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事件
そんなある日、少年がいつものようにランドセルを玄関の床に置いて外に行こうとすると、母親に呼び止められた。
「ねえ、ちょっと待って」
自転車の鍵を握って少年が振り返ると、母親は椅子に座ってスマホを眺めていた。
「なに?」
「あんた、どこ行くの?」
母親はスマホから顔を上げると、心配そうに少年を見つめた。
「え? 畑中んち」
「本当?」
母親は怪しんでいた。畑中の家に行っていないことがバレたのだろうか?
「壮太くんママからライン来たんだけど、あんた、変な人と遊んでるの?」
「えっ?」
少年の心臓が高鳴り出す。
「だめ」
母親は真剣な顔で少年を見つめていた。真剣さが研ぎ澄まされて、もはや睨んでいるような表情だった。
「あの人と遊んじゃだめ」
「あの人って?」
「腕に刺青入れてるおじさん。河川敷の近くに住んでる変な人だよ」
「知らない」
「嘘ばっかり」
「うそじゃないよ。本当に知らないもん」
「とにかくだめ。もう河川敷には行っちゃだめ」
「なんで?」
「危ないからに決まってるでしょ?」
「危なくないよ。お母さん、知らないじゃん」
「あんたは知ってるの?」
少年は黙り込んだ。そして黙ったまま外へ行こうと玄関の扉を開けた。
「ダメって言ってんじゃん!」
母親の強い言葉が飛んでくる。それでも無視して行こうとすると、母親が机を叩いた。
「ねえ! いい加減にして! タブレット禁止にするよ!」
少年はじっと母親を睨みつけた。そして握っていた自転車の鍵をしぶしぶ靴箱の上に戻すと、無言で母親の前を通り過ぎ、寝室に入っていった。
はらいせに寝室の扉を思い切り閉める。少年は空っぽのリュックを背負ったまま、頭からベッドに倒れ込んだ。
少年の中を強い憤りが駆け巡っていた。それは土石流のように怒りと悲しみをごちゃまぜにして、言葉にならない叫びを胸の奥から引きずり出す。
「ああああああ!」
どうしようもなくむしゃくしゃした。枕を叩いても、足をバタバタ動かしてもどうにもならない。
少年は助けを求めてベッドの下に手を入れた。
ところがいくら手を動かしてみても、そこにあるはずの飛行機に手が触れない。いつもならすぐに指先が当たるはずが、腕を伸ばしても当たらなかった。
少年はベッドの下を覗き込んで愕然とした。
ベッドの下に隠していた飛行機がない。いつも飛行機を置いていたその場所には、空っぽの床が広がり、しんとしていた。その静けさがかえって騒々しい。
少年はベッドから立ち上がると、勢いよく扉を開けた。
「どこにやったの?」
母親は目と口を大きく開いたまま固まっている。
「え?」
「飛行機。お父さんからもらった飛行機!」
「捨てたよ」
「は? なんで?」
「あんたが捨てないからでしょ? お母さん、捨てろって言ったよね?」
母親は勝ち誇ったような顔をしていた。それが無性に悔しくて、少年は何も言わずに扉を閉めた。母親があの飛行機にあまり良い思いを持っていないことは知っていた。だから見つかればこうなることも分かっていた。それでも納得はできない。蒸し暑い寝室に閉じ籠もった少年は、枕に顔をうずめたまま、どうして自分の気持ちばかり無視されるのかと考えていた。ただの悲しみでは片づけられない、ゆっくりと膨らんでいく怒りが目の奥を熱くさせた。それはやがて涙となって目からあふれ出し、悔しさとなって心に根を張るように広がっていった。何も言い返せなった自分が一番許せなかった。
◇
それは終業式前日のことだった。
昼休みが終わると、教室内に机を引きずる音が響き始めた。いつもの掃除とは違い、今日は大掃除だ。女子たちは楽しそうに夏休みの予定を言い合い、男子たちは廊下でふざけて遊んでいた。黒板消しをぱんぱんと叩いて遊ぶ男子、棚の上に並んだ美術の作品を片付ける女子、床に座り込んで学期中に溜め込んだプリントを整理する男子、それぞれが思い思いに掃除を担当している。少年のクラスでは通常の授業がお楽しみ会に変わり、皆でクイズをしたり、ゲームをしたり、朝から一日、和気あいあいとした雰囲気が続いていた。
そんな中、少年は一人、窓の桟を拭いていた。
乾いた雑巾でかりかりと汚れを削り取る少年の胸の奥では、まだ昨日の出来事が燻っていた。
その背中にひときわ大きな声が飛んでくる。
「小原! おまえさ、あの飛行機どうなった?」
振り返らなくても分かる。畑中の声だ。
「取り行った?」
畑中がやってきて振り返ると、畑中の周りに小久保や前橋ら、いつもの取り巻きたちがいた。
「行ったよ」
少年が言う。すると畑中は驚いた様子で取り巻きに目をやった。
「え? おまえ、マロンち行ったの?」
「行ったよ。でももういいんだ」
少年は畑中が謝ってくれるものと思っていた。でも飛行機はもう手元にない。だから今さら謝られてもどうしようもない、そう思っていた。ところが畑中は謝るどころか、気にするそぶりも見せなかった。
「え? おまえ、一人で行ったの?」
「うん」
「うそつけ」
「うそじゃないよ」
「じゃマロンちにあったもの言ってみて」
「中入ってないからわかんない」
「やっぱうそじゃん、うそつき」
畑中が言うと、取り巻きも同調し、嘘だ、嘘だと騒ぎ立てた。
少年は奥歯を食いしばった。悔しくて、腹立たしくて、どうしたらいいか分からなかった。
「どうせ夢で行ったのを『行った』って言ってんだろ?」
「わかるぅ。そういうやついるよね」
「ムユウビョウだ、ムユウビョウ!」
「こいつ、うそつきだからしょうがないよ」
取り巻きの声が続く。と、雑巾を持つ少年の手が震え出した。
「ちがうって。ぼくはうそつきじゃないよ!」
「じゃショウコ見せろよ」
畑中は勝ち誇ったような顔で笑っていた。
その笑い顔が胸の奥をぎゅっと締め付ける。心臓がどくどくと騒ぎ出し、少年は雑巾を握り締めた。うそつきと呼ばれたことが嫌だったんじゃない。畑中の勝ち誇ったような顔が許せなかったのだ。
「いいよ……、じゃあ見せてあげるよ」
「なにを?」
「ドローンだよ」
ふと、空気が止まった。少年自身、自分の口からこぼれ落ちたその言葉が信じられなかった。
「え、マジ? へえ、ドローン見れるんだ」
畑中が面白がるように目を細める。
「学校終ったら河川敷に来て。そしたら僕がうそつきじゃないってわかるから」
少年はそう言ったあとで、胸の奥にどんと重みを感じた。
(いいか、これは俺とお前だけの秘密だ。秘密。わかっか?)
いつかのマロンの言葉が胸の奥にじわじわと広がっていく。それはやがて黒い汚れとなって、胸の内側にゆっくりと染み込んでいった。それは雑巾で拭いても、ごしごしこすっても、消えそうにない。
少年は畑中たちに背を向けて窓を拭き始めた。そして畑中たちが教室の外へ出て行ったのを確認すると、桟についた汚れを雑巾で隠し、窓の外をぼんやりと眺めた。
◇
西の空に太陽が傾き始めた頃、畑中たちがやってきた。
少年は畑中と合流すると、橋の近くの土手を下りていった。
土手の向こう側から黄金色の陽光が差し込んでいた。土手の上を行き交う人々は西日に照らされ、まるで影絵のように動いている。犬を散歩する人、ジョギングする人、周りにあるすべてのものが一日の終わりに向かって進んでいる、そんな気配だった。土手を下った先にある茂みは、一面、黄金色に輝いている。
「どこ?」
「こっち」
少年は先頭に立って茂みを掻き分けていた。
空はまだ青いが、風は涼しい。周囲にはひぐらしの声が鳴り響き、時折、蛙の声も聞こえてきた。もうすぐ日が暮れる。
「まだ?」
「もう少し」
気がはやって、少年は急いで茂みを抜けていった。
ところが橋の下に行ってみると、いつもいるはずのマロンがいない。今まではいつもこのくらいの時間までマロンと遊んでいたから、てっきり今日もいるものだと思っていた。
「ドローンは?」
畑中がいぶかしげに辺りを見回す。
「いや……」
小久保と前橋は木の枝を持って周囲を探索していた。
「おまえ、またうそかよ」
畑中はがっかりしたように息を吐くと、遠くの茂みを枝で叩いていた小久保と前橋に向かって声を張り上げた。
「こいつ、またうそついた!」
少年は頭を引っ叩かれた気分だった。申し訳ない気持ちとむしゃくしゃする気持ちの両方だ。
すると、小久保と前橋は何かを発見した様子で畑中を呼んだ。
「ライト! ちょっとこっち来て!」
少年は畑中と一緒に小久保たちのもとへ近寄っていった。
「なに?」
畑中が声をかける。
小久保は木の枝で茂みを押さえて奥を覗き込んでいた。
「用水路。巨大魚いそう」
「マジ?」
「けっこう深いよ、気をつけて」
小久保が言うと、畑中は後ろで待っていた少年に振り返った。
「おい、うそつき。おまえ、罰として、魚いるか見てこいよ」
それに小久保と前橋も面白がって便乗する。
「そうだ! うそつきぃ、はやく見てこい!」
「うそつきはどろぼうだぞ! どろぼう、はんざいしゃ、うそつきぃ!」
声はどんどんと膨れ上がって、まるで火に油を注ぐように少年の耳をじりじりと焼いていった。
少年はぐっと奥歯を噛み締めた。
皆の「うそつき」という言葉が、まるで冷たい泥玉みたいにべちゃりべちゃりと顔にぶつかった。最初は泥がゆっくりと滑り落ちていくような嫌な感覚だった。しかしその泥はいつの間にか熱を帯び、小さな火種みたいにほんのかすかに赤い光を放ち始める。それは畑中の笑い顔が目に入るたびにぱちぱちと弾け、火の粉が少年の頭の中に積もった枯草に次々と燃え移った。
「ぼくはうそつきじゃない!」
「おまえ、うそつきだろ。ドローン見たって俺らをだまして」
その時、少年の中で何かが爆発した。ドンっと、大砲のように重く響く音。次の瞬間、少年の中に抑えていた怒りが一気に溢れ出す。
「うるさい!」
少年は両手で思い切り畑中の肩を押した。
畑中はそのままバランスを崩し、用水路へと転がり落ちる。大きな水しぶきが上がり、畑中の姿が水の中に消えた。あまりに突然のことに、小久保も前橋も唖然としている。
「ライト!」
「おい、ライト!」
何度も呼びかけるが、真っ黒い水面には波紋だけが広がっていく。
「どこ行った?」
皆で水面を見つめていると、やがて用水路を下った先の下流から叫び声が聞こえてきた。
「たすけて!」
水面に顔を出した畑中は、足がつかないのか、助けを叫びながら暴れていた。しかし水の流れは想像以上に速い。あれよあれよという間に、畑中は水路を流されていった。
大変なことになった――その場にいた誰もがそう思っていた。しかし誰もどうすればいいのか分からなかった。小久保と前橋は突然の惨事にうろたえ、少年にすべての責任を押し付けて逃げ出した。
「待って!」
そう言ったつもりが声が出ない。膝が震え、心臓がばくばく言っていた。
やけに静かな夕闇がひっそりと少年を包み込んでいた。蛙の声、蝉の声、聞き慣れた声がいつもと違って聞こえた。目に映っているはずの景色が遠のいて、どんどんと現実味が薄れていった。
やばい、やばい、やばい――。
その言葉しかもう頭には残っていなかった。考えることも、どうすべきかなんてことも、全部、脳みそのどこかに押しやられていた。
逃げろ――。
誰かにそう言われたわけじゃない。でも頭のもっと奥、骨の内側からそんな声が響いた。
気が付けば、少年は走り出していた。呼吸なんてまともにできない。必死に地面を蹴って、必死に草を掻き分けていた。誰かが追いかけてくるわけでもないのに、何かがそこにいるような気がして振り向くことすらできなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。違う。違うんだ!
頭の中でそんな言葉がぐるぐると渦を巻く。でも誰にも聞こえない。自分にもちゃんと聞こえていない。
少年は無我夢中で逃げた。
逃げるしか、できなかった。
◇
その夜、少年は深夜を回っても、どきどきして眠れなかった。
母親は外出し、家には少年一人しかいない。電気の消えた寝室では扇風機が回り、その音だけがかたかたと部屋の中に響いていた。暗闇が静かに忍び寄る。
目を瞑ると、水中でもがく畑中の必死の形相が頭に浮かんできて、少年はタオルケットを頭からかぶった。
僕はなんてことをしてしまったんだ……。
頭の中で畑中が小さく流されていく。遠くの水面から懸命に顔を出し、手を振り上げる畑中の姿が何度も頭をよぎった。
畑中の痩せた肩――それに触れたあの瞬間の手の感触、その決してやってはいけないことをしてしまった黒く汚れた感情が胸の奥を重くする。膝を擦りむいた時よりもずきずきと胸の奥が痛かった。
でも、あいつが「うそつき」って言ったから……。僕が悪いんじゃない。悪いのはあいつだ。
タオルケットの中で小さく丸くなる。
タオルケットの中がやけに蒸し暑かった。蒸し暑いけれど、外に出たくない。
嫌な汗が首筋を滴り、ただただ胸がざわついた。
ああ、なんでこんなことになったんだ?
これがお母さんに知られたら、僕はどうなるか分からない……。
少年は大人の世界の罰が、ぼんやりと、しかし確実に怖かった。
すべてなかったことにしたい。
寝てしまえばすべて消えるかもしれない。
少年はひっそりとした暗闇の中、必死に眠ろうとじっと目を瞑っていた。