
理論上の相談
マーモセット研究の方は順調だった。この頃には、休日や深夜にかかってくるビデオ通話にも慣れて、いつ来てもいいように、前もって準備をするようになっていた。ここはどうなっているのか、この結果についてどう思うか、先生から意見を求められるたびに、私の中に、先生に対する信頼が少しずつ芽生えていったのは事実だ。チームで仕事をしたことのある人なら分かると思うが、自分が必要とされている感覚は何ものにも代えがたい。当時の私は、本当に毎日が充実していたし、慌ただしく過ぎていく日々の中、毎週日曜日の夕方に届く進捗のメールが待ち遠しかった。
でもある時、いつものビデオ通話の終わりに、先生がこんなことを言い出した。
「――ということで、次の生着確認は来月ですね」
「はい、結果が届き次第、また確認します」
「よろしくお願いします。ああ、それとね、これは今の話とは別件になるんですが、少しだけお時間よろしいですか?」
先生にそう言われて、私は、つい数秒前まで「お腹が空いた」と近くのピザ屋さんを想像していた自分を奥に押し込んだ。
「はい、大丈夫です」
私が言うと、先生は椅子にどっぷりと寄りかかって私を見た。
「個人的な、というか、昔、担当した患者さんのことで、ずっと引っかかっていることがありまして……」
先生はどこかいつもとは違う表情をしていた。いつもよりも引き締まったというか、険しいというか、口元をぐっと引き締め、眉間にかすかな憂色を浮かべていた。その声もいつもよりなんだかずっと低い。
「もう亡くなられて、十年近く経つんですが、彼も同じくアルテミス欠損症でした。当時は今ほど編集技術も進んでいなかったので、何もしてあげられませんでしたが、最近になって、当時のデータを見返す機会がありまして……」
「はい」
「今の技術なら理論上、どこまでやれたんだろうと、そんなことを考えてしまうんです」
「その方の変異データがある、ということですか?」
私が言うと、先生はうんうんと頷きながら続けた。
「ええ。もちろんあくまで思考実験として、です。論文にするつもりも、公にするつもりもありません。ただ、あなたの目から見て、理論上、どの遺伝子をどう編集するのが最適だったのか、意見を聞かせて欲しいんです」
先生は私を試すようなまなざしで見つめていた。
先生が言っているのはつまり、アルテミス欠損症を回避するのに、どの遺伝子をどう編集するのが最適か――という理論上の検討を後学のためにやっておきたい、ということなんだろう。それも、すでに亡くなった患者のデータを使って……。
正直、困惑した。
アルテミス欠損症は、その家系に固有の遺伝子変異を持つ疾患だ。ある患者の変異位置に合わせた修復用のガイドRNAが、そのまま別の患者に使えるわけではない。つまり、その家系にしか存在しない固有の変異を修復できるか、それを今さら検討したところで、他のアルテミス欠損症患者に適用できるような一般化された知見は得られないのだ。そして、富田先生ほどの研究者が、それを知らないはずがない。
「あの、違っていたらすみません。アルテミス欠損症は、その家系に固有の疾患ではなかったですか?」
私が言うと、先生は、
「ええ、ですから、方法論として一般化するためのケーススタディです」と言った。
それまで、私は心のどこかで、「もしかしたら、実際の症例への適用かもしれない」と思っていた。なぜこのタイミングで過去の症例を検討するのか、その結果を使って何をするつもりなのか、先生の話の意図に不自然さを感じたからだ。でもその疑念は、『ケーススタディ』という先生の一言で、自分でも驚くほど簡単に消えてしまった。ケーススタディであるなら、個別の症例を見るのも別におかしなことではないと、画面の向こうで寂しそうに笑う先生の顔を見て、そう思ってしまったのだ。
「なるほど……。今取り組んでいるマーモセット研究の枠組みとは別に、ということですよね?」
「はい。ですので、無理にとは言いません。一医師としての未練だと思っていただいてかまいません」
今思えば、ここで断っていればよかった。
本当に、ここで断っていればよかった――。
でも私は、これまで積み上げてきた先生との信頼関係を壊したくなかった。将来的には自分の実績として残るはずの国際的な研究が進行している中で、駆け出しの研究者が、自分よりも遥かに格上の研究者からの依頼に応えない理由などあるだろうか。もちろんこの時点で、どれだけの人間が先生の嘘を見抜けたか、という問いは残る。断片的な情報だけで、すぐに個別の症例を考慮しているに違いないと結論付けるのは早計だろう。ここにあるのはほんの少しの違和感だ。日頃から様々な遺伝的疾患を扱っていたから気付く違和感、でも確証を得るには至らない違和感。私は倫理的な懸念よりも、打算的な思惑を優先したのだ。
「分かりました。見てみます。データを送ってください」
「助かります。こんな話、あなたにしか頼めなくて」
「大丈夫です。やるからにはできるだけのことはします」
富田先生が巧妙だったのは、一つ一つはなんてことのない小さな依頼を小出しにしてきたところだ。それも、二月、三月、四月と、ちょうどマーモセットの業務が落ち着いてきた頃に相談された。
たとえば二月には、「どこを直すのが最適か?」と、修復用ガイドRNAの設計をお願いされ、三月には、「この結果、あなたの目にはどう映りますか?」と、培養細胞の編集結果を見せられた。四月には、「もう少し精度を上げるとしたら、他に候補はありますか?」と、追加の設計を依頼され、その後、再検証結果の解釈をふたたび求められた。その間、マーモセットの方は、切断効率にも、オフターゲットの確認にも問題はなく、すこぶる順調に移植プロトコルが進んでいたから、私にとっては、多少の違和感はあるものの、先生からの雑用をこなす程度の感覚でいたことも、今考えれば、問題だったと思う。
ところが七月になると、その違和感は無視できないものとなった。七月に先生から送られてきたデータは、これまでと明らかに『顔つき』が違っていたからだ。
データを開いた瞬間、一目で分かった。三月と四月に送られてきたデータと比べて、場所によって読み取りの深さが異なる『ムラ』があったのだ。ムラだけではない。本来はヘテロ接合を持つべき場所に、片方の配列だけしか検出されていなかった。これはアレル・ドロップアウトと呼ばれる現象で、通常のシーケンス処理に必要なDNAの量が足りない時に、その量を人工的に増やすと見られるものだ。つまり、このデータは培養細胞のものではない。
「データを見てみたんですが……、なんというか……、これは本当に培養細胞のものですか?」
私が言うと、先生は画面の向こうで天井を見上げて考え込んだ。そして、それからしばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「モデル細胞での結果は良好でした。しかしそれはあくまで人工的に変異を再現したものです。最後にどうしても確認しておきたかったんです――実際に、患者由来の遺伝情報で試したら、同じ結果になるのかどうかを」
私の予感は的中した。データは培養細胞のものではなく、ヒト由来のものだったのだ。
「先生が担当した患者さんのことですか?」
「そうです。お恥ずかしい話ですが、まとまった量の検体はもう残っていなかったんです。血液も、組織サンプルも、当時のものはとうに廃棄されていました。唯一、手元に残っていたのが、新生児マススクリーン用の血液カードだけでして……」
「それはどういったものですか?」
「赤ちゃんに先天性の疾患があるかどうかを調べるためのものです。生後数日で採血しますが、ごく微量の血液しか採取しないので、DNAの量を増幅させてシーケンサーにかけました。粗いデータになるのは承知の上です」
理屈としては通っていた。ごく微量の血液からゲノムを読もうとすれば、増幅の過程で当然、ムラが出る。ただ、だからと言って、先生がどうしてそこまでして、その患者に固執するのかは分からなかったし、聞けなかった。
「そうでしたか……」
「無理を言ってすみません」
「いえ、大丈夫です」
私は自分の中に途轍もなく嫌な予感が膨らんできていることを知っていた。でも私は、やっぱり、それに目を瞑った。私は関係ない。私は依頼されてやっただけ、私にできることをしただけだと、まるで他人事のように、それから自分を切り離そうとした。本来なら、先生からもらったデータの中に、新生児の血液だけでは見られない局所的な偏りを見つけた時点で、辞めるべきだった。それがヒトの『胚』由来の偏りだと気付いた時点で、降りるべきだった。それでも私はそれを違和感に留め、淡々と報告書を書いた――ドロップアウトの起きている領域については、修復の成否およびオフターゲットの有無、いずれについても判定不能、との警告を添えて。
思えば、二〇二〇年という年は、本当に特異な年だった。
三月の非常事態宣言から始まり、カリフォルニア州の自宅待機命令、否応なしのリモートワークへの切り替え、そして六月には大統領令が布告された。Hー1Bを含む非移民ビザでの再入国を制限するものだ。七月には、移民税関捜査局がオンライン授業のみの留学生に対して国外退去を求める方針を発表し、大学や各種学会に所属する私たち留学生の間には動揺以上の激震が走った。ハーバード大とMITが提訴したから、当局はすぐに撤回したが、それでも、いつ覆されるか分からない不安は漠然と残った。私の周りを含めて、誰もが不安で、苛立っていて、そして孤独だった時期だ。
こうしたコービッドを巡る国や州の決定が、私に何も影響しなかったわけではない。むしろ将来の展望に、余計な判断軸が一つ追加されたという点で、私は、いや皆が不幸だった。
言い訳に聞こえるかもしれないが聞いてほしい。この時の私は、ポスドク期間終了後も、アメリカに残ることを切望していた。当時の私の滞留資格はいわゆる学生ビザ。その頃は、オプショナルトレーニングと呼ばれる就労期間が終わりに近づいていたから、どうしてもビザの更新が必要だった。通常はHー1Bと呼ばれる専門技術者向けの就労ビザに切り替える。ただ、これはさっきも言ったように、再入国ができなくなる。どうしても日本に帰らないといけない事情ができても帰れないということだ。そのうえ、Hー1Bは抽選だ。抽選に外れれば、どの道、出国できない。
パンデミックがいつ明けるかも分からない。抽選に当たるかも分からない。そういった状況で、私の担当教官であるウィットモア教授は、抽選のないOー1ビザへの切り替えを勧めてきた。Oー1ビザには抽選がないばかりか、滞在期間の明確な上限もない。私にとっては喉から手が出るほど魅力的な選択肢だったが、問題が一つだけあった。取得の要件にある、『国際的に認められる卓越した研究実績』、それだ。そう。富田先生との研究をどうしても続けたかった理由の一つに、私のビザ問題もあったのだ。
十月、コービッドが感染拡大の波を繰り返す最中、日本側からマーモセットの最終評価が届いた。
結果は良好。修復された細胞の割合はこれまで同様に安定し、クローンの偏りも認められなかった。私が設計した修復ガイドRNAの修復効率もオフターゲットも予測の範囲内。こちらが意図しない変異は確認されなかった。肝心の免疫機能についても、GMC側で十分な免疫再構築が確認されたとのことで、半年間の検証はすべて良好な結果に終わった。
私は一人、画面の前で拳を握った。画面の向こうから、皆の快哉の声が聞こえてくるようだった。自分が設計したガイドRNAによって、実際に生体の免疫機能が回復したなんて、信じられるだろうか。この結果は学術的にも臨床的にも大きな意味を持つ。ところがこの話をした時、先生はどこか上の空だった。もちろん喜んではいた。喜んではいたが、あまり嬉しそうではなかった。
「TCRレパトアの図、確認しました。多様性指数の出し方、あれで問題ないと思います」
共著者として論文の執筆に取り組み始めた頃、いつもの定期ミーティングで先生が言った。
「ありがとうございます。あと、ディスカッションの限界点の書き方なんですが、もう少し、踏み込んで書いてもいいですか? 今回、サンプルとして扱った個体数が少ない分、一般化には慎重であるべきだと思うので」
私がそう言うと、先生はうんうんと頷いた後、口元を少しだけ緩めて笑った。
「あなたらしいですね」
「はい?」
「良い結果が出た時ほど慎重になる。都合の悪いことを自分から先に書こうとする」
私は、褒められているのか分からず、先生の目をまっすぐに見つめた。
「当たり前のことだと思っていますが」
「当たり前だと思ってやれる人間は、実際にはそう多くない」
ほんの少し、会話が途切れた。
普段なら焦って埋めようとする沈黙も、その時は不思議と気にならなかった。
「平山さんは、この先のキャリア、どうするつもりですか?」
先生が言った。
無造作に伸びた髪。年代物の古めかしい眼鏡。見慣れた顔は優しく、目だけが厳しい。
「そうですね、できればアメリカに残りたいと思っています。ポスドクの延長で、Oー1に切り替えるか、あるいはグリーンカード――」
「うちに来ませんか?」
あまりに突然のことで、私は言葉を失った。
「この一年、あなたの仕事ぶりを見てきましたが、非常に感銘を受けました。仕事の判断が速くて、正確で、そしてよく気が利く。ぜひ一緒に働いてみたい。うちに来れば、今回のような検証を、もっと大きな裁量で、もっと多くのリソースで進められる環境があります。どうですか? ビザの心配をしながら数年をそこで過ごすより、ずっと建設的だと思いますが」
それは実質的なGMCへの勧誘だった。もちろん嬉しかった。嬉しかったが、その時は唐突すぎて思考の整理が追い付かなかった。東共医大のGMC――世界的にも有名なゲノム研究機関――魅力がないわけがない。
「ありがとうございます。でも少し、考えさせてください」
「もちろんです。ゆっくり考えてください。あなたほどの人が、宙ぶらりんのままいるのは勿体ないと思っただけです」
「ありがとうございます」
◇
その年の冬、カリフォルニアはふたたび深刻な状況に陥った。感染者数は夏の比ではなく、州はまた自宅待機命令を出していた。ニュースでは連日、ICUの空き病床が足りない話が流れ、医療従事者を対象とした最初のワクチン接種が始まろうとしていた。私たちの順番が回ってくるのはいつになるんだろうか、そんなことを皆で話し合った。その頃にはビザが切れて身動きが取れなくなっているよ、なんて冗談を言う友人もいた。毎日不安で堪らなかったし、誰もいない研究室に行く途中、いつもなら気にも留めない救急車のサイレンに何度も足を止めた。
O-1ビザについては、自分でも調べた。ロースクールに通う友人にも聞いたし、移民法専門の弁護士に相談もした。申請に必要な研究実績の水準や、発給までの期間も確認したが、誰も確かなことは言ってくれなかった。H-1Bよりはましだ、という程度だ。でも「ましだ」という言葉ほど心細いものはない。
ウィットモア教授にも相談した。教授は、ビザの更新に頭を悩ませる留学生を誰よりも見てきた人だから、「今のこの国の状況で、大学が君のためにビザを保証できるとは言えない」と、正直に教えてくれた。状況が変わったのだ。
私はサンディエゴの街を車で走った。
お世話になったターゲット。
週末に通ったインアンドアウト。
皆でバーベキューをしたラホヤ・ショアーズ。
サンディエゴの暮らしに不満があったわけではない。ただ、この街に私を繋ぎ止めていたものが、コービッドと共にどこかへ消えてしまったように感じた。
曖昧な期待の上に積み上げるアメリカでのキャリアか。
はたまた、確かな場所で、確かな裁量を与えられる日本でのキャリアか――。
年が明けて、マーモセット研究の目途が立った頃、私は富田先生にGMCでのキャリアを希望する旨の返事を送った。