
カナメ
それ以来、僕は唐芳によく足を運ぶようになった。
たぶん週に二回は通った。大体は金曜と土曜の夜、たまに火曜の夜にも行った。その頃の僕はお金がなかったから、昼と夜をフードデリバリーで稼ぎ、朝と深夜はイベント準備とか、倉庫出しとかの単発バイトで働いた。当時はもう本当に唐芳に行くことだけを目標に生きていて、どうしたらお金が溜まるのかばかり考えていた。スマホのプランを最低料金のものに変えたり、昼を抜いたりもした。さすがに家賃のためだけに引っ越しはできないから、電気の代わりにロウソクを使って生活したこともあったし、エアコンとか冷蔵庫のコンセントを抜いたまま仕事に行ったこともあった。そうして口座に残高ができれば、その金を下ろして唐芳に行く。もうほとんど病気と言ってもいい。その頃の僕は、稼いだお金を全部唐芳に使っていた。
でもそうまでして唐芳に行きたかったのは、言うまでもなく、琴葉さんに会いたかったからだ。僕はあの日、彼女に一目惚れした。だから行ってみて、彼女がいない時には、夕食だけ食べてすぐに帰った。逆に彼女がいる時には最後までいた。四月になる頃には、店の時短営業も終わって夜中までやっていたから、営業時間ぎりぎりまで居座ることも多々あった。僕は琴葉さんの顔を見ていたかったし、琴葉さんの声を聞いていたかったのだ。なぜかって? 彼女は僕が今まで見てきたどんな女性とも違っていたからだ。彼女は僕が店に入ると、「いらっしゃい」と必ず声をかけてくれた。注文時には僕の傍までやってきて、その日のおすすめとか人気のメニューとかを教えてくれた。僕がお酒が得意でないと分かると、必ず水を一緒に置いてくれた。熱い料理を出す時は「熱いよ」と声をかけてくれたし、箸を落としたらすぐに気付いて新しい物をくれた。僕は生まれて初めて、自分が大切にされている気分を味わったのだ。
それまでの僕は、女の人からそんな風にされたことがなかった。僕の母親は僕のことを邪魔者扱いしていたし、僕といるよりも恋人と酒を飲んでいる方が楽しそうだった。学校の先生は怒ってばかりだったし、僕のことというよりもクラスや学校全体を大切に思っている感じだった。高校は男子校だったし、卒業して就職してからは、職場で女の人を見かけても話したことはなかった。でも琴葉さんは違った。変な壁を作ることなく気さくに話しかけてくれたし、見た目の偏見なしに僕に興味を持ってくれた。僕と話す時の相槌はうっとりするくらい自然で、笑う時に少し口元を押さえる仕草はたまらなく可愛かった。僕が長居しても絶対に急かさなかったし、僕がスマホを見ている時には気を遣って話しかけてこなかった。僕が酔っ払った時には、水を勧めてくれたり、タクシーを呼んでくれたりもした。一番嬉しかったのは、帰り際に僕の名前を呼んでくれたことだ。その時はあまりに嬉しくて、家に帰って久しぶりに自慰に耽った。僕は本当に彼女に夢中だったし、彼女のことしか頭になかった。起きている時はいつも彼女とデートする想像をしていたし、夢の中ではセックスもした。もちろん、現実にそんなことは無理だと分かっていたから、僕が下心を見せることはなかったけれど、心の奥底ではすべてを忘れて彼女の体に埋もれていたかったのだ。
でもそうやって何度も店に通っていたら、周りの僕に対する見方が変わった。僕はいつの間にか、常連さんの仲間入りをしていたのだ。
「何やってる人?」
「ウーバーです」
「ウーバーの人?」
「はい」
「へえ。オジサンはオーバーの人。なんつって」
僕に最初に声をかけてくれた人はクマさんと言って、この辺が地元の古株だった。頭をきれいに剃り上げていて、胸やお腹がでっぷりと太っているから、店に入ると、今日もいるなと一目で分かる。いつも入口に近いカウンターの隅に座って、ちびちびとお酒を飲みながらテレビを見ていたから、初めのうちは怖い人かと思っていたけれど、お酒が回ってくると、パワハラもセクハラもお構いなしに笑い飛ばす陽気なオジサンで、僕は好きだった。
クマさんは僕に色々な人を紹介してくれた。芸能界に詳しいテツさん、テツさんの後輩の元自衛隊員、中田さん。夜のお仕事をしている社長さんとアキさん、それからホストのミチルくん。みんないい人たちだった。酔って公園のベンチを壊した話とか、駅前の放置自転車を借りて家まで帰った話とか、SNSだったらすぐ叩かれるような話でも、みんな笑って聞いていた。不倫の話だって、馬鹿だなあとか、それでどっちが良かったんだよとか、話半分に聞いて、誰も本気で注意したりしない。そんな彼らを近くで見ていて、僕はこれが大人の世界かって思った。夜のお仕事の話、芸能界の裏話、自衛隊の嘘みたいな訓練内容。本当かどうかは関係ない。そういう話を面白おかしく話せる彼らはかっこよかったし、その輪の中にいる自分も大人になった気分でいた。
でも、唐芳に来ている常連さん全員と仲が良かったかと言うと、もちろんそんなことはなくて、僕にも嫌いな客はいた。
「え、何歳?」
「二十歳(はたち)」
「あっ、俺より年下かぁ」
初めて会った時、カナメは声変わり前の少年みたいな声でそう言った。
「ノリさん、こいつ、どうなんすか?」
カナメは唐芳にたまにやって来る若者だった。童顔で可愛い顔をしているくせに、唇には二つのリップピアス、首には絡みつくように蛇のタトゥーが彫られている。一目見た瞬間から、僕の危ない人センサーが反応した厄介な奴だ。その上、店に来る時は大抵派手な女の人を連れていて、店ではいつも偉そうに振る舞っていたから僕は嫌いだった。
「この前、店長に喧嘩売っちゃって」
「スグルくん?」
「そうす。で、ムカついたから看板蹴ったら、他店のセキュと揉めちゃって」
「イカれてんな」
「一週間、家帰ってないす」
カナメは失敗談に見せかけた自慢話をよくした。要は「俺スゲエ」アピールだ。しかも話す相手はノリさんだけ。僕らには話さない。クマさんに聞いた話では、カナメはノリさんの後輩らしく、店に来るのもノリさんに顔を見せるためらしかった。だからカナメが店にやってくると、僕らは輪の外に追い出された。それまでどれだけ盛り上がっていても、クマさんはテレビを見始め、テツさんは連れの人と話し始めた。いつもは中心になって場を盛り上げる中田さんも、カナメがいると、大人しかった。学校で名の知れた先輩を独り占めするドキュンみたいなもんだ。僕はカナメのそういうところも嫌だった。幸い、カナメは長居する客ではなくて、ビールを頼んでも、いつも半分しか飲まずに店を出た。酒を飲みに来ているというよりも、ノリさんに連れを紹介しに来ている感じだった。
僕はその関係性に嫉妬した。ノリさんがたまにしか来ないカナメを気にかけているのは分かったし、僕には見せない顔で相手をしていたのも嫌だった。二人の間には、僕なんかが割って入ることのできない暗黙の了解があるように感じられたのだ。
だから僕はそれまで以上にノリさんに自分から話しかけるようになった。普段はできるだけ目立たないように生きてきた僕が、自分から話しかけるなんて相当だ。その頃の僕は、ここまで通い詰めて常連の仲間入りを果たしたって変なプライドがあったから、余計にノリさんに振り向いて欲しかったんだろうと思う。
「俺、ボクシング始めたんですよ」
「へえ」
「今度、プロテスト受けるんですよ」
「そうか」
でもノリさんは僕に対する態度を変えなかった。カナメに見せるようなくだけた笑顔は見せてくれなかったし、僕をノリさんやカナメの仲間と認めてくれる気配もなかった。あくまで客と店主、そういう関係だ。僕は悲観した。どうやったって、ノリさんは僕のことを見てくれない、そう思った。よく考えれば、琴葉さんが優しかったのも、僕がお客さんだったからに違いないと、そんな風にも考えた。僕はどうしてもノリさんたちの仲間に入れて欲しかったのだ。
◇
その年の十二月、僕は唐芳の忘年会に参加した。
忘年会にはいつもの顔が何人かいて、もちろん僕の知らない人もいたけれど、クマさんや中田さんが中心になって盛り上げてくれたから、僕自身は楽しい時間を過ごしていた。その日は普段は飲まない琴葉さんも一緒になってお酒を楽しんでいて、僕は酔っ払った琴葉さんを見ているだけでも嬉しかった。一方でノリさんは、ずっとカウンターに立って料理をしていた。僕がチーズが好きだと言ったことを覚えていてくれたようで、溶けたチーズに野菜とか肉とかを付けて食べる料理を出してくれた。初めて食べたけれど、チーズの風味とコクが濃厚でとても美味しかったのを覚えている。でもそんな楽しかった忘年会も、時刻が二十三時を過ぎると半分以上が帰って、お開きムードになっていた。それで僕もそろそろ帰ろうかと席を立った時、がらがらっと入口の戸が開いて、カナメがやってきた。
カナメはその日も綺麗な女の人を連れていた。すでにどこかで飲んできたんだろう。女の人はまともに歩けないくらいにべろべろに酔っ払っていて、カナメも店に入ってくるなり大声で話したり、王様のように椅子に座ったり、いつも以上に態度が大きかった。でもその時はもうみんな帰ろうとしていて、カナメが来たからって会計を急ぐ人もいた。たぶん、それが気に食わなかったんだと思う。カナメは僕を見つけると、大声で僕を呼び止めた。
「おい、雄一郎! お前こっち来て酒つげよ!」
そしてその言葉を聞いた途端、心臓に鋭い刃を突き立てられたような衝撃が、胸の奥から全身へと駆け抜けた。
僕は小さい頃、母と母が連れてきた恋人と一緒に住んでいた。そいつはたまにしか家に来なかったけれど、来た時はいつも酒を飲んでいて、理不尽に絡んでくるから、僕はそいつが来ると必ずいないふりをしていた。カーテンの後ろとか、押し入れの中とか、いないふりをすると言っても、小学生だから可愛いものだ。それでもそいつは僕を見つけると、押し入れから僕を引っ張り出して、首を絞めてくる。そいつは体が大きいから、小学生の僕にはどうすることもできなかった。息苦しくて、汗臭くて、濃い体毛が顔にじゃりじゃり当たって、僕は嫌で嫌で堪らなかったけれど、母の恋人だったから我慢していた。どんなに殴られても、どんなに関節技を極められても、たとえ背中に煙草の火を押し付けられても、僕はじっと我慢していた。でもそいつは、僕が必死に我慢すればするほど上機嫌になった。そしてしまいには酒を飲み始めて、部屋の隅っこで痛がっている僕に向かってこう言った――おい、雄一郎! こっちに来て酒をつげ、って。
まさかカナメが、その言葉を口にするとは思ってもいなかった。
心の奥に閉じ込めていた嫌な記憶が、あの時の痛みや匂いと一緒に、鮮明に蘇った。
急に心臓が早鐘を打ち始め、同時に、体ががたがたと震え出した。
甲高い耳鳴りが聞こえ、がやがやと煩かった周囲の音が一気に遠ざかった。
耳鳴りはまるでカーテンのように上から降りてきて、頭からすっぽりと僕を包み込んだ。
視界がすっと狭くなって、その小さく萎んだ視界の端に、カウンターの上に並んだたくさんのビール瓶が映った。
ほとんど無意識に、その一本に手が伸びていた。
瓶の首をぎゅっと手の中に握り込むと、ばたばたばたっと、僕の中で何かが崩れる音がした。
そこからは覚えていない。気が付いたら、僕は床に押さえ付けられていて、カナメは頭から血を流して倒れていた。店内はひどい有様で、店のあちこちに、食べ物やら、食器やら、ビール瓶の欠片やらが飛び散っていた。僕の体は短距離を走った後のように熱を持って、狂ったように速くなった脈が床を押し返していた。床に押し付けられた頬と肩だけが冷たくて、背中にはどっしりと人の重みを感じて苦しかった。
「それはちがう」
背中から野太い声が聞こえて、目を動かすと、僕の背中にはノリさんが乗っていた。もの凄い力で僕の肩を押さえていたノリさんの前腕には、包丁で切られたような白い二本の傷跡が走っていて、それを見た瞬間、僕はなぜだか急に正気付いた。なんてことをしてしまったんだって後悔と困惑が一遍に押し寄せた。
「やりすぎだよ……」
琴葉さんは血で真っ赤に染まったタオルをカナメの頭に当てて、何度も声をかけていた。
カナメは意識はあったようだけれど、僕に対して怒っているというよりも、床に流れ出た血の量に驚いている様子だった。
「キミは他人の痛みが分からないんだね……」
琴葉さんは僕を見て静かにそう言った。
静かだけれど強い、穏やかだけれど責めるような顔だった。
僕は何も言わずに店を出た。
その言葉の意味が分かるはずもなく、ただただむしゃくしゃしながら歩いた。
そしてその一件以来、僕は唐芳に行かなくなった。