
ノリさん
練馬に『唐芳(からよし)』という小さな飲み屋がある。
千川通りから一本小道を入って、マロニエ通り方面へ進んでいくとそれはある。古いコインパーキングと自販機に挟まれた、そこだけ時代に取り残されたような見た目の古い建物だ。練馬駅周辺にはモダンでお洒落な外観のお店が多いが、そこは色褪せた暖簾(のれん)があって、壁が汚くて、お客さんも常連客しかいないような、いわゆる昭和の匂いがする居酒屋だった。
昔からある飲み屋なんてどこもそうだと思うが、唐芳を知った当初、僕はそういうお店に入ろうと思ったことは一度もなかった。元々人見知りの性格だったってのもあるが、そういうお店は客を選ぶと思っていたし、単純に僕のように卑屈な人間には合わないと思っていた。そもそもその頃の僕は、誰かと話したいとか、ぱあっと飲んで嫌なことを忘れたいとか、そういう前向きな思考回路を持ち合わせていなかったのだからしょうがない。じゃあどうして、そんなお店に入ろうと思ったのか、それはひょんなことから、そこの店主と知り合いになったからだ。
当時の僕は、世の中のすべてにうんざりしていた。すべてというのは決して大袈裟じゃない。早朝のカラスの鳴き声も嫌だったし、何度外に出しても家の中に入ってくる蜘蛛も嫌だった。道端に落ちている煙草の吸殻も、雨の日の濡れたスーツの匂いも嫌だったし、資源ごみの回収日に放置された生ごみの匂いも、隣人の生活音も嫌だった。こんなに嫌なことばかりで生きていて何が楽しいのか分からなかったし、どうして僕だけがこんな目に遭わなければならないんだっていつも思っていた。今考えると精神状態は最悪だ。どん底もどん底。あまりに嫌なことが多すぎて、どうしようもないなって笑っていたくらい、本当に、心の底からすべてがどうでもよかった。
でも現実は仕事に行かなければならない。やりたくもない仕事をして、稼いだお金で家賃を払って、光熱費とか通信費とかを払わなければならない。食費はぎりぎりまで切り詰めて、コンビニで買った弁当を口に入れて、スマホを見ながらSNSで毒を吐いて、そうやって大して面白くもない日々を淡々と消費しなければならなかった。でもそうやって真っ暗い部屋で一人スマホを眺めていると、時々なんで自分は生きてるんだろうって虚しくなった。自分なんていてもいなくても変わらないって思ったし、そうやって取り留めもなく考えている自分にうんざりした。毎日、体は疲れているのに眠れない。食欲はない。性欲も湧かない。ただ六時になったら起きて、現場に行って仕事をして、五時半になったら帰って――僕は路上の蟻だった。まだ十二月だというのに季節を間違えて外に出てきてしまった蟻。巣から離れて餌を探しているうちに帰り方を忘れて路上を彷徨っている蟻。そしてそうやって彷徨っているうちに誰かに踏まれて、誰にも気付かれることなくひっそりと死んでいく――僕は心のどこかでそうなることを望んでいた。
そんなある日、僕は閃いた。誰かに踏まれるのを待つんじゃなくて、いっそ自分ですればいいんじゃないかって。この手でナイフをしっかりと握って、心臓に一突き、思いっきり突き刺せばいいんじゃないかって、仕事からの帰り道、人気(ひとけ)のない駐車場の段差に腰かけてぼんやりと考えた。
やっぱり痛いんだろうか?
やっぱり、苦しいんだろうか……?
殴られるのとどっちが痛いだろうか? 首を絞められるのと、どっちが苦しいだろうか?
そんなことを考えながら手のひらを眺めていたら、手に出来た硬い肉刺(まめ)たちがきらきらと赤く輝いて見えた。
まるで手のひらに透き通ったザクロの粒が載っているみたいだった。
綺麗だなって思ったし、そんな風に思った自分がなんだか妙に恥ずかしかった。
そうしたら、顎にずらしたマスクが急にむず痒く感じた。それでなんとなしにマスクを取って、顔を上げたら、空が燃えるように赤かった。
笑った。
綺麗だなんて思うんだなって思ったし、こんなんじゃ、とてもじゃないけどナイフなんて握れないなって思った、その時だった。
「お前、なにしてんだ?」
野太い声がして、声のする方に目をやると、怖そうな男の人がこっちを見て立っていた。
短く刈り上げた坊主頭にもさもさの顎ひげ。コロナ禍だってのにマスクはしていなくて、前を開けたダウンジャケットの胸元には銀色のネックレスが光っていた。
変な人に絡まれたって、そう思った。粗暴な雰囲気ってのは、本人が隠そうとしても感じ取れるものだ。それは声のトーンだったり、言葉遣いだったり、着ている服だったり、本人が気付いていない些細な箇所に現れる。眉間に残るしわ。半開きの口。ポケットに入れた手。そして股を広く開いた立ち姿。僕は身近にそういう人がいる中で育ったから、僕の「危ない人センサー」は優秀だった。
いつもなら逃げていた。知らないふりしてその場から離れる、いつもならそうしていた。でもこの時の僕は、変に腹が据わっていた。その人に絡まれて、その流れで殴られても、お金を取られても、なんならその人に殺されてもいいって思っていたし、僕が死んだ後に放送されるニュースの内容が頭に浮かんでいた。殺人容疑で警察に捕まって、さっさと刑務所に行けって思っていたくらいだ。
そうしたら、その人はゆっくりと僕に近づいてきた。そして僕の前に立つと、何をするでもなく空を見上げた。
この人、何してるんだろうって思った。向こうから絡んできたのに、睨んでくるわけでも、大きな声で脅してくるわけでもない。安っぽいサンダルを引っかけて、手には虫の死骸みたいなものがたくさん入ったビニール袋をぶら下げて、静かに空を見上げていた。
僕は段差に座ったまま、黙ってその人を見上げていた。そうしたら突然、その人は僕を見下ろした。何も言わずに、ただじっと――。
夕焼け空を背に僕を見下ろすその人の顔は陰っていた。ぱっちりと大きな二重(ふたえ)の目は陰りの中で赤く充血して、眉間には深い皺が寄っていた。顔の中心に高くそびえた鼻は、喧嘩でもしたのか、途中でくねっと折れ曲がっていた。額や目の下、こけた頬には幾つもの皺が走って、ひどく草臥(くたび)れた顔は恐ろしいほどに真顔だった。
この時はさすがにやられると思った。何の前触れもなく平手が飛んできて、痛いと思った瞬間、喉を手で押さえられる。ぐいぐいと物凄い力で喉を押されて、息ができない、苦しいってなって初めて、見下したような笑い声が聞こえてくる。そうなると思った。だから無意識に体を反らした。そうしたら、ちょうどその時、どこからともなくみゃあみゃあと猫の鳴き声が聞こえてきた。
声のする方に目をやると、がりがりに痩せた虎毛の猫が、遠くの茂みから体をくねらせながらこちらに近寄ってきていた。野良猫だろう。首輪をしていなかったし、毛並みも汚く荒れていた。でも僕はべつに猫が好きなわけでもなかったから、猫から目の前に立っている男の人に目を戻した。そうしたら、その人が言った。
「なんだお前、猫、飼ってんのか?」
振り返ると、さっきの猫が僕の近くまで来ていた。尻尾をぴんと立てたまま、ゆっくりと傍にやってくる。そしてみゃあみゃあと甘い声を出しながら僕にすり寄ると、僕の周りをぐるぐると回り始めた。
「へえ……。そいつは警戒心が一番強いんだよ」
その人はびっくりしたようにそう言うと、手に持っていたビニール袋の中から何かを取り出した。
煮干しだ。虫の死骸だと思っていたのは、かちかちに乾燥した鰯(いわし)の煮干しだった。
その人は大きめの煮干しを一つ摘まんで猫に差し出した。すると猫は恐る恐るそれに近づいて、すっとくわえてどこかへ行ってしまった。やがて、茂みの方からぽりぽりと美味しそうな音が聞こえてくる。
たしかに警戒心が強い――そう思ったら、自分と似ている気がした。まず安全な場所に移動して、誰かに横取りされないように周りに注意して、食べられるかどうかも分からない、けれどいい匂いがするそれをぺろっと舐めてみる。そして食べれそうだってなったら、初めて噛み砕く。でもそうやって食べている間もずっと、周囲への警戒は怠らない。本当に、僕とそっくりだ。
「可哀想……」
自然と言葉がこぼれ出た。
「可哀想? なんで?」
「だって、期待しちゃうじゃないですか」
「期待?」
「次もくれるって期待して、もらえなかった時、きっとうんざりしちゃいますよ」
僕がそう言ったら、その人は呆れたように笑った。
「お前、面白えやつだな。マレーシアにいる友だちが、昔、おんなじこと言ってたよ。猫に煮干しはやるな、情の味を覚えるからって」
その人は皮肉っぽく笑っていたけれど、僕は悪い気はしなかった。誰かに面白い奴だなんて言われたのはそれが初めてだったし、その人のふっと息が抜けるような軽い感じの笑い方も嫌いじゃなかった。
「一杯、どうだ? おごるよ」
これが、僕と唐芳の店主、『ノリさん』との出会いだ。
でもその時の僕は、ノリさんの誘いを断った。誘われた店がいかにも人が入っていなさそうなぼろい飲み屋だったからってのもあったし、出会ったばかりの知らないオジサンと差しで話すほど、話したいこともなかったからだ。僕は慎重で用心深い。それにそもそもお酒が好きじゃない。
ただ、この時意外だったのはノリさんの態度だ。僕が断ると、ノリさんは嫌な顔ひとつせずに、「そっか、じゃいつでも来いよ」って言った。強引に店に引き入れるわけではなく、また、しつこく繰り返すわけでもなく、ただあっさりと、いつでも来いよ。僕は拍子抜けした。だって外見だけで言えば、店のぼったくりを手伝ってそうな見た目だ。店は繁盛しているようには見えなかったし、その時はちょうどコロナ禍だったから、僕がいいカモだと思われていた可能性は十分にあった。それなのに、いつでも来いよ。しかもちょっと寂しそうな顔で。だから余計に印象に残っているのかもしれない。この言葉は、その後もたしかに僕の頭に残っていた。