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​琴葉さん

 それからしばらく、僕はそんなことがあったってことさえ忘れていた。その頃の僕は、ちょうど新しい現場に配置が変わって、覚えなければならないことがたくさんあったから、僕自身に余裕がなかったと言えばなかった。朝起きて、指示された現場に行って、言われたことをやる。終わったらアパートに帰って、弁当をつつきながら動画を見る。毎日、それの繰り返しだった。クリスマスも正月もない。ただ仕事をして、帰宅して寝る。そんな生活だったから、年が明けても、僕のうんざりした気分は変わらなかった。

 二月に入った頃、僕は仕事で大きなポカをやらかした。駐車場の床を高圧洗浄中に、誤って住民の車を傷つけてしまったのだ。僕は先輩からひどく怒られ、先輩と一緒にマンションの住民に謝りに行った。そうしたら住民からも怒られた。会社に帰ってからは、社員の人からも詰められた。でも僕は笑うしかできなかった。普段から文句を言われ続け、怒鳴られ、無視され、その痛みがまだ残っているのに、それ以上受け止める余裕なんてなかったからだ。そうしたら、主任から「明日から来なくていいよ」って言われてしまった。

 転職はそれが初めてじゃなかったけれど、やっぱり辛かった。その日は仕事上がりの指先がかじかむほど寒い日で、家路を歩きながら、明日からどうしようかって考えた。けれど考えても考えても、何も思い浮かばなかった。周りを見れば、女と手をつないで歩くかっこいい男がいた。洒落たワインバーで友達と楽しそうにワインを飲む女がいた。自分と彼らでは何が違うのか。親ガチャに外れ、誰からも必要とされず、食べるために仕事をして、仕事をするために食べる。その食べ物だって決して美味しいものじゃないし、仕事だってやりがいとか成功とは無縁のものだ。それをただ延々と繰り返すだけの生活に、彼らは耐えられるのか。どこに行っても高卒をいじられ、アパートに帰れば隣人が壁を叩き、SNSを開けばクソリプが殺到し、動画を再生すれば見たくもない広告が垂れ流され、そういう毎日に彼らは耐えられるのか。不公平だ。僕だって、彼らのように、幸せを幸せって感じることなく受け取りたい。

 胸の奥がぎゅうって締め付けられた。

 悔しくて空を見上げたら、空は一面灰色に曇っていた。

 それは今にも雪が降ってきそうな空だった。かじかんだ手をポケットから出すと、肉刺だらけの手のひらにひらひらと雪片が落ちてきそうなほど冷たい空だった。でもそれは僕の想像で、実際にはもちろん雪なんて降っていなくて、ポケットに手を戻したら、急に周囲が遠ざかった気がした。冷たい風が僕の体を吹き抜けて、音が遠のいて、色が消えた。灰色の世界の真ん中で、僕だけが取り残されて、みんなはどこかへ行ってしまった、そう思ったら、祖父が死んだ日もたしかこんな空だったなって思い出した。

 祖父は僕が十二の時に亡くなった。

 祖父は、僕が泣きながら祖父の家に駆け込むと、いつだって「またあいつか」と僕の代わりに怒ってくれた。僕の背中を氷嚢(ひょうのう)で冷やしながら、「一緒に警察に行こう」って何度も言ってくれた。でも僕は、警察に行ったら母も一緒にいなくなってしまう気がして行かなかった。

 もしあの時、警察へ行ってれば、こうはなっていなかっただろうか。

 あいつのことを憎んで、母のことを憎んで、そして何もできない弱い自分を憎むこともなかっただろうか――。

 分からない。

 でも、その祖父はもういない。僕を気にかけてくれる人は、誰もいなかった。

 僕はあてもなく線路沿いを歩いた。

 僕の頭の中では、しんしんと雪が降っていた。

 でもそうやって歩いていたら、ふと『唐芳』のことを思い出した。頭の中で、あの人の「いつでも来いよ」がぐるぐると回り始めた。

 

 

 がらがらっと引き戸を開けて店に入ると、そこは思っていたよりも狭い飲み屋だった。

 縦に細長い空間が奥に伸びている。店内の約半分を占めたカウンターはアクリル板で仕切られていて、入口には消毒ボトルが置いてあった。ボトルの中身はほとんど残っていない。壁には手書きのお品書きがびっしりと貼ってあって、焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。奥に見える天井の隅には、小さな液晶テレビが置いてあって、カラフルなテロップが流れている。音は聞こえない。たまに奥の方でカンカンって変な音が鳴っていたけれど、それを除けば、店内は静かで、昭和の時代にタイムスリップしたような居心地の悪さを覚えた。

 そういうところに入るのが初めてだった僕は、どうしていいか分からず、入口のところで立ったままでいた。カウンターにはお客さんが二人、間を空けて座っていたけれど、どちらも前に僕に声をかけてくれた人ではなかったし、密を避けてカウンターの奥に座るには、彼らに「すいません」と声をかけなければ通れないほど狭い店だった。初めての人間には中々に難易度が高い店だ。僕は店に入って数秒後には、入るんじゃなかったって後悔し始めていた。するとその時、店の奥から聞き覚えのある声が飛んできた。

「おお、なんだよお前、来なかったじゃねえか。待ってたんだぞ」

 驚いたことに、それはあの人だった。この前の駐車場で僕を誘ってくれた人が、カウンターの中に立っていたのだ。坊主頭にもさもさの髭。鋭い目つきに太い首。相変わらず顔はいかつくて、黒いぴたぴたの服の胸元には銀のネックレスが下がっていた。間違えるはずがない、あの人だ。

 僕はびっくりして返事ができなかった。まさかあの人がこの店の店主だったなんて思ってもいなかったからだ。以前、駐車場で話した時は、てっきりこの店の常連客だと思っていた。それが今は、カウンターの向こう側に立って、お客さんに料理を手渡している。そのお客さんも、寛(くつろ)いだ様子で受け取った料理に箸を伸ばしながら、じろじろと僕を見ていた。

「ほら、そんなとこ立ってないで、こっちの空いてる席座んなよ」

 ぼうっと突っ立っていた僕は、店主に促されるまま、カウンターの奥の席に移動した。

 二人のお客さんに「すみません」と声をかけて、壁沿いをすり抜ける。

 何度もこういうことがあるんだろう、床には椅子を引き摺った黒い跡がいくつも残っていた。

 席に着くと、店主が言った。

「ビールでいい?」

 僕は固まってしまった。前にも言ったが、僕はお酒があまり好きじゃない。

「いや、あの、コーラ……」

 僕が遠慮気味にそう言うと、店主は眉をしかめて僕を見た。

「コーラ? ビール嫌い?」

 はっきりと大きな二重の目はやっぱり赤く充血していた。すらっと高い鼻は途中で折れ曲がっていたし、眉間には深い皺が寄っていたし、前にも思ったけれど、店主の威圧感は半端ない。

「いや、その、あんまり……」

「そっか。じゃ、なんか好きなものとかある?」

「えっと……、じゃ、チーズ」

「チーズ? チーズかぁ、あるかなぁ」

 そう言うと、店主は屈んで、足もとをがさごそとやっていた。

 怖いんだか、優しいんだか、よく分からない。話し方は優しい。でも見た目や雰囲気は僕が大嫌いなあいつに似ていた。学校で表彰された僕の絵を丸めてゴミ箱に捨てて、絵なんか意味ねえ、俺が格闘技を教えてやるって、頼んでもいないのに関節技をかけてきたあいつだ。

 僕は用心しながら、壁のお品書きを眺めていた。

 ポテサラ、肉豆腐、焼きおにぎり。僕が食べれそうなものもいくつかあった。お品書きはすべて手書きで、中にはバツで訂正された文字の横に正しい文字が添えられているものもあった。書き直さないんだって思ったけれど、それが逆に人間臭くて良かった。天井の隅に設置されたテレビは古かった。天井から吊るされた暖色の照明も埃をかぶって古そうだった。椅子は木で出来ていて、僕が座った椅子の床には、他よりもたくさんの黒い跡が付いていたから、ここは常連さんの座る席なのかもしれないなって思った。カウンターも木で出来ていて、よく見ると、色々なところに擦り傷があった。平成とか昭和の会社員が付けていった傷なんだろうって考えていたら、僕がまだ小さかった頃を思い出した。

 他の家はどうか知らないが、僕の家はそれこそ傷だらけだった。襖は破れていたし、壁には穴が開いていた。母が物を投げるからだ。皿、コップ、リモコン、なんでも投げた。いつだったか、スマホを投げたこともある。窓硝子が割れて大変なことになったけど、その時は祖父が直してくれた。お酒が好きじゃないと言ったのはこういうのもある。母が物を投げる時は決まってお酒を飲んでいた。でもあの頃の僕にはどうしようもなかったし、それが普通だった。

 胸の奥がぎゅうって小さく縮んでいく――とその時、入口の戸ががらがらっと開いた。

 誰かと思って見たら、店に入ってきたのは綺麗な女の人だった。

 長い栗色の髪。気怠そうな切れ長の目。体の線が細くて胸が大きい。

「遅くなってすみません」

 女の人はそう言うと、真っ直ぐに僕の方に歩いてきた。席なら入ってすぐのカウンターの角が空いているのにだ。そうしたら、入口の近くに座っていたオジサンが声を上げた。

「お、琴葉(ことは)ちゃん、遅いよぉ!」

 するとその女の人は、オジサンに振り返って、

「クマさん、ごめんねえ」と愛想よく返した後、さらにもう一人の客の後ろを通りがけに、

「あっ、八朔(はっさく)さんだ! 久しぶり!」と、彼のワイシャツの肩を親しげにぽんと叩いた。

 どうしよう……。

 僕は緊張していた。

 入口のオジサン、スーツの人と来たら、次は僕の番だ。あんなに綺麗な女の人に声をかけられたら、なんて答えればいいか分からない。彼女が笑うと、彼女の周りだけぽわっと明るくなるような女の人だった。その人がゆっくりと僕の方にやってくる。

 こういう時、僕はよく自分が存在しない世界を想像した。僕がいなくて、でも周りは普通に動いていて、だからみんな僕に気が付いていなくて、そういう世界を想像してじっと気配を消した。

 今まではそれで上手くいった。でもその時はそうならなかった。

「あれあれ、もしかしてえ……。キミがうわさの新マコちゃん?」

 その人は僕の近くまでやってくると、僕の顔を覗き込むように身を屈めた。

 その瞬間、長い髪がさらさらっと垂れ落ちて、甘い薔薇の香りが鼻に絡みついた。

 古い個人居酒屋には似合わない上品で華やかな匂い。優しそうで、健康そうで、何でも許してくれそうな年上のお姉さんの匂い。

 ああ、もう駄目だ。じっとしていられない。体の中から得体の知れない何かが胸を突き破って飛び出してきそうだった。

 ちらっと横目で確認する。

 シャープな顎のライン。

 ぷっくりと柔らかそうな唇。

 髪の隙間から覗く、シャツがはち切れそうなほどに膨らんだ胸の谷間――ごくりと喉が鳴る。

「琴葉ちゃん、おっぱい見られてるよ!」

「やだもう、クマさんったら!」

 彼女はそう言うと、僕の目をじっと見つめてから、にこりと微笑んだ。

 晴れやかに、裏表のない自然な笑みで。そしてそのままゆっくりと顔を近づけて、僕の耳元でそっと囁く。

「あんなエロオヤジ気にしないで、今日はたくさん飲んでいってくださいね」

 僕は固まった。

 雷に撃ち抜かれたように動けなかった。

 僕の心臓は胸の奥深いところで高鳴り続け、僕の目には彼女の綺麗な顔だけが映っていた。

 僕はその日、生まれて初めて、ビールを注文した。

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© 2014 riouda

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