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帰国

 二〇二一年の二月、私は約五年ぶりに帰国した。

 五年ぶりの帰国とあって、私は懐かしさや新しい発見があるのかななんて期待に胸を膨らませていたが、実際はそんな感慨に浸る間もなく、空港では事務的な手続きに追われた。というのも、この時、日本は奇しくも二度目の緊急事態宣言下にあったからだ。海外からの入国者は、帰国後、十四日間は自宅にて待機しなければならず、私も例外ではなかった。公共の交通機関を使うこともできないため、電車に乗ってこの国に暮らす人々の様子を目にすることも、日本らしさを感じる機会もなかったのだ。

 私はGMCが手配してくれたハイヤーに乗って、空港から直接、滞在先の住居に向かった。住居と言っても、家具付きの短期滞在用のマンションだ。住所や入居方法についてはGMCの事務担当から聞いていたから驚きはなかったが、まさか部屋の鍵を見知らぬ運転手から手渡されるとは思っていなかった。もちろん、鍵は封の閉じられた封筒に入っていたし、運転手が事前に合鍵を作っているとは思えなかったが、帰国したのに、誰とも会えないまま一人で入居する状況は違和感しかなく、日本に帰ってきた実感はそれほど湧いて来なかった。

 ただ一つ救いだったのは、部屋が思っていたよりも新しく、綺麗だったことだ。バス、トイレ、キッチン付きの1K。サンディエゴのアパートと比べるとたしかに狭かったが、冷蔵庫や電子レンジ、それから小さなソファやベッドもあって、ここでしばらく生活する分には十分すぎるほどの環境だった。なにより、部屋にWiFiルーターがあったことが大きい。私はアメリカからラップトップパソコンを持ち帰っていたから、GMC側とのやり取りはそれを使ってやろうと思っていた。でもそのためにはWiFiが必要になる。重いスーツケースとボストンバッグを抱えて、やっとの思いでここまで来た私にとって、一からレンタル先を探さなくて済んだのは良いサプライズだった。

 それだけではない。なんと部屋にはラップトップPCも用意されていた。

 壁沿いにある小さな一人用デスクの上、そこに厚みのある大きな白い封筒と一緒にそれはあった。白い封筒の表には『東亜共栄医科大学附属ゲノム医療センター』の文字。封を開けると、中には研究所の冊子や入職関係の書類がたくさん入っていた。雇用契約書や研究所の規則、守秘義務に関する書類等だ。給与振込口座とか、保険や税務関連の書類も同封してあった。

 そして封筒の底に引っかかって逆さにしてもなかなか出てこなかったICカード。写真はアメリカで撮ったものだったが、私の顔は恐ろしいくらいに強張っていて、少し懐かしさを覚えた。あの時はたしか、GMC側からの細か過ぎる指示に完全に打ちのめされていた。それくらいええやないと思う私と、いや公的証明なのだからきちんと指示に従うべきだという私が頭の中で言い合っていた。結局は指示に従って撮ったのだが、この写真を見て笑ったアレックスは地獄に行けばいいと思っている。

 日本に帰ってきた懐かしさはなく、アメリカにいた頃の懐かしさばかりがこみ上げた。昨日までサンディエゴにいたことが信じられない。ましてや今、東京のどこかにあるマンションで、GMCの冊子に目を通している自分など、現実とは思えなかった。私は窓から見える灰色のビル壁を眺めながら、玄関で靴を脱ぐ習慣や、やたら細かい収納、茶碗や箸、電子レンジの日本語にも、これから少しずつ慣れていかなければならないだろうと、そう思った。

 

 荷物を置いて最初にしたのは、GMCへの連絡だった。手持ちのスマホから無事に着いたことをメールし、段ボールに入った食料品を感動しながら眺めていると、すぐに返信が来た。返信をくれたのは私の事務担当者。リンクからZOOMに移動すると、綺麗な女の人がいた。

 彼女はとても丁寧で親切だった。初めて行ったアメリカのスーパーで「ゆっくりでいいわよ」と笑顔で言ってくれた女性を思い出したくらい、私にとってはありがたかった。一人で不安な時ほど、優しい他者の存在は心強いものだ。私は彼女に教えてもらいながら、提出書類の記入や支給されたPCのセットアップなど、一つずつ済ませていった。

 

 研究所のメールアカウントが発行されてからは、イントラネットやら、データベースやら、研究ジャーナルやら、様々なアクセス権の認証手続きを行った。私が配属されたところは『ゲノム情報解析部』という部署で、私はどうやらそこの『特別主任研究員』という立場のようだった。特別主任研究員が具体的に何をするのかまでは分からなかったが、研究に必要なデータサーバーへのアクセス権は概ね付与されるようだった。さすがは国内屈指の研究機関と言うべきか、サーバーへのアクセス権は職位や所属先によって細かく制限されている。私は十個近くあるサーバーに一つ一つ認証作業を繰り返した。作業中はまるでジェームズ・ボンドになったような奇妙な感覚を覚えたが、窓の外へ目をやれば、窓から見えるビル壁は味気なく、また部屋にはまるで生活感がなく、ジェームズ・ボンドというよりも、ウォルター・ミティか、とも思った。

 

 PCのセットアップが済んでしばらくすると、富田先生から連絡があった。私が入るプロジェクトの説明とチームメンバーの顔合わせをするとのことだった。私はどんな人たちなんだろうと緊張していたが、アメリカにいた時の感覚から、どんな人であれ、きっと上手くやれるだろうという自信はあった。

 後日、指定された時間にZOOMに入ると、すでに全員が画面の前で待機していた。そして彼らの顔を見た私は少し不安を覚えた。画面に映っていたのは私と先生を含めて六人。一人もリラックスした様子はなく、まるでそこに見えないヒエラルキーが存在しているかのような緊迫した空気が流れていたからだ。

 軽い自己紹介と歓談の後、先生はこう切り出した。

「では、皆さん、揃ったということで。今日から新しく加わる平山さんも含めて、あらためて、このプロジェクトについて説明します。本プロジェクトのテーマは、先天性の重篤な遺伝子疾患に対する、ゲノム修復技術の開発です」

 先生はそう言うと、眼鏡の奥に真剣な目を覗かせた。

「対象となるのは、不妊治療の過程で生じた余剰胚――ご家族の同意を得て、本研究に提供していただいたものに限ります。着床は一切行いません」

 着床は行わない。なるほど、皆はすでに知っているのだろう。驚いている様子は一つもなかった。この説明はおそらく、私に向けてのものだ。

「世の中には、望んでも子どもに恵まれないご夫婦が一定数いらっしゃいます。特に年齢を重ねてからの治療において、その割合は決して小さくない。ところが現状の医療では、そこで『申し訳ありませんが――』とお願いするしかない。不妊治療がどれだけ過酷かは君たちも知っているでしょう。一回のサイクルに数カ月。治療に、三、四年費やすご夫婦も少なくない」

 そこまで聞いて、私はプロジェクトの概要をおおよそ理解した。要するに、このプロジェクトでは、着床前診断で異常が見つかった胚を扱うということなんだろう。異常が見つかったというか、重篤な遺伝子疾患を発症する可能性が高いとされた胚だ。

 編集対象が『胚』と聞いて、私は怖くもあったし、嬉しくもあった。

 私がこれまで扱ってきた対象はすべて『体細胞』だ。受精後の胚を編集したことはない。胚の編集が法律で禁止されていたからというのもあるが、胚には決して手を出してはいけない禁断の果実という印象があった。もちろん今回は、先生が言うように着床を行わない。つまり、次世代に影響が残ることはない。それでも、培養細胞、マウス、マーモセットと遺伝子を編集してきて、ようやくたどり着いたヒトの『胚』に、惧れや躊躇いといった感情がないわけではなかった。

 先生が続ける。

「海外ではすでに、ヒトの受精卵における病原性変異――たしか肥大型心筋症だったと思いますが――、それをクリスパーキャス9で修復した事例があります。ネイチャー誌だったかな、気になる人は読んでみてください。これの意義は、体外受精および着床前診断の過程を補完できる可能性にあります。そういったご夫婦の心理的、経済的な負担を減らすことができるんです。いいですか。我々がここで目指すのは、いつか我が国でもこの技術が不妊治療の選択肢となった時のために、今日、この日から、その安全性と精度を、徹底的に検証しておくことです」

 先生の言葉には熱がこもっていた。私が知っていた先生は、あまり感情の浮き沈みがなくて、いつもどっしりと落ち着いている印象だったから、少し意外でもあった。でも一方で、先生が昔、小児科医をしていたのは聞いていたし、その時に、救うべき子を救えなかった経験をしたことも、それがきっかけで、今のゲノム医療や再生医療の研究に舵を切ったことも知っていた。だからこの時、先生は不妊治療で悩んでいる夫婦と生まれてくる子どもを本気で助けたいんだろうと思ったし、そういうことであれば、私だって全力を尽くす、そう思った。神に誓いを立てる感覚とでも言おうか。私の中にも火が灯ったのだ。

「木田くん、あなたにはこれまで通り、胚の培養、微量注入をお願いします」

「はい」

「指原さんは、胚編集後の確認検査」

「はい」

「宮下くんには、候補となる疾患のデータ整理と、シーケンスデータの一次処理を。野坂さんには、検体と機材の管理を、引き続きお願いします。それから平山くん――」

 先生の視線が、突然、画面の中の私に向いた。急な「くん」呼びがかすむほど、私の心臓がびっくりする。

「はい」

「君には、編集戦略とガイドRNAの設計、そしてオフターゲット評価をやってもらいます」

「分かりました」

 でもその驚きはすぐに消えた。

「ここがまさに、これまでこのチームに欠けていた部分です」

 そう言って、先生が微笑む。

 その笑顔を見て、私は自分の居場所を見つけたような誇らしさを覚えた。

「地道な仕事です。でもいつか、選ぶことのできなかったご夫婦に、もう一つの選択肢を与えられるように、それができるようになるための重要な仕事だと私は思っています。よろしく、お願いします」

 

 それから私は、先生から受け取った、それまでの研究資料を読んで過ごした。

 日本のレトルト食品の美味しさにあらためて感銘を受けながら、一人で論文を読んだり、調べ物をしたりしていると、ふとした瞬間に、サンディエゴの暮らしを思い出すこともあった。エミリー、アレックス、マテオ。友人達の顔が浮かんだが、未練はなかった。これは自分で決めたこと、寂しさを乗り越えてこその挑戦やないか、そう自分に言い聞かせた。世界有数のゲノム医療研究機関、そんなところで働けるなんて、私は恵まれている。綺麗なバスと清潔なベッドがあって、美味しい食事が食べれて、これ以上、何を望むというのか。パンデミックの渦中とはいえ、ここまで用意してくれたGMCには感謝しかなかったし、そんなところに私を誘ってくれた富田先生には、恩義以上の思いもあった。その思いに背くことなんてできない。

 私は資料に目を通しながら、メールとZOOMでやり取りをしつつ、自宅待機の十四日間を一度も外に出ることなく、着任の準備に当てた。

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