしちゃいけないんだぞ!」

「うそじゃない! 本当に見たんだよ!」

「うそだぁ! うそつきぃ!」

「本当だよ! 本当にドローンが飛んでたんだって!」

「うそつきぃ! キモぃ!」

 それだけならまだよかったが、三人のうちの一人が、突然、少年を突き飛ばした。すると、突き飛ばされた少年はよろけて車道に転がり出た。そこへ白い車がやってくる。車はクラクションを鳴らして少年の前で急停止した。

 けたたましいクラクションが昼下がりの夏空に響きわたり、ほんの一瞬、蝉の声が遠ざかる。

 三人の男子たちは一斉に走り出した。

「待って! 僕はうそつきじゃないよ! ねえ、待って!」

「うわっ、触るな! うそつきがうつる!」

 少年は手を伸ばしたが、彼らはその手を振りほどいて交差点を渡っていった。

 その様子を遠くから見ていた旗振りの小父さんが少年を心配して近づいていく。

 少年は歩道に座り込むと、擦りむいて血が滲み出た膝を見つめていた。

 

「ただいまぁ……」

 玄関を開けると、奥から母親の声が聞こえてきた。

 間取り2DK。玄関を入ると台所があり、左手にトイレと浴室、奥には母親の仕事場と化した居間がある。壁や硝子が薄いため、隣人の生活音はよく通り、冬にはすきま風が、夏には外の熱気が入り込んだ。台所が狭く、天井も低い古いアパートだ。少年はここに母親と二人で暮らしていた。

 母親は窓際の机に向かってヘッドセットで誰かと話していた。机の上にはパソコンが置いてある。新型コロナウイルスの蔓延後、母親は自宅でリモートワークをするようになっていた。週に数回出社することもあるが、基本的には自宅にいる。

 少年はいつものように玄関にランドセルを置くと、母親の背後を通って隣にある寝室へ入っていった。ランドセルを置く時はもちろん、歩く時も戸を閉める時も大きな物音を立ててはいけない。少年はそっと戸を閉めると、まだずきずきと痛みの残る膝に目をやった。

 膝に血がべっとりと固まっていた。血には砂が混じっていて、周りの皮膚は白くなっている。

 少年は、戸の向こうから聞こえてくる母親の声に耳を傾けて、じっと奥歯を噛み締めた。

 この部屋にいると、母親が誰と話しているかすぐに分かった。普段よりも高い声で話していれば偉い人、普段と同じ低い声でげらげら笑っていたり、誰かの悪口を言っていれば同僚だ。

 少年は自分のベッドまでいくと、ベッドの端にゆっくりと腰を下ろした。

 ベッドの下から赤と白のラジコン飛行機をゆっくりと引き出す。

 それは去年の誕生日に父親に買ってもらった飛行機だった。機体の白い部分が所々草色に傷付いているが、それは父親と一緒に遊んだからだ。少年にとっては、それで遊んだ回数以上に、父親との思い出が詰まった大切な飛行機だった。

 いいか、うそはよくない――ある時、父親は言った。うそは人を傷つける。だからうそはつくな。

 初めてそれを操縦して、空中をうまく旋回できたこと。頭から土手のコンクリートに突っ込んで、夜中まで一緒に修理したこと。橋下の草むらに落ちて、暗くなるまで探したこと――その一つ一つが、その時々で父親が口にした言葉とともに鮮明に頭に蘇る。

 少年は床に転がっていたリュックサックを引き寄せると、そっと飛行機を中に入れた。

 引き戸の向こうからはまだ母親の話し声が聞こえてくる。

 手を叩いて笑う母親の声が聞こえ、今話しているのは同僚だと少年は思った。さっきまで話していたのは偉い人。少年はその二面性が嘘をついているようで嫌だった。

 うそつき……。

 足元の段ボール箱には、母親が捨てると言って捨てられていないゲーム機が入っていた。

 少年はリュックを背負うと、寝室を出た。

 母親の背後を通って玄関へと向かう。

「どこ行くの?」

「畑中んち」

「宿題持った?」

「持った」

 そう言って家を飛び出した少年のリュックからは、白い飛行機の翼が片方だけ外に飛び出していた。

 

 

 曽良琴川は国内の美しい河川十選に選ばれたこともある雄大な川だ。川幅はおよそ四十メートル。水深は中心に行くほど深くなっており、橋の下は大人でも地に足が着かないほど深かった。水の色は薄く透き通った緑色をしており、その流れは一年を通して穏やかで大様だ。川の両側には丸石の転がる白い河原が広がり、堤防に近づくにつれて駐車場や芝のグラウンドが整備されていた。そうしたこともあって、春には鮎を狙う釣り人が、夏には河原でのバーベキューや川遊びを楽しむ家族連れが訪れ、河川敷は大いに賑わう。

 その河川敷の一角に雑草の生い茂る公園があった。そこは公園と言っても、幼児向けのカラフルな遊具がぽつんとあるだけの開けた場所で、いつ行っても誰もいない。少年は学校が終わると、いつもここで飛行機を飛ばして遊んでいた。

 紺碧の空に甲高いモーター音が響きわたる。音は静かな胸の高鳴りを引き連れて遠ざかり、遠方の空でゆっくりと旋回して戻ってきた。綿雲の浮かぶ水色の空を、白いミニチュア飛行機が堂々と横切っていく。それを目で追う少年の口は半分開いたまま、手には送信機が握られていた。

 ここで飛行機を飛ばしていると、どういうわけか心が落ち着いた。上昇、下降、旋回、何でもできた。自分の思った通りに動くそれは、息がぴったり合った友達のように思えた。それと一緒に遊んでいるうちは、嘘をつく必要もなければ、嘘をつかれる恐れもなかった。大空を縦横無尽に飛び回る飛行機を見ていると、ありのままの自分でいられたし、奥歯を噛むような嫌なことも忘れられたのだ。ところが、その幸せな時間は、聞き慣れた声によってあっけなく壊された。

「あ、小原だ! おまえ、なにやってんの!」

 土手の上から畑中が自転車にまたがって見下ろしていた。畑中の後ろには、いつも畑中と一緒にいる小久保と前橋もいる。先ほど少年を車道に突き飛ばして逃げたクラスの陽キャグループだ。

 

 畑中はクラスの人気者だった。よく喋るし、ゲームやアニメに詳しい。去年の秋に他県から転校してきた転校生だったが、現在はすでに皆の中心にいて、クラスのリーダー的存在だった。畑中は小学生では珍しくスマホを持っていて、公園などでそれをよく周囲に見せびらかしていた。スマホでは流行りの音楽を聴いたり、人気の動画を見たり、そういうことができるから、彼の周りには自然と人が集まってくる。畑中はそうやって集まった子らを連れて近所の駄菓子屋へ行くと、そこで百円を与えて好きなものを買えと振る舞ったり、そういう子らをぞろぞろと引き連れて川沿いの土手の上を練り歩いたりしていた。家は三階建ての豪邸。身の周りの世話は家政婦さんがやってくれる。そう自慢する畑中は、周りの者たちよりも少しだけ大人の世界を知っている、一目置かれる存在だったのだ。

 一方で、少年はクラスの中で一人でいることが多く、やや浮いた存在だった。部活動をしているわけでも、習い事をしているわけでもなく、学校に友達と呼べる近しい存在もいない。自分から話しかけることもないため、放課後はいつも一人で過ごしていた。ところが畑中からすれば、この少年だけが自分に関心を持ってくれない。畑中はこの少年に毎日のようにちょっかいを出していた。だから少年は畑中と特段に仲が良いというわけでもない。畑中が絡んでくるから話をする程度の間柄で、実のところ、少年は一度も畑中の家に行ったことはなかった。

 畑中たちは自転車に乗って土手を駆け下りてきた。そして公園の前に止めてあった少年の自転車の隣に自転車を止めると、三人で何やら楽しげに会話をしながら少年のもとへやってきた。

「おまえ、なにやってんの?」

 畑中はお菓子のラムネ棒を煙草のように口にくわえていた。

「え?」

 少年はまずいことになったと思った。畑中はおそらく「貸せ」と送信機を取り上げるつもりに違いない。飛行機は少年にとって父親との思い出が詰まったとても大切なものだ。操縦の仕方を知らない素人に貸して、墜落でもしたら大変なことになる。

「いや……」

 少年は畑中たちに背を向けた。

 逃げるなら今だ。迷っている暇はない。でも飛行機は空を飛んでいる。着陸させている時間はない。そうかと言って、上空を飛行させたまま自転車に乗ることはできない。どうしよう――。

 少年が迷っていると、畑中は空を見上げ、それから少年の手にある送信機に目をやった。

「それなに?」

 ほらやっぱりそうだ――少年が送信機を胸に抱え込むと、畑中は小久保や前橋とともに少年を押さえ、あっという間に少年から送信機を取り上げた。

「ちょっとなにするの! 返して!」

 少年は慌てて取り返そうとしたが、小久保と前橋が邪魔をして手が届かない。

「これどうやんの?」

 畑中は少年が伸ばした手をひょいひょいとかわすと、適当に送信機を操作しながら遊具の一番高いところによじ登った。

「だめだよ! さわらないで!」

 畑中の頭上、水色に透き通った空を切り裂くように飛行機が飛んでいく。

「待って! そっちはだめだって!」

 飛行機はゆっくりと弧を描いて下降し、やがて土手の向こう側へと消えていった。

 ガシャンと、遠くから硝子の割れる大きな音が聞こえてくる。少年は急いで土手を駆け上がった。

 土手の反対側には平屋の民家が並んでおり、少年の飛行機はどうやらそのうちの一つ、土手に一番近い民家に飛び込んでいる様子だった。

「どうしよう……」

 少年の頭に真っ先に浮かんだのは、どうやって飛行機を取り戻すかだった。今までずっと友達のように接してきた飛行機だ。このまま置いて帰るわけにはいかない。でも飛行機は知らない人の家の中にある。しかも窓を割ってしまっているから弁償を要求されるかもしれない。そうなれば親に言わなければならなくなるし、親に怒られるのは必至だ。

 本当にどうしよう……。

 するとその時、家の窓が開いて、中から坊主頭の大男が顔を出した。

 その頭は陽光を反射するほどに綺麗に剃られ、眉間には深い皺が寄っている。薄汚れたいわゆる『ランニングシャツ』のお腹はぷっくりと膨れ、筋肉の盛り上がった大きな肩と太い腕にはびっしりと刺青が彫られていた。

「うわっ、マロンだ! ヤバい!」

 畑中たちは男を見るやいなや、自転車に乗って逃げてしまった。

 すると男はその声に気付いて土手を見上げた。

 少年は男と目が合いそうになって、思わず目を逸らした。目が合ったら殺される、本気でそう思った。心臓は信じられない速さで脈を打ち、全身から変な汗が噴き出していた。少年は知らん顔で犬を散歩する人に付いて歩き出した。そしてそのまま坂を下ると、公園前に止めた自分の自転車に向かって走り出した。

 マロンはこの辺りでは誰もが知る有名人だ。大きな体に剃り上げた頭、そして両腕に彫られた刺青と、豊かな田園の広がる小さな田舎町において、その見た目のインパクトは凄まじい。彼がこの町にやってきたのは二年前のことだったが、河川沿いのボロ家に住み始めて間もなく、彼の噂は瞬く間に広がった。あの人は元ヤクザの親分で人を何人も殺しているだとか、事件を起こして他県から逃げてきただとか、体が放射能で汚染されているだとか、人々は噂を口にし、ともに怖がり、決して近づこうとはしなかった。触らぬ神に祟りなしと、そういうわけだ。この町の大人たちは皆そうした。ところが子どもたちは面白がった。マロンという名は、子どもたちの間で付いた名だ。昔、彼が犬を散歩していた時にその犬を「マロン」と呼んでいたことから、子どもたちがそう呼ぶようになったのだ。ただその犬も今はもういない。子どもたちはマロンが犬を殺して食べたと本気で信じていた。そんな恐ろしい男の家に大切な飛行機を残して帰宅した少年の不安は計り知れない。

 六畳の台所。流し台の前にある二人掛けの小さなテーブルには、近所のお弁当屋さんで買ってきた唐揚げ弁当とペットボトルのお茶が置いてあった。弁当容器には好物の唐揚げが手つかずのまま残っている。お腹は空いているのに食事が喉を通らなかった。

 どうしよう……。

 心臓の鼓動が早かった。

 飛行機は取り戻したい、でもマロンの家には行きたくない――箸を持つ手が震え出す。

 まるで猛獣のいる檻の中に手を突っ込むような感覚だった。相手は飼い犬を食べるような残酷な大人だ。一人で行ったら、家の中に連れ込まれて酷いことをされるかもしれない。

 でもよく考えてみろ。悪いのは畑中だ。あいつが僕からプロポを奪い取ったから、あんなことになったんだ。あいつが悪い。あいつが謝りにいくべきだ。

 でも、畑中にそんなこと言ったらきっと殴られる。そして小久保や前橋を呼んで、稲田とか藤森とかあの辺の二軍陽キャも巻き込んで、クラス中に僕が飛行機を飛ばしていたことを言いふらされる。それはダメだ。稲田のお母さんとうちのお母さんは仲が良い。稲田のお母さんから僕が飛行機で遊んでいたと聞いたら、うちのお母さんはものすごく怒るだろう。僕があれを捨てていなかったと知って、もう二度と家に入れてくれないかもしれない。

 どうしよう……。本当にどうしよう……。

 居間に目をやると、母親はパソコンの前でスマホを眺めていた。まだ仕事中だ。

 誰かに話したいのに、味方になってくれそうな人が誰もいない。

 家の中にいるというのに、どこかに逃げ出したくてたまらない。

 少年はスマホを眺める母親を諦めると、テーブルの上にあったタブレットを引き寄せた。そしてタブレットでお気に入りの動画を再生すると、イヤフォンで耳を塞ぎ、いつものように冷たい唐揚げを口の中に詰めていった。

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