
畠山さん
それからどうなったか、正直、あまり覚えていない。あの後、カナメがどうなったのか、風の噂でも聞かなかったし、警察が家に来ることもなかった。たぶん、普通に仕事をして、普通に暮らしていたんだと思う。でもしばらくして、コロナが終わった。そして周りが飲みに行くのを見聞きしているうちに、唐芳のことを思い出した。ノリさんや琴葉さん、クマさんや中田さん、みんなはどうしているだろう、ふとそんなことを考えた。そうしたら、みんなの顔が頭に浮かんだ。そしてなんとなく、このままじゃいけないって思った。
まだ西の空が明るい時間帯だった。
がらがらっと引き戸を開けて中に入ると、カウンターには何人かお客さんが座っていた。まだ早い時間帯だからか、知っている顔は一人もいなくて、いつものいるはずのクマさんの姿もなかった。壁には相変わらずびっしりとお品書きが貼ってあって、店の奥では夕方のテレビが流れていた。妙に静かな雰囲気も、厨房から聞こえる換気扇の音も変わっていなかったけれど、カウンターのアクリル板は取り外されて、入口に置いてあった消毒ボトルもなくなっていた。この半年間、僕が来なかった間に、お店が変わってしまったような気がした。
でもよく見ると、床についた黒い椅子の跡は変わっていない。照明の傘に溜まった埃も、字を間違えたままのお品書きも変わっていなかった。変わったのは僕の方か、と思った。あの夜、カナメと喧嘩したこと、ノリさんに怒られたこと、琴葉さんに失望されたこと、全部まだ頭に残っていた。謝らなければならないことは分かっていた。でもその一歩がどうしても踏み出せなかった。あの夜以来、ずっとそのことが胸につかえていた。
するとその時、カウンターからいつもの野太い声が飛んできた。
「おお、いいところに来た!」
いつもの声、いつものノリさんだった。半年前のことなんて少しも気にしていない、そういう態度だった。
「ちょっとこれさ、畠山さんのところに届けてくんない?」
ノリさんは僕を見つけた途端、僕を呼んで、カウンター越しにビニール袋を手渡してきた。
畠山さん?
訳も分からず袋を受け取ると、袋はずっしりと重い。中を覗くと、テイクアウトのお弁当が入っていた。
畠山さんというのは、この道の先に住んでいる老人のことらしかった。よく唐芳の弁当をテイクアウトしているらしい。僕はそれまで早い時間帯に行ったことがなかったから知らなかったけれど、いつもはノリさんや琴葉さんが弁当を届けているようだった。
ノリさんから教わった住所に行くと、そこには唐芳と似たような平屋の一軒家があった。庭とかはなくて、道路に面した玄関先に、錆びた郵便受けと、土だけになった植木鉢がいくつも放置されている古い家だった。玄関についた呼び鈴も四角いボタンだけの古いタイプの物で、押してみたけれど、鳴っているかは分からなかった。それで玄関の戸をノックして呼んでみたら、家の中からどかどかと足音が聞こえてきた。
摺り硝子の向こう側に人影が映る。
戸が開き、中から顔を出したのは、マスクをした六十代くらいのオバサンだった。
「あら、どちら様ですか?」
「あ、あの、唐芳です」
僕が言うと、その人は、
「ああ、やっと来た! 畠山さーん、お弁当来たよー!」
と、家の中に向かって大きな声を張り上げた。
「畠山さんね、毎回、唐芳のお弁当を楽しみにしてるのよ」
そう言うと、その人は家の中に戻って、玄関先に置いてあった荷物をまとめ始めた。どうやら、これからどこかに出掛ける様子だ。
「あの、これ……」
僕はお弁当を持ったまま、玄関の前に立っていた。するとその人は、
「畠山さん、足悪いから、持っていってくれる? そのまま上がっちゃっていいから。ごめんね、私、次あるんで失礼しますね」
そう言って、そそくさとどこかへ行ってしまった。誰だか知らないけれど、慌ただしいオバサンだ。とは言え、お弁当を置いて帰るわけにもいかず、僕は言われた通り、靴を脱いで家に上がった。
そこはかなり古い造りの家だった。
家の中は暗く蒸し暑い。道路沿いの窓は閉まっていて、ほんのりと防虫剤の匂いがするせいか、少し息苦しかった。天井は低く、ベニヤ板が劣化して飴色に変色している。廊下の天井には学校の理科室にあるような長い蛍光灯があったけれど、点いてはいなかった。その廊下は板張りで、踏むとみしみしと音が鳴る。廊下の砂壁はところどころ擦れて黒い線が残っていた。時が止まったように静かで、どことなく寂しくて、ふと祖父の家を思い出す。とその時、障子で囲まれた部屋の中から、テレビの笑い声が聞こえてきた。
「失礼します」
恐る恐る障子を開けると、ふわっとお線香の匂いがした。
そこは畳の和室になっていて、部屋の真ん中にこたつがあった。そのこたつの前に、座椅子に座って高齢のお爺さんがいる。
「あの、お弁当、持ってきました」
僕が言うと、そのお爺さんは、
「ああ? オサムか?」
と、大きな声で言った。
あまりに大きな声だったから、僕はびっくりしてお弁当を落としてしまいそうだった。
「いや、あの、お弁当。唐芳の」
「ああ?」
「唐芳です!」
「ああ?」
何度か繰り返したが、その人はどうやら耳が遠いようで、僕が何を言っても、大声で「ああ?」と怒鳴り返すばかりだった。だから僕は諦めて、お弁当をこたつの上に置いて帰ろうとした。そうしたら、その人が言った。
「仕事は見つかったんか?」
思わず、足が止まった。
「ヤクザもんなんかやってねえで、さっさと堅気になれ!」
障子や襖ががたがたと震えた気がした。
薄暗い廊下はじっと息を潜め、テレビの笑い声だけが耳に届いていた。
僕は聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、早く戻ろうと玄関に急いだ。でもその時、廊下にあった段ボール箱の中に、何かの袋が大量に入っているのが目に留まった。
なんとなく見ちゃいけない気はした。一人暮らしの高齢者だ。もしもの時のために、個人的な私物を袋に分けて保管している可能性もある。でも見ちゃいけないって思えば思うほど見たくなるのが人間だ。僕は忍び足で箱に近づいて、そっと中を覗いてみた。そうしたら、そこに入っていたのは、意外にも、全部同じ『にぼし』の袋だった。
それから何度か、僕は畠山さんの家に弁当を届けた。
畠山さんは一人暮らしの高齢者で、買い物とか、洗濯とか、身の回りのことを手伝ってもらうヘルパーさんがついていた。ヘルパーさんは曜日ごとに来る人が違うようで、僕が行った時にたまたま話をした高木さんというオバサンは、もう何年も畠山さんの家に来ているベテランさんだった。
「私が頼んだのよ、唐芳のお弁当。そしたら気に入っちゃってね」
「いつからですか?」
「私がここに来た頃だから、三年、四年前?」
「毎週ですか?」
「毎週二回。欠かさず。ほんと助かってるのよ。あの頃は、すぐ死にたい死にたいって言ってたんだけどね、そんなに死にたい死にたい言ってたら『死にたい病』になっちゃうよって笑ってたの。でも今はぜんぜん言わなくなったしね。おかげで口ばっかり悪くなったけど、やっぱり元気なのが一番じゃない」
僕は段ボールの中の煮干しについて聞いてみた。
「この煮干しって……」
「あ、それね、畠山さんが猫にやってたのよ」
「猫?」
「よく家に入ってきちゃってね。最近は見かけないけど」
「少しもらってもいいですか?」
「それ? いいんじゃない?」
それ以来、僕は、畠山さんの家に弁当を届けた帰りに、駐車場で猫を呼ぶようになった。
それからまたしばらくして、僕がカウンターで畠山さんの話をしていると、ノリさんがふらふらっと店の外に出ていった。
これまでにもそういうことはあったから、その夜も煙草休憩に出たんだろうって思っていた。そうしたら、ノリさんが店を出るなり、隣でスマホを眺めていたクマさんがひそひそ声で僕に言った。
「弁当なんか儲かんないのに、どうしてノリちゃんがやめないか、教えてやろうか?」
クマさんはどこか得意顔だった。もう何杯目か分からない焼酎グラスを飲み干して、上機嫌に長い鼻息を吐き出している。俺はなんでも知ってるんだぞって自慢する顔だった。そういう時は、興味がなくても話に乗ってあげるのが礼儀だって、僕は中田さんから教わっている。
「どうしてなんですか?」
僕が言うと、クマさんは少し勿体ぶってから赤い顔を僕の方に向けた。
「あそこの爺さんはもう生きる気がないんだよ」
クマさんにそう言われて、僕は高木さんが言っていた『死にたい病』のことを思い出した。
「ヘルパーさんもそんなこと言ってましたね。死にたい病がどうのこうのって……」
するとクマさんは笑いながら話を続けた。
「だろ? ノリちゃんは昔からそういうのに勘がいいんだ」
「昔からですか?」
「昔、この辺を地元にしてる『神鳴り』ってグループがあってさ、もう三十年以上前のことだけど。ノリちゃんはその二代目」
「へえ……」
薄々そんな気はしていたけれど、やっぱりそうだったんだって僕は思った。
「この辺じゃ知らない人はいない有名人よ。警察だってノリちゃんのことはよおく知ってる。今はあんなだけど、昔は武闘派ですごかったんだから」
武闘派と聞いて、僕はノリさんの前腕にあった傷を思い出した。もしかしたら、曲がった鼻もその時にやったものなのかもしれない、そんな風に思っていたら、クマさんが言った。
「ノリちゃんには、マコちゃんって仲の良い友達がいてさ。でもある時、マコちゃんが警察に捕まっちゃった。結構おっきな事件でさ、全国ニュースにもなったんだけど、世間が知らないのは、マコちゃんには病気がちの母親がいたってこと。でもマコちゃんは家に帰れない。で、ノリちゃんが代わりに面倒をみることになった。でも母親は半グレが大嫌いでね。ノリちゃんにも大分当たりが強かったみたい。である日、ノリちゃんが見に行ったら、母親は薬を大量に飲んで死んでた」
「えっ?」
あまりに突然すぎて言葉が続かなかった。
「だろ? そうなるよな。たぶんマコちゃんもそうなった。そんでノリちゃんを制裁した。でもノリちゃんは抵抗しなかったらしい。だからたぶん、マコちゃんもそこまではしなかったんじゃないかな。二人は神鳴りを立ち上げた同志だったからな。でもノリちゃんはそれ以来、ずーっと自分を責め続けてる。母親が自殺するのは分かってたらしいから」
「分かってたんですか?」
「ノリちゃん曰く、目を見りゃ分かるらしいよ、そいつが死のうとしてるかどうか」
その瞬間、僕ははっとした。
ノリさんと初めて会ったあの日、ノリさんは僕の目をじっと見つめてきた。
夕焼け空を背に僕を見下ろしてきた、あの時の恐ろしく真剣な顔。
陰りの中で赤く充血した目。
眉間の皺。
はっきりと覚えている。そういうことだったのか……。
「あそこの爺さんもそうだったみたい。独り身で寂しかったんだと思うよ。ノリちゃんがそんなのほっとくわけないだろ」
僕は確信した。あの時、ノリさんは僕が死のうとしていたことを分かっていたんじゃないか、だから僕をお店に誘ったんじゃないか、そう考えたら、胸の奥がじんじんと熱くなった。
それからは、ノリさんや琴葉さんが行けない時は、僕が代わりにお弁当を届けるようになった。
そして畠山さんにも顔を覚えられて、ようやく話ができるようになった頃、僕は高木さんから『唐芳』がなくなることを聞いた。